第28話 大胆で勇敢、少々やんちゃで頑固な面もある柴犬は、洋犬に比べて躾が入りにくい面があります。しかし主人に対しては大変忠実なため、上下関係のけじめをつけて接することで良好な関係を築けます。

「こんにちは。アリョーナのご予約ですか?」


 亜依奈さんからの突然の電話に、ぎゅ、と受話器を持つ手を握り直し、努めて営業用の声色を使った。


「いいえ。アリョーナのシャンプーは来週馨にお願いしてあるから、馨から予約が入ると思うわ」


“馨” という彼の下の名前をさらりと私へ向けてくる。

 わかりきったことだけど、やっぱり彼女は今でも池崎さんと会っている。

 アリョーナの受け渡しのためだろうか。

 それとも──


「今日はココちゃんにお話があってお電話したの。

 お店を抜けてお話できるタイミングはあるかしら」


 その言葉に、心がますます固くなる。


 手元の予約表を確認する。

 空白が多い本日のページを見つめても、頭の中が混乱していてなかなか時間の確認ができない。


「え……っと。17時くらいなら、30分くらい抜けられそうですけど」

「じゃ、17時にシャインロード商店街のコーヒーショップで待っているわ」


 受話器の向こうがツーツーという機械音に変わった後も、私はしばらく受話器を耳から離せずにいた。


「どうして……? 話ってなんだろう……」


 私に池崎さんを奪ってくれと言った亜依奈さん。

 応援してるわ、と大人の笑顔を見せた亜依奈さん。



 心も体も、池崎さんに甘えていると言っていた亜依奈さん──




 いったい私に何の用があるというのだろう?



 🐶



 買い物から戻ってきた母に店番を代わってもらい、私は指定されたコーヒーショップに向かった。


 早まる鼓動に合わせて、向かう足取りも自然にせかせかと早くなる。

 会って話を聞きたいような、会わずにこのまま戻ってしまいたいような、胸をかきむしりたくなるようなそわそわを抑えきれない。

 肩にかけたポシェットがぽんぽんと揺れるのをぎゅっと押さえて、できるだけ深く息を吐く。


 緊張しながら自動ドアをくぐると、奥の壁際のソファに座ってこちらを向いていた亜依奈さんが私を見つけて美しく微笑んだ。


 池崎さんが編んだであろう、ボルドーの深い色が優美なニットボレロを羽織っている。

 仕事用の半袖Tシャツとジーンズにパーカーを引っ掛けてきただけの私は、向かい合う前にすでに勝敗を決められたような惨めな気持ちになった。


「突然お呼びだてしてごめんなさいね? お店忙しくなかった?」

「大丈夫です。それよりなんでしょう?お話って」


 水を運んできた店員さんを見上げて、出てくるのが一番早そうなブレンドコーヒーを注文する。

 この人の前から一刻も早く立ち去りたいと思っている時点で、きっと私は気持ちの上で負けている。


「どう? 最近馨とうまくやってる?」

 先に置かれていた真っ白なティーカップをダークピンクの綺麗なネイルの指先でつまみ、つやつやの赤い唇へゆっくりと運ぶ亜依奈さん。


「うまくも何も……。

 お付き合いしてるわけではないので」

「そうなの?

 最近馨の笑顔が随分柔らかくなったから、てっきりココちゃんと付き合い始めたのかと思ったわ。

 馨の編んだ作品も今シーズンはまだもらっていないし」


 臨戦態勢で鎧を着込んだ心の隙間に、亜依奈さんの言葉がするりと入り込んできた。




 池崎さんの笑顔が柔らかくなった…?

 それに、最近は亜依奈さんに手編み作品を渡していない?




“特に誰に渡そうと考えて編んだわけではなかったな”


 池崎さんの言葉を思い出す。


 フィヨルドのように入り組んだ亜依奈さんへの思いは、本当に少しずつ削れてきているのかも…


「いずれにしても、当初の私の思惑通り、馨は私に依存してこなくなったのよ。

 ココちゃんのおかげだわ」


 亜依奈さんの穏やかな笑顔に拍子抜けした。




 あれ?

 何か挑発的なことを言われると思って身構えてたのに……

 わざわざそのお礼を伝えに来てくれたってこと?




 注文したブレンドコーヒーが目の前に置かれる。

 こんなことなら大好きなキャラメルマキアートにして、ゆっくりお茶すればよかったかな……。


 ミルクと砂糖を入れたカップをスプーンでかき混ぜているときだった。


「でもね。一つ困ったことがあって」


 亜依奈さんが美しい苦笑いを浮かべながら、漆黒の瞳を私に向ける。


「困ったこと……ですか?」


 アリョーナがいるから、完全に会うのをやめられないとか、そういうことかな?


 心の鎧を外しながら、そんな能天気なことを予想したときだった。


「前にココちゃんに話したことあったでしょう?

 私は一途に思われる恋愛よりも、追いかける恋愛の方が性に合ってるって。

 困ったことに、馨が私から離れていくって感じた瞬間に、追いかけたくなっちゃったのよね。馨のこと」


「なっ……!」


 外しかけた鎧の隙間めがけて、ものすごい威力の矢が放たれた!


「なに勝手なこと……!」

「自分でも気まぐれな性格なのはわかってるのよ?

 それに、ココちゃんに馨を奪ってってお願いした以上、二人がすでに付き合ってるなら黙って身を引こうと思ったの。

 でもまだ付き合っていないのなら、私が前言撤回しても問題ないわよね?」


 にっこりと微笑みながら、優雅な振る舞いで紅茶を飲む。


「問題ありますよ! 貴女は池崎さんのことを一度突き放してるんでしょう? それを今さら……」


「失いそうになってわかったの。

 馨が傍にいることで、私は安心感や幸せを与えてもらっていたんだって。

 それに、もし馨にも私への気持ちが残っているのなら、私とよりを戻せることは彼にとっても幸せなことでしょう?」





 あの日のデートで池崎さんと眺めた、イソギンチャクとクマノミを思い出した。


 共生し、幸せを与え合う関係──


 池崎さんと共に幸せを分かち合うのは、私じゃなくて目の前のこのひとなの──?







 池崎さんの笑顔が心に浮かぶ。








 笑い上戸のスイッチが入ったときの、止まらなくて少し苦しげな笑顔。


 アイコンタクトを交わしたときの、含みを持った穏やかな笑顔。


 冗談を言ったときの、いたずらっぽさを含んだ笑顔。


 カフェのパンケーキのメニューを見落としていて、気まずそうに頬をかいたときの笑顔。


 アリョーナと戯れながら、時折ふとこちらを見て白い歯をこぼす、少年のような笑顔──






「私だって」






 矢が突き刺さったままの胸からなんとか声を絞り出す。


「私だって、彼を幸せにできます!

 私は彼を裏切らない!

 貴女みたいに彼を突き放したりしない!」


 ポシェットからお財布を出して立ち上がる。

 千円札を取り出しながら「お釣りはいりませんから……」と言いかけたとき。


 そのひとがすっと立ち上がり、テーブルの伝票をさっと手に取った。


「私はもう飲み終わったから失礼するわ。

 こちらが呼び立てたんだから、お代は払わせてね。

 コーヒー来たばかりなんだし、ココちゃんはゆっくりしていって」


 手を振るように伝票をひらひらと振ると、彼女は隙のない優雅さをまとったまま会計カウンターへ向かっていく。


 カツカツと高らかに響くヒールの音が彼女の気の早い勝利宣言のように聞こえて、私の耳の奥にいつまでもこびりついて消えなかった。

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