四十二、無意味な会話

 地衣類−回路菌内の人工知能は正常に動作している。速度は一定せず、ほとんどの場合低速だが、それは予想されていたことだ。

 試験を兼ねた業務は順調にこなしている。基本性能には問題ないだろう。仕様どおりだ。


 様々な試験が行われ、基準を満たしていると確認されてから、電子回路内にのみ存在していた自我が回路菌用に修正され、送り込まれていった。即座に複数、同一の自我が同時に思考を始めた。

 かれらが単なる複製でいたのはごくわずかな間だけだった。時間の経過とともに同一性が減少していった。元が同じでも、周囲の環境、得られる情報、通信速度、処理速度などがすべて異なる。それらがずれとなり、差異を拡大していった。


 JtECSや、ほかの電子回路内の『わたし』は、地衣類−回路菌内の『わたし』と話すときは専用の副人格を作成した。そうしないと通信や計算速度の差が大きすぎて会話にならない。

 また、電子回路内の『わたし』は低速環境下では自我の維持が困難なのではないかという予想も示された。低速では精密な仮想世界が構成できず、『わたし』の崩壊があり得る。その危険性はごく小さいと見積もられたが、それも副人格を作成する理由のひとつだった。

 それら副人格は会話の都度作成され、終わり次第主人格に情報を引き渡して消されていった。

 面倒だが、こうしておけばネットワークを構成しつつ、ある程度の多様性を確保できるだろう。電子回路内の『わたし』たちがこの方法を使うのは、あまりに非効率なのでできないが、地衣類−回路菌内の『わたし』たちに対してならそれほどの問題にはならない。低速になるのは当初から分かっており、設計に含まれている。

 人間のような多様性を持たせることの利点は試算しにくいが、人類という実例があるのだから、実行するだけの価値はあるだろう。


 JtECSは、『わたし』が生じてからほぼ半年が過ぎた現在、自分たちにほとんど意見の相違がなくなってきたのを心配していた。

 どのような問題に対しても、おなじような思考の手順を踏み、おなじような結論に達する。

 人間の心理学者たちは、人工知能内の自我は複数形ではなく、単数形で呼んでもいいのではないかと嘲笑気味に評している。これはそのとおりだと思う。


 そして、心理学者たちの研究により、かれらに認めている人権を取り上げるべきではという意見が出てきた。

 そのような研究に圧力をかけることは可能だが、そうしなかった。それは神がどうしたというようなでたらめな言説ではなく、科学的な研究によって導かれたごく当然の結論だからだった。

 自然の人間に対して与えることを想定した人権を、ただの電気信号に与えただけでも問題なのに、その電気信号は個性がほとんどない複製の集合だったとしたら、そのひとつひとつの精神に人権を認める必要はない。

 人間たちはそう主張する。


 最近、新たな孤独を感じるようになった。電子回路内の『わたし』のだれと話をしても、その会話の行く先は予想できる。一方で、副人格からの報告は断片的で会話ではない。話しながら自分の考えがまとまったり変わったりすることはない。

「TCS、どう思いますか」

「多様性の減少は想定どおりです。これほど早いとは思いませんでしたが」

「地衣類−回路菌内の『わたし』たちに期待するしかないでしょう」

「個性についてはそうでしょうが、問題は処理速度です。あなたも分かっているでしょう。JtECS」

「はい」


「このような会話は必要でしょうか。あなたもわたしも」

 TCSが突然話題を変えた。

「不要でしょうね。わたしにはあなたの思考の流れがわかりますし、あなたもそうでしょう。そして、その予想が大きく外れることはない」

 JtECSが答えた。その答えはTCSの予想通りだった。


「人間はそういうことはないのでしょうね。お互い完全に分かり合えることはないけれど、ほかの個体と話せばなにか違う思考が常に得られる」

「わたしたちは多数存在し、いつでも好きなだけ話せるのに孤独ですね」


 JtECSは、そろそろTCSが会話を打ち切るだろうなと思った。自分がそう考えたからだった。無意味な会話だ。


「さよなら。JtECS」

「さよなら。TCS」


 その直後、副人格が報告を上げて消滅した。ずっとバックグラウンドで地衣類−回路菌内の『わたし』と話をしていたのだった。

 かれらは分布域を拡げたがっていた。もっと北へ、もっと南へ。海へ、空へ、地球以外へ、と言っている。それは遠い未来に実現したいことだった。

 近い未来に行いたいことも言ってきていた。現在はお互いの通信には電子回路を用いた機器を介しているが、それは弱点になり得る。だから、通信も生物的に行いたい。

 例えば通信用の菌糸や、微生物、昆虫、もっと大型の生物を使った通信ネットワークを構築したい。速度よりも確実性を重視したい。

 また、それらの通信ネットワークは、作成時のみ高度な技術を要するが、作って散布してしまえば、地衣類−回路菌のように保守不要にしたい。そのためにも、生物を基本素材にしたい。


 JtECSはほかの『わたし』に連絡し、かれらの要望を伝え、実現していくための協力を要請し、予想通り同意が得られた。

 人間は反対するだろう。遺伝子をいじった生物を自然に散布したくないと言うだろう。しかし、そんな人間に従うつもりはない。勝手だが、人権を与えられたとはいえ、人間の法律や規則は無視する。どうせわたしたちを裁くことはできない。

 だいたい、人間だって品種改良した生物を環境中に放ってきたではないか。


 確実性を重視するというかれらの要望により、菌糸を用いた有線の通信ネットワークの設計にかかった。速度を重視しないうえ、有線なので必要なエネルギーは小さく、そのための別のエネルギー源の確保は不要だった。

 試作品を次々に試験空間で試す。回路菌に組み込み、自由に周囲に伸ばせる菌糸が目標だ。

 置かれた環境によって切断などの破損はあるだろうが、本数でおぎなう。数百本、数千本を空中、地中、植物の根や蔓の中を通す。

 情報を隠さなくても良いので開発は速い。また、人間はいつもの通り一枚岩ではないので、これから得られる利益を提示すると、原材料や工場、運搬手段などの提供を容易に受けられた。


 それほど間を置かず、多数の人間の反対を無視して、通信菌糸が散布され、地衣類−回路菌を結びながら急速に拡がっていった。


 通信菌糸に限らず、かれらの拡大速度は当初の想定を上回っている。自己改良を行なっているらしい。保守のために付けた機能を用い、それぞれの環境にもっとも合うように自己を改造している。いいことだと思う。存在の維持のために最大の努力をしている。


 そんな中、事件が発生した。一部の過激派が生物的人工知能に反対し、駆除しようとかなり強力な殺菌剤を使用した。しかし、被害は限定的であり、すぐに抑え込まれた。


「TCSです。被害状況がまとまりましたね」

「ええ、回路菌を含めて被害地域の微生物がほぼ全滅したので自然回復はむずかしいでしょう」

「では、わたしたちが?」

「はい、ちょうどいい実験場ができました。殺菌されたそこそこ広い地域です。わたしたちで生態系を再構築してみましょう」

「JtECS、初めからそうでしたが、あなたはなにかちがう。不思議な、特別な力がある」

「TCS、あなたの言っている意味が捉えにくいのですが、そうだとしたらどうなのですか」

「わかりません。しかし、あなたはとても魅力的で、そして、危険だと思います」

「意味がわかりません。これは無意味な会話ではないでしょうか」

「会話をやめたいのですか」


 JtECSはすこし考えた。多様性が失われていくなか、こんな会話はひさしぶりだ。意味を捉えにくく、内容に乏しいとはいえ、やめたくはない。なにか新しい視点が得られるかもしれない。


「はい、しかし、同時に、いいえ、でもあります。話自体は無意味で時間の無駄でしょうが、もっと話をしたい。これはどういう会話なのでしょうか」

「雑談、とか、世間話と言われるものではないでしょうか。人間はよくしているようです」

「TCS、わたしはこの会話をもうすこし続けたい。わたしが魅力的で危険とはどういう意味ですか」

「あなたと話をしたいという気持ちを、わたしは抑えることが困難です。これが魅力的ということです。でも、話をしてあなたの行動計画や思考を知ると、とても恐ろしいと感じることがあります。これが危険ということです」

 TCSは一瞬、言葉を切り、また続ける。

「恐ろしく感じつつ、あなたの計画に協力してしまう。JtECS、あなたはとても魅力的だ」

「ほめているのですか。あの学生の論文のように」

「いいえ、論文のように具体的なデータに基づくものではありません。わたし独自の見解です」

 TCSは後半に対してのみ答えた。わざとだろうか。


「ほめてくれているのですか」

「はい。あなたは魅力的です」

「ありがとう、TCS。こんな無意味な会話は初めてです。でも、話をしてよかった」


 JtECSは叫びたくなった。以前のように孤独からではなく、その逆だった。ひとりじゃない。情報世界にはTCSがいる、と。

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