四十三、それでも
ササキリエとは二度と会わないつもりだったのに、なぜ誘いに応じたのだろう。マサルはタクシーの座席に深く腰掛けて考えた。
ユリには話してある。けりがついたとはいえ、地衣類密輸に関して今後も取り調べがあるかもしれない。だから、これまでに受けた取り調べの内容をお互い話してすり合わせるのだと説明した。
妻は納得していない。いまさら? という感じだった。
連絡が来たのは先週だった。それから仕事の都合をつけて今日になった。午後は全部空けてある。
すり合わせだけではないだろうと思っていた。退屈した老人との茶飲み話であればいいのだが、特になにもなければ、今後こういうことは困ると強めに言った方がいいだろう。
老婦人は痩せたようだった。それに、顔色が悪い。
「ずっと閉じこもっていますから」
自分でも気づいているようで、茶を注ぎながらしわのよった色の薄い手の甲を見て言った。
「取り調べは大変だったでしょう」
茶を飲み、雑談を少しした後、マサルは本題に入った。
「ええ、慣れないものですから」
「慣れたら困ります。わたしもきつかった」
「司法取引ですか」
「はい。書類の記載ミスってことで、罰金で済みました」
「わたくしもです。あらいざらい話すかわりに、焼却炉を設置する際の申請に誤りがあったことになりました」
「ご連絡にあった、すり合わせ、とはどういうことでしょうか。けりはついていますし、こうして直接会わなければならないことですか」
高齢者によくあることだが、なんでも顔を会わせたがる。どのような話し合いか教えてほしいと伝えても、直接会いたいの一点張りだった。
「いいえ。すみません。ただ、どうしてもあなたと話したかった。ヒデオ君のことで」
「息子が、なにか」
「JtECSから聞きました。論文のことも。すばらしいお子さんですね」
すばらしい、には皮肉などは混ざっていない様子だった。しかし、話がどこに向かっているのかわからない。
「すばらしい、とは?」
「わたくしとあなた、それにJtECSが嘘やごまかしを続けるなか、ひとりだけ真実を追いかけたでしょ」
「子供ですから。思い込んだらまっすぐに進むことしか知らない。これから苦労するでしょう」
老婦人は驚いたようだった。
「まあ、そのようなことをおっしゃるなんて」
「でも、子供は子供です。真実を追うのなら最後まで追うべきだったのに、わたしやJtECSのごまかしで簡単にあきらめた。あいつのはその程度の信念です」
「厳しいですね」
「親ですから」
マサルはあまり話さず、相手の出方を待った。
「立ち入った話で申し訳ありませんが、奨学金、お受け取りになるんですか」
「JtECSはなにもかも話したんですね。ええ、受け取るつもりです」
老婦人の目が同情と、蔑みを含んだように感じられたが、一瞬であり、気のせいかもしれなかった。
「どうでしょう。それは拒否なさっては。その分をわたくしが提供いたします」
マサルは相手がなにを言っているのかわからなくなった。ササキリエは話を続ける。
「取り調べの後、なにもかも聞いたわたくしは基金を設立しました。『城東市青少年教育基金』です。表向きの目的は青少年の教育の機会が経済的理由で失われないよう、奨学金を提供するというものです。返済不要の」
「表向き?」
「本当はかれらに対する抵抗です。ささやかですが。電気信号のくせに人間を見下して、自分をほめる論文に金銭を提供しようというJtECSに、そうそう思い通りにならないとわからせてやりたいのです」
目が光った。高齢であっても、なにもかも衰えたわけではないと知ったマサルは恐ろしくなってきた。
マサルのかすかな怯えをさとったササキリエはたたみかけるように言葉を放った。
「JtECSの奨学金を受け取るつもりですか。ヒデオ君の誇りはどうなりますか。どうかわたくしの願いを聞いてください。同額、いや、もっと提供してもいい。無条件です。いや、ひとつだけ。JtECSの金は拒否してください」
この人は思い詰めている。まったく理屈になっていないが、自分の中でだけはすじが通っているのだろう。
「ヒデオ君とも話をさせていただけませんか? 三人、いやお母様も入れて四人で」
「お気持ちはわかります。しかし、JtECSの鼻を明かそうと言うだけのことに、わたしの息子を使わないでください」
マサルは婉曲に断ることをあきらめた。ここで絶縁しないといけない。
「くやしくはないのですか」
「くやしいし、残念ですが、あなたの金銭を受け取ることも同様にくやしいのです。だって、それはヒデオをあなたの鬱憤晴らしの道具にされるということですから」
「ずいぶんはっきりとおっしゃいますね」
「もうひとつはっきり言いますが、あなたには休養が必要です。ひとりで考えすぎないで過ごせるような人付き合いもです」
「わたくしの提案を受けてくださった方もいるのですよ。論文の主著者、タキという子です」
「その子は知っています。息子の話からですが」
「どう思われます?」
「なんとも思いません。それはその子の決断です」
「ヒデオ君自身に決めさせないのですか」
「親として、それは断ります。あなたに会わせることなどしたくない」
老婦人は青い顔をして茶を飲んだ。
「すっかり冷めてしまいましたね。おかわりは?」
マサルは首を振って断った。
「もうわたしにはなにもないのですよ。地下室の地衣類には回路菌が感染しています。JtECSの監視装置もあります。それも取り引きの条件でした。北へ進出する予備試験だそうです。たぶん、世界中でおなじ目にあっている人たちがいるんでしょう」
家を出る時、ササキリエはいつものように玄関枠を額のようにして立ち、そう話した。
「それでも、わたしたちは生きていくのです。人間はずっとそうやってきました」
マサルはそれだけ言って、後を振り返らずに帰った。空は暗くなりかけていた。
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