第13話 イングリッシュコッカースパニエルは略して “インギー” とも呼ばれる、鳥猟犬の中では最小サイズのスパニエル種です。

「いらっしゃいませ!」


 予約時間を5分ほど過ぎたときに、店の扉が開いた。

 入ってきたのはアリョーナと、十日ほど前に池崎さんとドッグカフェにいた女の人だった。


「あ……、アリョーナちゃん、ですよね?

 今日ご予約は……」

「14時から笹倉でお願いしてありましたよね? それ私なんです」

「あ。そうだったんですね」


 確かに予約表に母の字で書き込まれていたのは、笹倉さんという名前とボルゾイという犬種名だった。


 池崎さんが前に言った “アリョーナの別宅” とはこの人のことだったんだ。


「こちらのサロンならアリョーナが嫌がらずに行くってかをるに聞いてたけど、本当ね。自分からサロンに入って行くのを初めて見たわ」


「アリョーナちゃん、いつも良い子でシャンプーさせてくれてますよ。

 ……顧客カード、アリョーナちゃんにはご登録いただいてますけど、シャンプー終了のご連絡を入れるために電話番号をお聞きしてもよろしいですか?」


 精一杯の営業スマイルで紙とペンを差し出すと、彼女は名前と携帯電話の番号をさらさらと書いた。


 笹倉亜依奈あいな


 それが彼女の名前だった。


「じゃ、よろしくお願いします」

「はい。お預かりします」

 黒く大きな瞳を細めて軽く会釈をすると、笹倉さんは店を出て行った。

 私は営業スマイルを崩さず、普段どおりの応対ができたはず。


 ……だけど。


 ねぇ、優希。


“ニット王子に直接聞いてみなくちゃ、あのひとが恋人かどうかはわからないでしょ?”


 優希はそう言っていたけど、聞かなくてもわかってしまったよ。

 だって、“アリョーナの別宅” なんだもん。あのひと。


 私の取り付く島なんて、やっぱりどこにもなかったよ──。


 🐶


 こないだ二人を目撃して、すでに心の準備ができていたせいなんだろうか。

 アリョーナのシャンプーは、思ったよりも平常心のまま終わらせることができた。


 池崎さんへの気持ちが深まる前に彼女の存在がわかって、かえって良かったのかもしれない。

 今ならまだ、池崎さんと普通に接していけるようになるはずだ。

 最初のうちは心がちくちくしてしまうだろうけれど、きっとそのうちそれもなくなる。


 池崎さんを思う時間も、きっと少しずつ減っていく。


 きっと。

 きっと──。


 🐶


 シャンプーが終わってトリミング台を掃除していると、カランカランとドアのカウベルが鳴る音がした。

 チョコ太郎が、“お客さんだよ!” とワンワン吠えて知らせている。

 きっとさっき連絡を入れた笹倉さんだ。


「瑚湖、出られる?」

 シーズーのカットをしながら声をかけてきた母に「うん」と答えて、私はカウンターへ出て行った。


「お待たせしました。今日もアリョーナちゃんは良い子にシャンプーできましたよ」

 梅雨時だけど気分は明るく、と選んだオレンジ系のストライプのスカーフ。それを首に巻いたアリョーナを笹倉さんに引き渡す。


「ありがとう」

 海外の高級ブランドのロゴが光る黒いショルダーバッグから笹倉さんがお財布を取り出す。

 お財布も同じブランドの高級品だ。


 背筋がぴんと伸びていて、私が背伸びをしても追いつくことができないような大人の上品さ。

 それでいて、しなやかな野性味を身にまとった、他人に媚びない雰囲気。

 顔立ちの美しさ。印象的な大きな黒い瞳。

 肩の下で切りそろえられた艶やかな黒髪。

 見るものを惹きつけて離さない魅力がある。

 そう、本当に彼女は美しい黒猫のようだ。


 思わず見蕩れている私に目を合わせて、彼女は小首を傾げて微笑みかけてきた。


「ちょっとだけ、今お話できる?」

「えっ?」

「馨のことなんだけど」


 平静を装っていた私のわずかな変化を見て、彼女は一度つないだアリョーナのリードの金具を外した。

 再び自由になったアリョーナは、チョコ太郎を伴っていそいそとウッドデッキに出て行った。


「あなた、ココちゃんっていうんでしょう?

 馨から聞いたわ。可愛いお名前ね」

「ど、どうも……」


 話の行方が見えなくて困惑する私に、笹倉さんは再び小悪魔のような微笑みを向けてくる。


「単刀直入に言うわね。

 ココちゃん、私から馨を奪ってくれないかしら」


 ……!?


 池崎さんを奪う???


「それって、どういう……」

「こないだカフェでお会いしたでしょう。

 私、けっこう勘が鋭い方なの。

 ココちゃんはきっと馨のことが好きなんだろうなって思って」


 視線をそらすことを許さない眼差しで、はっきりと告げられる。

 笹倉さんはそのまま言葉を続けた。


「私と馨の家は近所で幼馴染みなの。

 アリョーナは元々うちの犬なんだけど、二年前に両親が祖母の介護のために九州の田舎に引越しちゃってね。でも、アリョーナは私や馨に一番懐いていたし、田舎の方じゃアリョーナを通わせるトリミングサロンもドッグランもないし、彼女は私とこっちに残ることになったの」


「ただ、私はキャビンアテンダントだから、国際線に搭乗するときは数日間家を空けなくちゃいけないし、国内線の仕事も時間はかなり不規則だし。

 だからしょっちゅうアリョーナを馨の家に預けててね。

 今では馨の家の方が本宅なんじゃないかっていうくらいよ」


 可笑しそうに笹倉さんがふふっと笑う。

 けれど、私はどんな顔をしていいのかわからない。


「それで、どうして私に……」

「私と馨は幼馴染みでもあるけれど、元恋人同士でもあるの。

 三年間付き合って、別れたのは一年前よ」


 ショックというよりも、納得。

 ドッグカフェで二人を包んでいたあの空気は、愛し合った男女にしか出せないものだっていう気がしてたから。


「今お二人がお付き合いしていないのなら、奪うとか、そういうことではなくないですか?」

「そうね。ただ、付き合ってはいないけれど、未だにお互い依存しあっている」

「依存……?」


「馨はね、幼馴染みの頃から私のことをずっと好きだったって言うの。馨が大学を卒業して地元に戻ってきたとき、私は当時の恋人と別れたばかりでね、それをきっかけに馨と付き合うことになって。気心も知れてるし、最初は楽だったんだけれど、だんだん私が疲れてきたのよ」

「……どうして……?」

「私は想われる恋愛より、自分が追いかける恋愛の方が向いてるのよね。

 いつも私のことを一番に考えてくれる馨の愛情がだんだん重くなってしまった」


 そうだったんだ……。


 池崎さんの失恋は、私と同じ理由だったんだ――。


「でもね、私が疲れたからっていう一方的な理由で別れたのに、馨は全く変わらないのよ。私に優しいの。私を受け入れるの。

 だから私も、彼につい甘えてしまうの。

 心も、体も……」


 その言葉に顔が熱くなる。

 体がすくむ。


 この人は、“体も” なんてさらりと言えちゃうくらい大人なんだ。

 そして、そんな彼女と関係を続ける池崎さんも。

 私の “好き” なんて気持ちは、二人の前では子どものお絵かきみたいに実体がなくて拙いものだ。


 でも──


「このままじゃ、私も馨も依存から抜け出せないわ。

 だからココちゃん。あなたにお願いしたいの。

 お願いだから、私から馨を奪って」

「そんな……!」

「馨があなたのところへ行けば、馨は私を受け入れなくなるわ。

 そうすれば私も彼に甘えなくてすむ」


「勝手じゃないですか!? それ」


 頭に血がのぼっていた。

 握りしめた拳の中で、切りたての爪がてのひらにぎりりとくい込む。


「池崎さんの気持ちを無視して私にそんな話を振るなんて、池崎さんにも私にも失礼なんじゃないですか?」


 言葉を選ぶ余裕がない。

 沸き上がる言葉をそのまま吐き出す。


「確かに私は池崎さんが好きです。

 すごく拙い思いだし、池崎さんには届かないかもしれない。でもこれは、私にとってはとても大切で純粋な気持ちなんです。

 それをあなたと池崎さんとの関係を終わらせるための道具になんて使われたくない!」


 そう。

 上手く踏み込めない、なかなか届かない、私の拙い思い。

 でも、私はやっぱりこの気持ちを大切にしたい!

 純粋で濁りのないままで、池崎さんにまっすぐ向けていきたい……!


 彼女の目ヂカラに負けじと睨みつけているつもりなのに、

「やっぱり可愛いわ。あなた」

 美しいネイルが施された指先を唇にあて、笹倉さんはくすりと笑った。


「気を悪くさせてごめんなさいね。勝手なことを言っているのは重々承知の上よ。

 ただ、私がこう思っているってことをあなたも知っておいた方が、この先私たちに遠慮なく動けるでしょう?

 応援してるわ。頑張ってね」


 彼女はにっこりと微笑むと、アリョーナを連れて店を出て行った。


「今度は馨にアリョーナを連れてきてもらうわね」

 と言葉を残して。

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