第2話 勇者、拘束される
頬に冷たい何かが当たるのを感じ取り、勇者は目を覚ました。身体に気怠さが残り、横たわったまま視界が開けていく。何やら仄暗い闇の中にいるような空間が目に入り、自分はどうなったのかをゆっくりと思い出していく
バエルと戦って、力尽きたことを思い出すと勇者は身体を引き起こす
すると、身体が動くのと同時に金属が擦れる音が鳴り響いた。勇者は手首に巻きついている手錠の存在にようやく気付いた
足首にも同じ物が付けられており、手錠と足枷に付属している鎖は背後にあるレンガの壁に括り付けられている
これが先程の金属音の正体であった。勇者は鎖を引っ張るが、とても切れそうにも無かった
逆に肉が挟まり、痛いほどだ。どうやら、ここは牢屋のようで、少し先に鉄の棒が縦にいくつも天井から床に突き刺さっている
魔法を詠唱しようにも、ご丁寧にも手錠と足枷両方に魔力を封じ込める魔封石が埋め込まれている
勿論、装備も全て奪われているようで、身に着けているのは鎧の下に着けていたシャツとズボンだけであった
勇者は己の不甲斐なさを後悔しながら、項垂れる
「くそっ! 魔王め、私をどうする気だ」
それよりも、心配すべきことがあった
勇者は床を見つめながら、エレメンタリアの事を案じていた
御札によって、ビッツたちは帰還したであろう。今頃はどうしているであろうか
まさか、体勢を立て直した魔王が軍勢を率いて侵略を再開しているのではないか
各国に報告は伝わったであろうか。誰か恐怖に怯えていないであろうか
次々と湧き上がる不安に悶々としていると、首筋に何かが垂れ落ちてきた
勇者は短い悲鳴を上げて、何が落ちてきたかと万歳をするように手錠を上げ、頭を上手く潜らせて首筋を触れた。濡れている
上を見れば、どうやら天井から水漏れがしているようだ
湿ったような空気、薄暗さ、水漏れ。つまり、ここは地下だということが勇者には理解出来た。勇者は自分がどこへ連れて行かれたかを段々と理解し始めていた
ふと、誰かが降りてくる気配を感じ取り、牢屋の出入り口の方を見る。警戒を怠らず、見つめているとやってきたのは、勇者をここまで追い込んだ張本人であった
「気分はどうだ?」
「魔王!」
勇者はその姿を見るや否や、鬼の形相でバエルへと飛び出す
だが、手錠と足枷の鎖が邪魔をし、鉄柵の前で立ち止まってしまう。勇者は鎖を引きちぎってしまおうと何度も鎖を引っ張るが、鉄の拘束は千切れることなど無かった
その様子を見て、バエルは肩を震わせて低い笑い声を漏らす。それを聞いて、勇者はバエルを鋭い目つきで睨みつける。その眼光だけで、魔物を殺せそうな程だ
「貴様ぁっ!」
「いや、すまぬ。素晴らしき気概だ。未だにお前は勇者としての己を見失っていないようだ。念のためだが、武具は全てこちらで没収させてもらった。聖剣の扱いにはほとほと苦労した。柄や鞘に触れるだけでダメージを負うのだからな」
「私を捕えて何をするつもりだ? 私は決して貴様らの有利になるような事になど協力せんぞ!」
「ふむ。だろうな」
そう言いながら、バエルは後ろに控えさせていたアスタロトから何かを受け取った
勇者は見たことのないアスタロトの姿を警戒している
何者だ。風貌からして彼の直近のようだが。いや、それよりも魔王は何をするつもりだ
私は、どのような拷問にも耐えうる覚悟だ。決して魔界の者になぞ屈しはしない
いっそ、彼奴の目の前で自害でもしてみせようか
しかし、バエルが勇者に見せた物は拷問器具でも何でもなく、一枚の羊皮紙であった
呪い魔法が掛けられているのかと警戒したが、そのような呪術も書かれていないようだ
勇者が行ける範囲では羊皮紙の内容が上手く読み取れない。バエルもそれに気づいたようで、羊皮紙を自身の方へ向ける
「これは契約書だ」
「契約書、だと?」
「そうだ。契約を交わすのは、私と人間界の大陸の国王全てとだ」
「な、何をするつもりだ!」
「何、案ずるな。お前の身は保障しよう」
「そういうことではない! 何故、私では無く国王たちに契約など!」
「貴様! 監禁の身であることを忘れるな!」
歯向かう勇者にアスタロトが強く忠告するが、バエルによって遮られた
不服そうに眼鏡の位置を直すアスタロトを他所にバエルは勇者の問いに答えるように、言葉を続ける
「お前が望んだ平和をやろうではないか」
「何、だと!?」
「詳しくはアスタロトに聞いておくがよい。私はそろそろ奴らに顔を出しておかねばな」
そう言うと、バエルは勇者に背を向けると、その場の空間に巨大な黒い渦を発生させた
勇者はそれを見て、その魔法が何なのかを察知した
「転移魔法『移如影』(テレポト)!」
「そうだ。人間では魔法が開発されてから、未だに数人程度しか習得できていない五大究極魔法とやらの一つ、であったか? 貴様らの仲間が覚えていれば、全員揃って退却も出来たかもしれぬな」
皮肉を言いながら、バエルは渦の中に自身を侵入させる
「アスタロト、後を頼むぞ」
「仰せのままに」
「待て! まだ話は終わっていない!」
「話ならば、帰ってきてから、ゆっくりと聞いてやろう」
バエルが言い終えると、その姿は渦が収縮すると共に消えていった
勇者は石床を右足で強く叩きつけ、自身の不甲斐なさを戒める
私の力が足りなかったから、全てが狂ってしまった
私の力が足りなかったから、魔王を生かしてしまった
勇者は下唇を噛み締め、こみ上げてくる涙を堪えて、俯く
ふと、咳払いをする音が聞こえ、勇者は顔を上げる。そこには、まだアスタロトが立っていた
アスタロトは品定めするように眼鏡を上げ、勇者に話しかける
「色々と気持ちの整理がついていないだろうが、貴様の身は我々が管理させてもらう。装備一式は我々が大切に保管させてもらっているので、心配することは無い。魔王様のご紹介にもあったが、私の名はアスタロトだ。魔界の軍師を務めている。覚える気が無いなら、覚えなくていいぞ」
「勝手なことを!」
「私とて本意ではない。だが、これが魔王様の命だから仕方なく行っているに過ぎん」
「何だと? 魔王は一体、何をしたい! 何の為に国王たちに契約など!」
「聞きたければ教えてやろう。貴様自身に関わることでもある。それは―――――」
バエルは『移如影』により、自身の行きたい場所へ好きなように移動することが出来る
しかし、それは同じ世界のみの話である。魔界からエレメンタリアへ直接移動することは出来ない
バエルが渦を抜けた先は、魔界とエレメンタリアを繋ぐ裂け目。バエル自身が開いた『クラック』であった
バエルと同じ程度の大きさを持つクラックから覗く世界は、魔界特有の赤黒い空間と比べれば、青色の空に青々しい草木が生い茂る異質な景色だ
「いつ見ても、人間界とは不思議なものだ」
長さはバエルと同程度だが、横幅は精々人間三人程度しか開かれていない。バエルの全力を以てしても、異世界の空間をこじ開けることが出来るのは、これが限界なのだ。バエルはクラックで作られた魔界と人間界の境界を跨ぎ、エレメンタリアへと侵入する
辺りを見渡すが、誰もいない。何者も警戒もしていないのか、それとも諦めているのか
バエルは人間の考えなど考えても仕方ないことだと結論付け、再び『移如影』を発動する
そして、渦の中に入ろうとする前にバエルは全てを見下ろすように光輝く天を仰ぎ、小さく呟いた
「気持ちが悪い」
バエルが再び姿を現したのはエレメンタリアにある勇者の生まれた国、アステ。その王宮の玉座の目の前であった
突如として黒い渦のような物が出現し、そこから悠然と姿を現した異形の怪物の姿に、その場にいた兵士、宰相、王、全てが驚愕していた。腰を抜かした王は震える声でバエルを指差す
「な、なな・・・・・・」
「アステ王よ、突然の来訪と無礼をお許しいただきたい。私が姿をお見せするのは二度目であろうか」
「魔、魔王! どうやってここに!」
「か、囲めっ!」
兵士たちが慌ただしく動き始める。バエルはそれを見て、軽く溜息を吐き、巨大な手で動けない王の背中を掴んだ
「面倒だ。場所を変えよう」
「た、助けてくれぇ!」
「陛下!」
「さらばだ」
バエルは再び『移如影』を使用し、王を連れたまま姿を闇の渦へと消えてしまった
ほんの数分程度の出来事で、中には状況を理解しきれない者もいる有様である。茫然とする宰相たちの下へ、兵からの連絡を受けたビッツたちが到着したのは、それから五分あまり後のことであった
バエルはその後、エレメンタリアに存在する四つの国の王を全員、アステ王同様に拉致し、エレメンタリア南部に存在する小さな無人島へと放り込んでいた。周りには生い茂った木々と砂浜、波打つ海しか見えなかった
国王たちは互いに何が起こるのかと寄り添っていると、バエルは腕を組み、国王たちを見下ろす
「これで邪魔も入らないな」
「ま、魔王よ! 何をするつもりだ!」
「わ、私達を殺すつもりなのだろう! 勇者を殺したように!」
「何!? 勇者は殺されたのか!?」
「いや、勇者はまだ生きているのだが・・・・・・」
「信じられるか!」
勇者が強制的に帰還させた仲間たちが勝手な虚偽妄言を国王に報告したのだろうか
いや、あの勇者の仲間だ。そのようなマイナスなイメージは抱くまい。だとすれば、こやつらの妄想か
バエルは心中で溜め息を吐きながら、未だ騒ぎ立つ国王たちを沈黙魔法『黙如死』を発動して、全員を黙らせる。困惑する国王たちにバエルは少しばかり怒りを込めた声で語り掛ける
「いいか。私は貴様らに交渉を持ちかけに来たのだ。死にたければ、私が喜んで潰して差し上げよう」
声を出せない国王たちはそれぞれの顔を見合わせて、首を横に振る
ようやく本筋を切り出せると感じたバエルは懐から勇者に見せた契約書を取り出し、国王たちへと見せつける
「今から、私が提示する条件を呑んでくれれば、人間界の侵攻は中止させよう。クラックも出来る限り閉鎖させよう」
その言葉に国王たちは目を見開く。当然であろう。五百年近くもエレメンタリアを苦しめてきた魔界の王が手を引くと言っているのだ
それも、勇者が敗北したと思われる、魔王が圧倒的に有利な状況であるというのに
国王たちが何か裏があるのではないかと不安そうな表情を見せる中、バエルは契約書を国王たちの方へ投げた
「それに貴様らの名を連ねれば、契約は完了する。私が提示する内容は―――――」
「私を、魔界で管理する、だと・・・・・・!?」
アスタロトが言い放った言葉を信じられない勇者は確認するように繰り返した。アスタロトは溜め息混じりにその言葉が事実であると頷く
「そうだ。貴様の命を魔王様が管理する。それと引き換えに魔界は人間界への侵略を中止、撤退する。契約を反故にするならば、勇者の命は消えるだけだ。とな」
「ば、馬鹿げている!」
「私もそう思う」
勇者の言葉にアスタロトも腕を組んで頷く。勇者は愕然としながら、床に膝から崩れ落ちてしまう
私を管理して、魔王に一体何のメリットがあるというのだ。確かに、勇者は先代が死ななければ、次の勇者候補に天啓は訪れない。それを防ぐために私を管理すると言うのは一理ある
だが、私の管理と引き換えに侵略を中止するならば、私の管理によって次代の勇者を生み出すのを防ぐことは全くの無意味になる
もしかすると、約束を反故にして油断したところを襲うのか?
勇者には、魔王が何をしたいのかが全く理解出来なかった
勇者が混乱していると、アスタロトの横に闇の渦が出現し、バエルが帰還してきた
「お帰りなさいませ。魔王様」
「うむ。少々時間が掛かってしまった。奴らが色々と契約にケチをつけてきたからな」
「魔王! 貴様どういうつもりだ!」
気持ちの整理がつかない勇者は、現れたバエルに早速疑問をぶつける。バエルはアスタロトを横目で見、アストロトが軽く頷いたのを見て、視線を勇者へと戻す
「どうやら話は聞いたようだな。どうだ? 実にお前の望んだ結果だろう。最小の被害で最大の利益だ。お前の命一つで人間界に平和が訪れるのだぞ」
「ふざけるな! 魔王が存在したままの世界に平和が訪れる訳がない! 貴様が存在する限り、人々は見えぬ恐怖に怯えるのだ! それを国王様たちも理解しておられる!」
「それは違うみたいだぞ?」
「何?」
直後、勇者はバエルに突きつけられた。笑えてしまう程、皮肉で残酷な現実というものを
バエルが見せた契約書には、四人の国王の名が全て書かれていたのである
「そ、そんな、馬鹿、な」
勇者は目が眩んだ
馬鹿な。魔王を生かしたまま、放置するなんてあってはならない
そんなことをすれば、こいつはいつ契約を反故にして攻めてくるのか分からないのだぞ。
例え、私を見捨て、殺してでも次の勇者に託すべきなのだ
魔王を殺すべきだ。真の平和とは、そういうものではないのか?
先程の勢いは完全に消えてしまい、虚空を見つめて黙り込んでしまった勇者を見ながら、バエルはアスタロトから契約書と交換するように鍵を貰う
その鍵を牢屋の出入り口に差し込むと、扉が開いた。そのままバエルは魔物用に作られた牢屋の大きな扉でさえ窮屈そうに巨躯を折り曲げ、中に入ってきた
「どうやら、現実に打ちひしがれているようだな」
「それは当然でしょう。信じていた者に見捨てられたも同然なのですから。人間とはかくも薄情な生き物です」
「―――――そだ」
「ん?」
「嘘に決まっている! 貴様が勝手に書いたのであろう!」
「・・・・・・魔界の者の中には私やアスタロトのように他に同類が存在しない上位個体と呼ばれる者がいる。自称として『魔族』と名乗っているが、魔族は嘘を吐くのが大嫌いだ。私は一度とて嘘を言ったことなど無い」
「何を根拠に!」
「そういう生き物なのだ、我々は。吐きたくても、嘘が吐けないのだ。脳が理解を拒む。だからこそ、こうして契約書を書かせる。嘘偽り無いことを証明するために。魔族とは、そういう生き物なのだ。理解してくれ。勇者よ」
バエルのまるで幼子を優しく叱る母親のような喋り方に勇者は言葉を失う
確かに、教会で配られていた聖書にもそう書かれていた記憶がある。魔族は嘘が吐けず、故に契約を最も大事にすると
それ故、人に化けた魔族かどうかを見抜く際に最も有効なのは、「お前は魔族か」と問うことであると
本当に国王たちは私の命と引き換えに、平和を手にしたというのか。ならば、勇者とは、何のために存在していたのだ?
こんな簡単に平和が取り戻せるなら、勇者は何のために剣を振るっていた。何のために多くの勇者が誕生した。何のために彼らは犠牲になった。何のために
勇者が項垂れていると、急に肩を震わせて笑い出したではないか
「く、くくく、ははははは!」
「何だ? とうとう気でも狂ったか?」
アスタロトが驚愕しながら、勇者の笑い声に引いている。バエルはそれを何の感情も出さずに見つめる
勇者は肩を震わせ、笑みを浮かべながらバエルを見る
何のとこは無い。簡単にこの状況を打破する方法があるのではないか
「貴様らが契約を破らないというなら、私が破ってやろう!」
「何?」
「私がここで死ねば、契約は無効だ! 私が死んで、次の勇者が貴様を倒しにやってくる! 魔王! 私が死んでも、我が平和への信念は次の者が受け継いでくれる!」
そう言うと、勇者は口を大きく開け、舌を突き出す。それを見て、バエルは初めて動揺の色を見せた
このまま舌を噛み切る。口を拘束しなかった貴様の愚かさを悔いろ。魔王
舌を噛む瞬間、勇者の脳裏には己の人生が矢継ぎ早に振り返っていた
ビッツを始めとする仲間たち。声援を送ってくれた村人たち。様々な物を提供してくれた商人。力を授けてくれた精霊。赤ん坊の時から声を掛けてくれた神々
そして、自身を立派な勇者になるまで育ててくれた両親。皆の顔が浮かび上がってきた。
ああ、これが走馬灯というものなのか。私の人生はここで終わってしまうが、平和への想いは決して途切れはしない
次の勇者よ。願わくば、早く世界に真の平和を届けてくれ
死を覚悟し、舌を噛み切るはずであった勇者の口が下がらない。正確には、勇者の口に何かが入り込んで閉まらないのだ。目の前にいるのは、バエルであった
「勇者、何ということを・・・・・・」
バエルの指が、勇者の口の中へと入っていたのだ。歯は舌へ届くことなく、籠手で包まれたバエルの指を噛み締めている。アスタロトはバエルの行動に悲鳴を上げた
「魔王様! そのような下賎の者の口に御手を入れられるなど! 早く抜いてください!」
「そうすれば、こやつはまた自分の舌を噛み切る。それだけは、あってはならぬ」
バエルは、勇者の口の中に入れている指を移動させ、両端の奥歯に噛ませるように固定させた。これで、勇者は舌を噛み切りたくても噛めない状態になってしまった
勇者はバエルを睨みつけ、威嚇するがバエルは全く意に介さない
それどころか、逆に質問をし始めた
「勇者よ、貴様のこの行動は自らへ辱めをこれ以上受けないために起こしたことか?」
「ひがう!」
指を突っ込まれているため、上手く喋れない勇者であったが、バエルの問いに答えた
答えねばならなかった。その問いは、あまりにも勇者の名を傷つけていたからだ
「ならば、貴様の命を管理しようとする私への当てつけのためにか?」
「ひがう!」
先程より大きな声で、勇者はバエルへ答える。己の誇りを見せつけるように
「ならば、自らの舌を噛み切ることに躊躇無き決意。その理由を教えてくれ。頼む。その理由を、私に教えてくれ」
バエルはゆっくりと勇者の口から指を引いていく。バエルの指には勇者の唾液がべったりと糸を引いて付いてきた
アスタロトはそれを見て、眉間に皺を寄せ、ポケットに入れていたハンカチをバエルへ差し出すが、バエルはそれを受け取らずにそのままの状態で勇者をじっと見据えていた
待っていた。勇者が答えるのを
勇者もまた、バエルをじっと見据えていた。自由になった口を閉じ、少しの間を置いた後、再び口を開く。魔王の問いに答えるために
「私が死ねば、次の勇者が生まれる。そうすれば、使命を負った勇者は貴様の首を狙いに来るだろう。民はいつ魔物が襲ってくるか分からぬ恐怖に怯えぬ、全ての人が一生笑って生きていける、真の平和を取り戻す為に」
「そのために、自身の命を喜んで投げ捨てようと言うか」
「無論だ。先の契約のような偽りの平和などでは無い。真の平和のためと言うならば、私は喜んで殉じて見せよう」
その答えに、偽りは一切無い。勇者の眼が、そう答えていた。バエルは一寸の曇り無き勇者の瞳を見て、そう感じ取った
そして、今度はバエルが肩を震わせて笑い声を上げ始めた。突然のことにアスタロトは目を丸くし、勇者は自身が笑われたと思い、激怒した
「貴様! あくまで私を愚弄する気か!」
「いやいや、申し訳ない。良い。良いぞ勇者。それでこそ、民が望む真の勇者だ。それでこそ、私が見初めた勇者だ。感服したぞ」
バエルはアスタロトからハンカチを貰い、指に付いた唾液を拭きとる
そして、両手から魔力を放出し、勇者の目の前に何かを出現させた。現れたのは、一枚の紙であった。形大きさ、全て先程の契約書と酷似している
「何の真似だ」
「契約だ。私と貴様の、な。すでに私の名は書いてある」
「何だと?」
アスタロトはバエルの行動に何も言わず、ただ傍観する。バエルはしゃがみ込み、膝から崩れ落ちていた勇者と同じ目線に合わせた
勇者が渾身の一太刀で浴びせた兜の割れ目から僅かにバエルの眼が勇者を捉える
人間では有り得ない、鋭い刃のように輝く銀の瞳。それを見つめるだけで、脳を揺さぶられるような激しい眩暈が勇者を襲ったが、勇者は決してバエルから目を逸らさなかった
「そうだ。その命、これから私が管理するのだから、貴様には死んでは困る。だから、今から貴様の命の生殺与奪を私が決める契約を交わす」
「そのような勝手な真似!」
「待て、契約と言った。貴様にも無論、メリットはある」
「何?」
「契約内容はこうだ。
勇者の契約:その命を魔王が管理するため、自身が行う自害及び他の魔物への殺害は認めず、城からの脱出も許可無く行うことは不可能とする。
魔王の契約:勇者の命を有効に扱うため、何時何処でも如何なるようにでも自身の命を狙われてもよいものとする。この規約は勇者の契約にある他の魔物への殺害には含めないとする。以上だ」
勇者は魔王の発言を理解することが出来なかった。思わず、疑問符を頭に浮かべてしまう
「・・・・・・どういう、ことだ」
「言った通りだ。どうせ捨ててしまう命ならば、私の命を獲ってから捨ててしまえ。自分の失態は自分で取り返さなければならんだろう?」
魔王は笑いながら、契約書を勇者の方へと差し出す
勇者は驚いていた
まさか、魔王が勇者の命を管理するために、自身の命を差し出すなどとは思ってもいなかった。そのためには、勇者は他の魔物を倒すことは出来ない
だが、バエルの言う事も最もであった。自身の失態は自身で取り返さなければ、意味が無い
今ここで死んでしまえば、次の勇者に重大な責任を負わせることになるし、民の士気も下がることになってしまう。それに、魔王の首を何時でも取れるという、またとない機会が目の前にあるのだ
勇者はちらりとアスタロトの方を見る。視線が合ったアスタロトは苦々しい表情を浮かべ、勇者から視線を逸らす
どうやら、魔王の側近が何も言わずにいるということは、これは元より魔王が提案していたことなのだろう
だとすれば、嘘の吐けない魔族にとって、この契約は確実に魔王の首に届く可能性があるということか
勇者の脳が冷静になってくると、勇者の手にインクがついた羽ペンが渡された。バエルが握らせたのだ。まるで、勇者の心を見透かしているようである
「どうした? 契約にサインをしないのか?」
「―――――っ! すればいいのだろう! すれば!」
バエルに屈してしまったようだが、今は我慢の時だ
そう自分に言い聞かせ、勇者は自らの名を契約書に書き示す。手枷を付けられたままのせいで、ぎこちない字になってしまったが、読めなくはない
勇者が名前を書いたのを確認し、バエルは契約書を丸める
「これで契約完了だ。以降、お前は私の命を狙っても構わぬし、私はお前の命を管理する。よいな。アスタロト、勇者の装備を持って来たら拘束を解いてやれ。聖剣もだぞ」
「はっ」
バエルは勇者に背を向け、アスタロトに指示を出す。アスタロトは頭を下げ、すぐさまその場を後にした
「不服だが、仕方あるまい」
そう答える勇者であったが、内心は違っていた
契約なぞ、いつでも破棄してしまえばいい。魔物は嘘が吐けぬ以上、契約は破棄出来ないが、私は人間だ
魔王の首を取ってから、例え魔界全ての魔物が私を攻めてこようとも、全力で戦い、最低限の仕事を終えてから、死んでみせよう
例え私が死んでも、ビッツたちがいる。魔王亡き魔界ならば、ビッツたち人間の力で倒せる筈だ
勇者が内心ほくそ笑んでいると、バエルはある事を思い出し、振り返る
「一つ、言い忘れていた。貴様が書いた契約書だがな、先程見せた物とは代物が違う。先程のはただの羊皮紙だったが、これは正真正銘、魔族の呪いを用いた契約書だ」
「・・・・・・は?」
「貴様ら人間の言葉で言えば、呪いのアイテムか。これに名を書き示した者はどんな者であろうとも、書かれた内容を違反してはならないように身体が勝手に規則に沿うように動く。貴様のような腹に一物を含んだ奴は契約違反しそうだからな、念の為に用意させてもらった」
その言葉に勇者の目が点になる。よくよく考えてみると、勇者への規則は自害と魔王以外の魔物への殺害行為の禁止に城からの許可無しの脱出という拘束が敷かれる
しかし、魔王への規則は命を狙われる以外、特に規則に沿うような行動を強制されることは無いのだ。呪いによる強制は勇者のみに発生する。それに気づいた勇者は怒りが沸き上がり、怒号を飛ばす
「だ、騙したなぁ!」
「騙してないぞ。言い忘れておっただけだからな。嘘は一言も申していない」
「それを騙すと言うのだ! 畜生! 悪魔め!」
「魔族だ」
勇者は罵詈雑言をバエルに浴びせるが、物ともしていない。勇者は己の至らなさをまたもや思い知ることになった
こうやって奴らは嘘を言わないでいられるのか
しかし、魔王の命を狙えることに代わりは無い。油断したところを狙ってやる
そうすれば、世に平和が訪れるのだから
勇者は、不甲斐ない自分を戒めながらも気持ちを切り替え、己の使命を果たす為に努力しようと心を熱く燃えさせるのであった
一方、バエルは、アスタロトに勇者の武具を取りに行かせている間、新しい玩具を貰った子供のように何度も契約書を眺めていた
これで、勇者は晴れて私の物となったのだ。勇者とはどのような生き物なのか。じっくりと観察することが出来る
勇者の生態を、この目に焼き付けなければ
「さて、これから共に生きていく仲だ。勇者と呼ぶのは味気ないな。名で呼ばぬとな」
「私は貴様のペットでは無い!」
勇者の怒号を無視しながら、バエルは契約書に書かれた勇者の名を読み上げる
「ふむ、名をソフィア=イオシテオスと言うのか。む?」
「な、何だ」
「ソフィア=イオシテオス。ソフィア、ソフィ・・・・・・む?」
バエルは何度も契約書の名と勇者、ソフィア=イオシテオスの顔を見比べ、首を傾げる
おちょくるような態度にソフィアは眉間に皺を寄せて、バエルを罵倒する
「何だ、名前に間違いはないぞ。クソ! こうなるのだったら偽名でも書いておけばよかった」
「勇者、貴様・・・・・・もしかして、女、なのか?」
「は?」
バエルの率直な問いに長い沈黙が牢屋に冷たく広がる。ソフィアもまた、その問いに答えるのが遅くなった
何を言っているのだ。コイツは
呆然としてしまう程、バエルの問いは率直であった
「何、何だ。貴様。私のこと、ずっと男だと思っていたのか?」
「うむ」
バエルの威圧的な巨躯に似合わぬ素直で可愛らしい頷きにソフィアは、頭の奥で血管が切れる音が聞こえた
「貴様ぁ! これ以上、私を侮辱するならば、その首今からでも叩き斬ってやる!」
「す、すまぬ! 普通勇者は男だと思うだろう! 何やら髪長いし、線も細いなって、勇者とは意外と優男なのだなって思っておったけど!」
「だったら、女だと思う選択肢もあって然るべきだろうが!」
「いや、その、何というか、無礼だと重々承知で申すが、女性だと思うには圧倒的に足りない部分がな・・・・・・」
バエルは視線をソフィアの顔から徐々に下へと降ろして、声を小さくさせていく。その視線を感じ取り、釣られるように視線を下に落とす。そこにあるのは、シャツのみになった自身の肉体
そこに広がるのは、波風の立たぬ雄大な海原に広がる水平線の如く、平坦であった
ソフィアはリンゴのように赤ら顔になり、拘束具が千切れんばかりに暴れ出した。痛み以上に精神的屈辱の方がソフィアの精神を襲っていた
「ふざけるな! 私だって気にしているのだぞ! 無いことは無いからな!」
「あ、すまぬ! つい・・・・・・」
「装備を脱がしたのは貴様ではないのか!?」
「アスタロトに任せた」
「確かに下着は女性物では無いがなぁ! 私だって傷つくことはあるのだぞ!」
「本当に申し訳ないと思っておる! 後でちゃんと侍女に任せるから! すまぬ!」
「絶対に許さん! やはり、貴様は存在してはならない悪だあああああ!」
その後、装備を持ってきたアスタロトは騒ぎを聞きつけ、駆け付けると猿のように怒り狂うソフィアと平に謝り続けるバエルを見て、持病の胃痛が再発してしまうのであった
この事態は互いに新たな因縁を残したまま、終息を迎えた
こうして、世界を救う筈の勇者様は強大な魔王の前に敗れ、哀れその身を魔界に閉ざされることになってしまった
勇者と魔王が共に生きていくという奇妙な共同生活がこれから始まろうとしていたのであった
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