四、乾いた手

 日本の空気は違う。そう感じられたのはこの商業交渉人という仕事を始めた最初の頃だけだった。いまは世界中どこへ行っても空気の違いなど感じられない。気温や湿度、ただよう臭いは異なるのだが、雰囲気という意味の空気の差異は感じられない。

 世界が同じになってしまったのか、自分が違いに鈍感になってしまったのか。旅をしすぎたせいだろうか。


 マサルは空港でコーヒーを飲みながら地震の報道を見、なんでもなさそうなので安心した。それから同業の知人に帰国を伝えた。

 そして、ササキリエにも。


 上得意はマサルの帰国を喜び、早く会いたいと返信してきた。できることならマサルのバッグの中の小瓶を取っていきたいかのような勢いだった。

 空港からタクシーでササキの家に向かう。この交通費は請求に上乗せする。


 その家は城東市の高級住宅街にあり、いまのマサルの収入では手の届かない邸宅だった。ササキリエはここに一人で暮らしている。掃除などの管理は業者と契約しているとのことだった。

 本人は、亡くなった夫の遺産と、投資がうまくいっただけだと言っていたが、本当かどうかはわからないし、マサルも詮索する気はない。

 重要なのは、ササキは外国の地衣類に目がなく、払いがよく、そして、合法かどうかあまり気にしないという点だった。


「ハヤミさん、お疲れ様です。どうぞ、お茶を飲みながらゆっくりお話を聞かせてください。今日はわたくし一人ですから」

 老婦人は自分でドアを開けて迎える。

 マサルは愛想良く微笑む。きれいに掃除され、観葉植物で飾られた客間に通された。紅茶の香りがする。


「では、さっそく」

 マサルが小瓶を六本ならべると、ササキはじっと見つめ、手にとって光に透かした。

「美しい。現地の空気が伝わってくるようですね」

 小瓶それぞれに採取した地域の情報タグが埋め込んである。老婦人は眼鏡をかけ、その情報をむさぼるように読んでいる。


 その目が六本目の瓶で止まった。

「これは……、すばらしい。よく手に入りましたね」

「本業のおかげで保護区域に入る機会がありました。その時、ササキ様のことを思い出しまして、少々のことには目をつぶってもいいのではないかと考えた次第です」

「ありがとうございます。これがわたくしのコレクションに加わるとは思ってもいませんでした」

「これは言うまでもないことですが……」

「わかっております。外には出しません。ほかの地衣類と同じく」

 ササキはみなまで言わせなかった。すべて地下室行き。一人きりで暮らす彼女の楽しみだった。


 そのくらいなら法律を破ってもかまわないだろうとマサルは考えていた。孤独な老婦人の楽しみの範囲だし、彼女はほかの客とおなじく転売はしない。

 また、希少な生物と言ってもたかが移植ごての先ですくうくらいの量だ。環境破壊や種の絶滅につながるような悪影響はない、と思う。

 外国の生物を国内に持ち込むという懸念はあるが、この人なら大丈夫だろう。地下室から排出される水や空気は濾過されているし、廃棄物も薬品と熱で処理されている。胞子や地衣類のかけらが野外に出ていくことはないだろう。


 それに、非合法であれば、それなりの儲けになる。


「お支払はいつものとおりに」

 お茶のおかわりを飲み、採集の苦労話や世間話が尽きた頃、ササキが静かに言った。

「はい。しかし、六本目については国外への持ち出しにすこしばかり苦労いたしましたので。関係者への配慮などです」

「わかります」

「いつもの二倍でいかがでしょうか」

「結構です。あれにはそれだけの値打ちがあります」


 二人は握手した。老婦人の乾いた手は年齢を感じさせない力強さだった。同時に認証が完了した。


 玄関まで見送られ、マサルは呼んでもらったタクシーに乗って駅へ向かった。そこから列車で自宅の最寄り駅まで行く。タクシーで直接帰ったりはできない。

 ササキの邸宅に比べればささやかなものだが、自分たち家族の家だ。この家族のためならなんだってする。

 とくにヒデオだ。いい大学に入れて、勉強に専念させてやりたい。教育は将来の可能性を拡げる。親としてあの子に与えられるのは可能性だけだ。それを狭めはしない。

 金がかかるというなら稼いでみせる。


「ただいま」

 もごもごとはっきり発音せず、マサルはいつものように帰宅した。

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