勇者の行方は誰も知らない

オルドゥス

第1話 勇者、対峙する


 心臓の鼓動が、徐々に収まっていく。身体の震えは、止まっていた。不思議と緊張は、無い

変わりない。いつもと変わらず、私は使命を果たすのだ

閉じていた瞼を開け、息を深く吐き、視線を一点へと集中させる



「遂に、ここまで来ましたね」

「ああ」



瞳に映るは不気味かつ荘厳なる城、元いた世界とは全く異なる赤黒く染まった空が不穏な空気が流れている



今、ここで私が魔王を討ち果たし、五百年続く因縁を断ち切って見せる

その者は悠然とした姿で荘厳な城にいるであろう宿敵の首を獲ることを改めて決意した






 四つの大陸から形成される世界、エレメンタリア。かつては大陸それぞれに存在する四つの国、ソールン、スート、アステ、ツェセが覇権を争い、それぞれの隆盛を極めていた

しかし、およそ五百年前、突如魔界と呼ばれる異界から異形の怪物たちが侵攻を開始してきた

更には、怪物たちを統べる魔王と名乗る者が出現し、エレメンタリアを支配すると宣言したのだ



「人間界の諸君、初めまして。我が名はバエル=ゼブブ。突然で申し訳ないが、この世界を我が物とさせてもらおう」



 この事態に人間同士で争っている場合ではないと、四つの国は協定を結び、魔界の侵攻に対抗すべく共闘戦線を作り上げた

 人類たちは当初、魔物の異形さや特質に苦戦を強いられたが、研究を重ね行く内に魔物に対抗できる術を次々と生み出していった。武器の発展は勿論のこと、元々人類の体内に宿っていた秘めたる力、『魔力』を発現する技術、『魔法』を生み出したのだ

そのような中、人類側にも新たな希望が授けられた。それが、勇者である

 勇者になる者は神の天啓の下、勇者が生まれる前、その母体に夢を通じて授けられる。勇者となる使命を負った者は常人より遥かに自力が異なり、最早超人の域に達していた

しかし、初代勇者が魔王を討伐する前に魔物たちによって無念の死を遂げた後、新たな天啓が別の妊婦に降りたのだ

勇者はその者が亡くなった時、少しばかりの期間を開け、新たな母体へと神の天啓が再び舞い降りる

神に選ばれる勇者になる条件や期間などは文字通り神のみぞ知ることで、人間たちには到底計り知れるものではなかった

だが、勇者がいるだけで、人類の希望は決して潰えることは無かった。勇者の存在そのものが人類の希望と化したからだ。たとえ夢半ばで勇者が倒れても、新たな勇者がその夢を引き継ぐのだ

 かくして、魔王討伐を目標に掲げる勇者を筆頭とした人類軍とエレメンタリア統一を掲げる魔王を筆頭とした魔王軍との戦いが現在に至るまで続けられてきたのだ






 そして今、二十代目になる勇者は見事魔王軍の並みいる強敵を打ち破り、歴代の勇者たちが成しえなかった魔王が棲む魔界へと到達することが出来た


勇者は振り返り、共に旅をしてきた仲間たちを見て、一人一人に声を掛けていく



「ビッツ」

「おう」



最初に仲間になった武闘家で、一番長く旅を共にしてきた。武闘家らしく好戦的な性格で、彼と勇者はぶつかり合いの喧嘩になることも度々あった

だが、それは友情の裏返しでもあり、今では最高の相棒である



「リーコ」

「うん」



普段から不愛想で感情を表に出さない魔法使いの少女。年端も行かぬ彼女はパーティーの中では最年少であるが、魔法の扱いは一級品だ。旅を続ける内に互いの心情を理解し、語らずとも表情の変化を読み取れる程になった



「アレクス」

「はい」



修練場で出会った若い騎士。巧みな盾捌きは相手を倒すことよりも仲間を守る力、彼の性格を直実に現していた。その紳士的な性格はビッツとぶつかることもあったが、協力すれば最高のコンビネーションを生み出してくれる



「サーリャ」

「ええ」



誰にでも優しい、元教会の修道士。包容力のある言動でパーティーの皆を内と外、両面で癒した。性格から戦いに戸惑いを見せることもあったが、今では立派なパーティーの一員である



「ナインハルツ将軍」

「共に」



そして、勇者の生まれた国、アステの王からの支援としてナインハルツ将軍も最後に付いてきてくれた

国王は他にも兵士を送ろうとしたが、魔王がいつ陽動として別動隊を送り込んでくるか分からないため国を守ってほしいというサーリャの進言により、将軍のみの同行となった

しかし、これほど心強い味方もいなかった

 たった五人の仲間だが、実力は百万の軍勢に勝るとも劣らない精鋭揃いである

勇者は、腰に刷いている天の恩恵を受けた剣、エクスカリバーを鞘から抜き、天へと掲げた



「皆、今こそ世界に平和を取り戻す時!」



いざ行かん。そう激を飛ばしかけた時であった



全身に身の毛がよだつ悪寒が走る。心臓を内側から握りつぶされるような、血液が凍りつくような、吐き気を催す気分であった。勇者は自分だけかと思ったが、周囲の仲間も同様の反応を見せている。この怖気は、現実である

皆が周囲を警戒していると、サーリャが何かを見つけたらしく、勇者の背後を指差した



「皆さん! あれを!」



サーリャが示した先には、遠く聳える魔王の城から何かが飛んでくる姿があった。それはまるで雲のように宙に浮かびながら、徐々にこちらへと近づいてくる

勇者たちは即座に身を固めた。遠くからでも分かる程の威圧感が、それにはあった



間違いなく、自分たちを襲った怖気の正体は、奴だ。勇者は確信する



そして、その者はゆっくりと地上へ降り立ち、勇者たちの前へと姿を現した

大柄なビッツをも遥かに上回る巨大な体躯、全身を甲虫のような異形の鎧兜で身を包み、漆黒のマントを羽織ったその者こそ、勇者たちが討ち果たすべき存在であり、この世全て災いの元凶であった

鎧の者は勇者たちを見据えて、仰々しく深々と頭を垂れる



「ようこそ、勇者御一行。私が、魔王バエル=ゼブブだ」

「魔王!」



勇者は魔王バエルを睨みつけ、改めて剣を握る



コイツさえ倒せば、大陸に平和が戻ってくる



勇者の後ろにいたビッツは武者震いを隠すように、冗談交じりでバエルへ話を飛ばす



「ヘッ、魔王様直々に来てくれるとはな。暇でしょうがなかったか?」

「何、これ以上部下に犠牲が出ては困るのでな」



バエルは、両手に淡い灰色の光を生み出し始める。あの光は魔法を生み出すための力、魔力が具現化したものであり、それを出すという事は戦いの開幕を意味している。灰色の魔法色は闇の者である証拠だ

それを理解している勇者たちは即座に陣形を組み、バエルと対抗する

まさか、魔王がいきなり出てくるとは誰も想像していなかったであろう

だが、裏を返せば無駄な体力を消費せずに魔王を倒せる最大の好機である。これを逃す手も無いし、退く気も勇者には全く無かった



「さあ、勇者よ。足掻いてみせよ。もがいてみせよ。その素晴らしき力を振りかざして、私を倒してみせよ」

「魔王バエル=ゼブブ! 人間の強さを貴様に見せてやろう!」



勇者は、剣を構えて魔王へと突撃していく

この一閃が、一振りが、民草を救う希望の光となる。世界に平和が取り戻される

魔王という恐怖の象徴を討ち果たして、全てを終えるために―――――




                   §                  


 


 何故だ?

 何故、私は地に伏せている?

 何故、私が

 何故



勇者とその仲間たちは、平然としている魔王の前で、地に伏せているのであった

 勇者たちと魔王の死闘は、魔王の圧倒的な力によって、捻じ伏せられていた

勇者は、地面を握りしめながら、先程の光景を鮮明に思い出す



 最初に勇者は飛びかかり剣を振り下ろすが、バエルの魔力で作られた防御魔法で弾かれ、その隙に巨大な裏拳で地面に叩き付けられた

本来ならば、勇者の攻撃に連撃を加える筈だったビッツとアレクスは勇者が地面を跳ねたことに一瞬の焦りを持ちながらも、恐れずにバエルへと二人同時に攻撃を仕掛けた

しかし、これもバエルの生み出した防御魔法の前に指一本も触れることなく防がれ、風の魔法で吹き飛ばされた

 次に後方で詠唱を行っていたリーコが今までの戦いでも魔物たちを一瞬で焼き払った火の最大魔法『燃如焔』(イフリート)でバエルを攻撃するも、バエルは即座に水の魔法で『燃如焔』を相殺させてしまった

その光景を、まさに立ち上がろうとした勇者は目にしていた

普段では鉄面皮のリーコであったが、最大魔法を軽々と消されたことに驚嘆の表情を隠せずにいた。地面を這いずりながら、声を漏らす



「そんな。防衛の為に防御魔法と風魔法を使って、詠唱の隙は無かった筈なのに・・・・・・!」

「詠唱などという物は魔力の少ない人間どもが魔力を練るために生み出された貧弱な手段に過ぎん。私の魔力に掛かれば、魔法は詠唱なぞ破棄して発動できる」

「み、皆さん回復を―――――!」



サーリャが怪我をしている皆に回復魔法を掛けようと、口を開く

だが、そこから先、サーリャの声が突如途切れてしまった。サーリャ自身も驚愕しながら、口を鯉のようにパクパクと動かすだけである

勇者はバエルの手から灰色の魔力が現れたのを見逃さなかった



「貴様らの中で最も厄介なのは、そこな娘のようだ。そいつがいる限り、貴様らは永久に回復し、不死者の如く攻めてくるであろう。少しばかり、黙っていてもらう」



対象の言葉を一定時間掻き消す妨害魔法、『黙如死』<クワイエ>をサーリャは掛けられてしまっていた

 それを見て、ナインハルツ将軍は懐に忍ばせていた回復薬で皆の回復を試みる

だが、次の瞬間、ナインハルツ将軍は全身がまるで鉛のように重くなるのを感じ取った

ナインハルツ将軍だけではない。そこにいた全員が同じような感覚を持ち、膝から崩れ落ち、地面に手をついて立ち上がれなくなっていた。息をするのも苦しく、言葉を発するのも途切れ途切れになっていく

その原因はやはり、魔王バエル=ゼブブであった



「重力魔法『沈如碇』<ダウン>。これで貴様らは何も行動出来まい」



 あっという間であった。一瞬の隙が、勇者たちを崩壊へと招いた

油断はしていなかった。決して準備を怠っている訳でもなかった

最高の武具を用意し、装備品も確認し、アイテムも蓄えてきた

それでも、目の前にいる全ての魔の長は圧倒的であった。舞い降りてから一歩も動いていない魔王を見て、それをビッツたちは悟った

勇者たちの予想を遥かに上回る力を、彼は持っていた



「く、くそ・・・・・・! 前にも同じ魔法を喰らったが、これはその比じゃ、ねえぞ・・・・・・!」

「奴の魔力が、魔法の威力を増大させているのだ・・・・・・!」

「こ、れじゃ、詠唱、する暇が」

「ここ、まで、なのか!」



皆が重力により地面に這いずりながら、魔王との力量差に絶望する

否、一人だけ、諦めていない者がいた



「ま、まだ、だ・・・・・・!」

「勇者!」

「勇者殿!」



勇者は剣を地面に突き刺し、強烈な重力から己の身体を引き剥がそうと身を動かしていた。先程の地面への叩き付けにより、頭からは血を流していた。それでも、その闘志の炎は瞳から消え去ることなくバエルを見据えていた

その姿を見て、バエルは声を漏らして勇者の方を見る



「ほう、面白い」

「ゆ、勇者殿! ここ、は・・・・・・! 一旦、体、勢を整えて逃げ、るべきだ・・・・・・!」

「わ、たしは、勇者、だ・・・・・・! 魔王の前から、逃げることなど、出来ぬ・・・・・・!」

「勇者様!」



皆が勇者の雄姿に打ち震える中、鈍い金属音鳴り響く。見れば、バエルが勇者に向けて拍手を送っているではないか。彼が身に着けている籠手がその音を生み出していた



「いやはや、素晴らしい。勇者とはこうでなくては」

「や、ろう! おちょくりやがって!」

「気持ち、は、分かります。でも、こ、こは、逃げま、しょう」



 『黙如死』の魔法が解かれ、口が利けるようになったサーリャの制止を聞き、勇者はゆっくりと懐から何かを取り出した

手にしていたのは、最後に立ち寄った街へと戻るアイテムである転身の御札である

 勇者たちが最後に立ち寄ったのは、アステ。つまり、引き返すことが出来るのだ。魔王との戦いから逃げることが、出来る

 誰も勇者の行動を責める者などいない。いるはずもない。ここは逃げることが賢明な判断であることは明白であった。勝つための逃げは、決して恥じることではない

しかし、勇者が次に起こした行動は皆の予想を裏切る結果であった

 勇者はただ一人、重力にも負けずに立ち上がり、リーコたちの方へゆっくりと近づく



「え?」

「すまない、皆」



勇者は御札をリーコの元へ置き、己は剣を引き摺りながら、魔王へと一歩ずつ歩みを進めていったのだ



「皆が、犠牲になる必要は、無い。街へ、戻って、防衛を、強化してくれ」

「そ、んな!」

「勇者様!?」

「何を、言っている! 戻るんだ、勇者殿!」



皆の制止も聞かず、勇者は真っ直ぐと魔王を見据えている

そうしている間に転身の御札の効果が発動した

転身の御札の範囲は定められており、範囲外にいるとその恩恵は受けられない。すでに、勇者は御札の範囲外へと出てしまっている



「私は、勇者だ! 平和を、取り戻すまで、倒れては、いけない!」

「勇者!」

「だから、私は、戦う!」

「ゆ―――――!」



勇者を呼びかける仲間たちの姿が一瞬で消えてしまった。転身の御札が発動したのだ

全員消えてしまった後も、勇者の雄姿は衰えず、逆に重力下で剣を構えられる程までの姿を見せる



 すまない。皆。これは、私の我が侭だ

 勇者である私だから、魔王を倒さなければならない勇者であるからこそ、平和を取り戻さなければならない

 例え、ここで命を落としたとしても、次の勇者が、必ず魔王を倒す算段を導き出す。人類は、決して負けない



 勇者が身構えていると、不意に身体の負荷が消え去った。驚いていると、バエルが重苦しい息を吐き、肩を震わせていた

よもや、敵を逃がしたことに己の不甲斐なさを怒っているのか。勇者はそう思っていたが、次に開かれた魔王の言葉は全く正反対の反応であった



「素晴らしい! まさに勇者だ。その姿に思わず攻撃するのをためらってしまっていた」

「ッ! 貴様、何故魔法を解除した!」

「お前と本気で戦ってみたくなったからだ」



バエルは両手を大きく広げ、掌に魔力を溜め始める。それを見て、勇者はすぐに気を引き締める



「私を舐めているのか?」

「逆だ。お前を評価している。そもそも、今までの勇者で魔界に来たのは、お前だけだ。以前までの勇者は我が忠実なる配下に潰されていたからな。つまらぬ奴らよ」

「過去の英雄を侮辱するか! 歴代の勇者の無念を乗せて、私はこの剣で貴様を切り裂こう!」

「気概、能力、信念、全て良し。その手にしているのは聖剣エクスカリバーだな?」

「そうだ!」



 聖剣エクスカリバー。古くから存在し、決して錆びることなく、決して欠けることなく、決して折れることのない至高の剣

刃には高度の魔力が宿っており、神の加護が集った魔力がその力の源である。この聖剣は神の下、管理され、歴代勇者は皆、この聖剣を手に魔物と戦ってきた

 勇者もまた、この聖剣と共に数多くの死闘を生き抜いてきた。今更、この聖剣の力を疑う余地もない



「神の加護を受け、魔物を打ち払う最古にして至高の武具。まあ、我らからすれば厄介以外の何物でもないがな。いいだろう。貴様が持つ全てで、私を越えてみせろ! 最早、妨害魔法などという小細工なぞ要らぬ! 掛かってくるがいい!」

「・・・・・・上等だ! 行くぞ!」




                   §




 何故だ?

 何故、奴は立ち上がる?

 何故、奴は

 何故―――――



 その後の戦いも、バエルの一方的な攻撃を勇者が受け止める形になっていた

補助魔法で身体能力の底上げを図り、目に見えぬほどの素早さで攻撃をする勇者であったが、その全てをバエルは弾いた。吹き飛ばされる勇者は、すぐさま体勢を立て直す

勇者は万全のバエルでは太刀打ち出来ぬと判断し、体勢を崩させるため、聖剣でバエルの足を薙ぎ払う

しかし、それもまた躱され、丸太のような太い脚による蹴りがカウンター気味に入り、勇者の小さな身体を吹き飛ばす。勇者は空中で身を捻り、受け身を取る。ダメージは確実に入っているが、勇者の瞳に陰りは見えない

 更に勇者は聖剣エクスカリバーの名を叫び、光り輝く聖剣による光の刃をバエルへと飛び道具のように撃ち放つ。魔力を有する聖剣だからこそ可能な魔法と物理攻撃を兼ねた攻撃だ

だが、バエルも同じように魔力で生み出した闇の刃で相殺する

それどころか、お返しとばかりに剣を模した魔法を何本も作りだして勇者へと向けて放ったのだ。無数の刃が勇者を襲い、切り刻んでいく

勇者は、聖剣を支えにしながら決して地を膝に突くことは無かった

バエルは、その姿に驚嘆する



 これが、勇者なのか?

 勇者とは、神が勝手に使命を授けて、周りの者が勝手に期待をし、勝手に世界の命運を託された、哀れな生き物ではなかったのか?

 バエルが今まで思っていた勇者像とは、その程度のものであった

 だが、目の前にいる勇者はその勇者像を打ち砕く、正真正銘の勇者であった

 何故、奴は立ち上がれる?

 最早、誰も見ていない。誰も勝てると思っていない。誰も、奴に期待していない

 なのに、何故



バエルが困惑している間にも、勇者は立ち上がり、傷だらけの身体に鞭を振るいながら、バエルへと突撃する

身体にはガタが来ており、恐らくこれが、最後の一撃になる

そう覚悟した勇者は天へと届くかの如く、地面を蹴り、宙を舞い、聖剣を振り下ろす



「喰らええええぇぇぇ! 魔王おおおぉぉぉっっ!」

「ぬうっ!?」



一瞬、呆けていたバエルは対応に遅れるも、その場から地面を蹴って回避する

勇者の攻撃は、そのまま地面へと激突する。瞬間、地面にはクレーターが出来、砕け散った地面が粉塵となって散らばっていく

勇者は聖剣を振り下ろした体勢のまま、動かない。肩で息をし、呼吸は乱れている

もう、身体の限界が来ていた。勇者の意識は朦朧とし、段々と瞼が重くなっていくのを自覚していた



「わた、しは、まだ―――――!」



勇者は無念の言葉を漏らしながら、意識が途絶え、その場に倒れ込む

 バエルは、ゆっくりと勇者の方へと近づくと巨躯を折り曲げて、しゃがみ込んで勇者の様子を窺う

苦悶の表情を浮かべ、意識を失っているようだが息はしているようで、どうやら死んだようでは無かった

すると、バエルは肩を震わせ始め、高らかに笑い始めたのだ



「ハハハハハ! 面白い! 実に面白い!」



笑い終えると、何を思ったのかバエルは勇者を抱きかかえ、居城へと向かうため、その身を魔力で浮かせるのであった




                   §




 勇者との決戦を終えたバエルは自身の住処である城、シャイターンに辿り着く。城門に辿りつくと、大声を上げた



「アスタロト! おるか!」



その声に即座に反応して、姿を現したのは、バエルの右腕であり、魔界の軍師も務めているアスタロトである

人間と同じ背丈、黒の礼服を着た姿に加え、背中に蝙蝠に似た翼を生やし、全身の肌が青黒い姿はまさに異形、である。アスタロトは頭を垂れた姿のまま、姿を現す



「お呼びでしょうか。魔王様」

「面を上げよ、アスタロト。こやつを介抱せよ。丁重にな」

「承知いたし・・・・・・魔王様?」

「何だ」



面を上げたアスタロトはバエルの命に従おうとしたが、バエルが抱きかかえていた者の姿を見て、顔を強張らせる



「この者は」

「勇者だ」



何を疑問に思う。そのような態度を示すバエルにアスタロトは掛けている眼鏡のズレを直しながら、眉間に皺を寄せていた

 この態度は明らかに何か言いたそうな気配だ。こやつの忠言はくどくて敵わん

バエルはアスタロトの行動に辟易していると、案の定アスタロトは怒りを込めながらバエルへと意見を申し出た



「無礼を承知で申し上げますが、勇者は我々を殺そうとした者です。それを介抱せよなどと、いくら魔王様の御言葉であろうと承知しかねます」

「何を言う。この私と死闘を繰り広げる力を持っているのだぞ。こやつは面白い。このまま死なすには惜しい。さあ、介抱せよ」

「なりませぬ。気絶している間に首を刎ねてやりましょうか」

「死なすには惜しいと言っているのだぞ。殺してどうする」



人間程度の体躯しかないアスタロトに対して、頭二つほどの身長を持つバエルの巨躯はその姿と実力も相まって、威圧感がある

だが、アスタロトは決して引かなかった。魔界においてバエルに意見出来る者は数少なく、軍師であるアスタロトがその数少ない一人である

互いに譲らぬ中、アスタロトは呆れながらバエルに疑問をぶつけた



「魔王様は何故、この者に惚れ込んだのですか」

「アスタロトよ、私は長年魔王をやってきた。人間の世界の侵略を始め、神どもが勇者などという存在を作り上げ、私にけしかけてきた。だが、その全てが偽りの勇者であり、私に辿り着くことさえ無かった」

「それは、全て魔王様の御力の賜物であります」

「だが、こいつは違った。こいつは己の力を信じ、民草を守り、仲間を救い、己のみで私と対等に渡り合った。これほどの馬鹿を私は見た事が無い。非常に、興味が沸いた」



バエルの真剣な言葉にアスタロトは言葉を失い、深く溜息を吐く



 この状態になった時の魔王は誰にも止めることが出来ない

 だが、放っておくことも出来ない。ならば、ここは私が何とかするしかあるまい



アスタロトは頭を掻き、重そうに溜め息を吐くとバエルの腕に抱えられた勇者を乱雑に受け取った



「よいでしょう。この者は監禁という形で介護致します。よろしいですね?」

「うむ。こやつが生き延びられれば、私は構わぬ」

「では、そのように」

「それでな、アスタロト。私に考えがある」

「何でしょうか」



アスタロトはバエルの計画を聞いて、元々青黒い肌が更に青ざめる

バエルの極端な暴走はこれまでも度々起きていたが、これほどの暴走は初めてであった



「魔王様、正気ですか!? それを行えば、多くの者が不平を漏らします!」

「だろうな」

「ならば何故!」

「私が、そうしたいからだ」



バエルの声色が、変わった。それを感じ取り、アスタロトの表情が固くなる



魔王の機嫌を損ねること。これこそが魔界で生き抜く中、最もやってはいけないことだ。あらゆることに寛大で器の大きいバエルだが、それ故に怒りが爆発した時の反動は尋常ではない

バエルが怒りを爆発させたのは過去に二度あった。そのいずれもが結果として、魔界に住む誰もが目を覆うような凄惨な光景へと繋がった



その惨状を鮮明に脳に刻み込まれているアスタロトはバエルの言葉に従わざるを得なく、首を縦に振る



「よし、お前もそれでよいな」



自身の右腕の了承を得たバエルは声色を元に戻す。それを感じ取ると、アスタロトは胸を撫で下ろす

 このような横暴は、魔王のバエルであればこそ出来るものだ

しかし、彼が決して権力と暴力を振りかざす暴君ではないことは右腕であるアスタロトは当然分かり切っていた

彼の我儘はそう滅多にあるものではない。だからこそ、今回のような横暴もアスタロトは許諾出来るのだ



「では、牢屋へ」

「うむ」



アスタロトはバエルと共にシャイターンの地下にある牢獄へと歩みを進めた

 シャイターンの中は誰一人おらず、寂しささえ感じられる

その理由は、バエルが直々に部下たち全てにシャイターンから撤退するよう命じたからだ。勇者たちとの会話で放った、部下を犠牲にしたくはないという言葉に嘘偽りは無かった

アスタロトのみは魔王の行く末を見守る者として唯一残ることを許されたのだ

 牢屋へ向かう途中、二人は会話を挟まず黙々と歩いていた

しかし、アスタロトは胸中に燻っていた疑問をバエルへとぶつける



「魔王様」

「何だ」

「触れない方がよいかと申しておりませんでしたが、貴方様に手傷を負わせる者がいるとは、このアスタロト思っても見ませんでした」



アスタロトはバエルの兜の右眼部分に深く刻まれている傷を見て、呟いた

勇者の最後の一撃は、魔王に届いていたのである。完璧には避けきれず、右眼部分が抉れるように破壊されていた。魔王自身に傷は届いていないが、バエルは兜の傷を慈しむように撫でながら、軽く息を吐く



「私もだ」



その声はどこか楽し気にさえ感じられた。その様子を見て、アスタロトは彼に聞こえぬように溜め息を吐く



 ああ。魔王様の調子の歯車が狂ってしまわれていく。他の者たちに何と説明づければよいか



アスタロトは、持病の胃痛が悪化することを予感した

 魔王との決戦に挑み、敗北を喫した勇者。全人類の希望を背負った、その身の行方は、他でもない憎き魔王、バエル=ゼブブの手に握られているのであった






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