第3話 ボルゾイはロシア語で「俊敏」の意を持ち、その走行能力は馬よりも勝ると言われています。サイトハウンドと呼ばれる犬の一種で、優れた視覚で獲物を追いかけることができる猟犬です。


 「池崎さんに名前を聞かれた……!」


 それがどういう意図かわからないけどっ

 なぜ苦笑いになったのかわからないけどっ

 夢に私が出てきたっていう言葉は謎のままだけどっ


 でも、名前を知ってもらえたって、ちょっと前進なんじゃない……!?


 初めて私を呼んでくれた「君」って言葉。

 初めて私に向けられた笑顔(苦笑いだったけど)。


 頭の中で何度もリプレイする。


 ああ、やっぱり彼の笑顔をもっと見たい。

 いつかあの声で「ココ」って名前で呼ばれたい。


 今まで顧客カードでの情報しか知らなかった池崎さんがほんの少し身近になっただけで、こんなにもドキドキが加速してる。


 これなら、お迎えの時に勇気を出してドッグカフェに誘えそうな気がする……!


「ちょっと瑚湖~! こっち来てくれる~?」


 母の呼ぶ声ではっと我に返った私は、カウンターを離れてトリミングルームに入った。


「どうしたの?」

「やっぱりアリョーナちゃん、瑚湖じゃないと嫌みたい。

 ドッグバスに入ってくれないのよ」


 壁際にある、ステンレス製の大きなドッグバス。

 その前に立つアリョーナのリードを母が引っ張ってステップに上らせようとするけれど、アリョーナは “嫌よ!” とばかりに細長い四肢を突っ張って抵抗している。

 メスとは言っても体重は30キロを越えているから、抱き上げて無理やり入れるのも難しい。


「アリョーナ、シャンプー気持ちいいよ~。中に入ろ?」


 母からリードを受け取って、私がアリョーナの背中を撫でながら話しかけると、アリョーナの足の緊張がほどける。

 ゆっくりとリードで誘うと、アリョーナは大人しくステップを上ってドッグバスに入った。


「私の方がシャンプー上手いはずなのに、どうしてアリョーナちゃんは瑚湖じゃないとダメなのかしら」

 トリマー歴20年、独立開業して15年の母が納得いかないといった顔で腕組みをする。


 私にもなぜかはわからないけれど、アリョーナになつかれているのはとても嬉しい。

 池崎さんも、アリョーナみたいに私に好意的になってくれたらいいのにな。


 アリョーナのような長毛の大型犬をシャンプーするのはかなりの労力を使う作業だ。

 グルーミングは母がやっておいてくれたので、全身くまなくマッサージしながらシャンプーをし、よーく洗い流してトリートメント。再び洗い流して、タオルドライ。

 犬は濡れるとぶるぶるっと全身を震わせるけれど、アリョーナクラスになると飛ぶ水しぶきの量もハンパない。

 とりあえずぶるぶるされる前にすかさず毛を絞り、タオルをあてて、できるだけ水分を取ってから盛大にやってもらう。

 タオルドライの後、ドライヤーで丁寧に乾かしていく。

 時間をかけて、アリョーナの高貴で美しい被毛に艶とコシが戻ってくる。


 シャンプーコースの仕上げに、全身が白くて薄茶色の大きめのワンポイントが背中に入ったアリョーナに似合うスカーフを選ぶ。


「今日はラベンダー色にしよっか」

 アリョーナに話しかけながら首元に巻くと、“似合うでしょ?” と言いたげに、アリョーナは優雅で姿勢の良いおすわりをした。


 母の開いた【ドッグサロン&ホテル ルシアン】は、お預かりしたワンちゃんを狭いゲージには入れず、なるべくのびのびと過ごしてもらうことをモットーにしている。

 怖がりな子や他の子に危害を加えそうな子は、柵で分けたスペースで過ごしてもらうこともあるけれど、ほとんどの子は店内とそこから続くウッドデッキを自由に行き来している。

 今日で来店三回目のアリョーナもうちの店の雰囲気に慣れてきたのか、チョコ太郎や本日お泊まりのキャバリアのミクちゃんと臭いをかぎあい交流を図っていた。


 次の予約のチワワちゃんの爪切りをしているときに、カランカランと入口のドアのカウベルが鳴った。


 池崎さんだ!!


「お母さん! ちょっと変わって!」

 掃除をしていた母に続きを頼んで、慌ててカウンターへ向かう。


「ありがとうございました」

 私を見て、いつもどおり微妙に口角を上げるだけの池崎さん。


 あれ?

 このクールな表情……

 さっきは少しだけ池崎さんに近づけた気がしたのに、また元の位置に戻ってる……?


「アリョーナちゃん、今日も良い子にしてましたよ~。

 デンタルの方も歯石はなかったので、これからもおうちでの歯磨き続けてくださいね」


 さっきの位置まで何とか距離を縮めたい!

 心の中で焦りつつも、鏡の前で練習した精一杯のスマイルを見せる。


 それなのに、池崎さんは私の渾身のスマイルは全く気にとめない様子で「わかりました」と短く答えると、ふいっとアリョーナに視線を移した。


「アリョーナ、綺麗になったな!」

 とスカーフを巻いたアリョーナの首元を笑顔でわしゃわしゃと撫で回している。


 このままじゃ終われない。

 せっかく距離を縮められそうなんだもの。


 お願い!

 その本気のスマイル、こちらにプリーズ!!


「あのっ!」


 拳を握りしめ、勇気を振り絞って少し大きめの声を出すと、池崎さんが再びこちらに視線を向けた。


「霞が原公園の近くに、素敵なドッグカフェができたんです!

 よかったら今度ご一緒……」


「あー……」


 本日三度目。

 言い終わらないうちに遮られる。


「アリョーナ、神経質だからドッグカフェは苦手なんだ。ごめんなさい」


 微妙に口角を上げる表情が、少し困惑の色を含んでいた。


「あっ……そうなんですか~。

 アリョーナちゃん、デリケートですもんね~」


 ダメージを必死で隠す私の受け答えをさらりと払うように彼は立ち上がると、お財布をズボンのポケットから取り出した。


「じゃ、またお願いします」

「あ、りがとうございました……」


 会計を済ませると、池崎さんはアリョーナを連れてさっさと店を出ていってしまった。

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