第27話 何晏『論語集注』の到来

 言継が終わって、宮で窓から外を眺めていた。陽がカグ山の向こうに落ちていって、田や建物が、あるいは行きかう人々が橙色に見える。虫の鳴き声が、すっかり秋のものに変っていた。

 戦がないのがコメの取れ高に繋がっているようだ。私がのんびり《文字》を読んだりできるのも戦がないから。

 ここいらの言継ときつぎのことを考える。女たちは、想うよりもたやすく、物語を分けて考えるやり方になじんだ。私はチョウセイから《文字》を学んでいたから、《文字》で物語を分けるすべをすでに得ていた。しかし女たちは連なりしかしらないはずだ。それでも、物語の互いに異なるところだけを、巧みに抜き出せた。《文字》を学んでいたから、私は一足、他の女たちより進んでいるものと思っていたのに。


 テルセがやってきた。

「テルセ、あなたは自らの仕事をどうやって覚えてますか?」

「ふぁ、トヨ様。私、覚えが悪くて……」

「はあ。でも、覚え方があるでしょう」

「うーん。私は上手くできないのですけれど、仕事の速い端女はしためは、仕事にかかる時と、仕事に幾人要るかと、仕事に要るモノと、仕事をする所を細かくしっかりと覚えているそうです。それで、入れ替えたり、時を同じくして二つの仕事を行なったり……できるそうなんです。私は、焦っちゃって……上手くできません」

「わーやはり、分けて考えて、それで並びを代えたり二つを一度にするんですね。その端女は文字を知っているんですか?」

「いいえ」

「そうですか、ありがとう」


 テルセが八つ目の灯を点け終えたあと、いつもなら去るのに宮の出入り口に静かにとどまっているのが眼に入った。

「私、やっぱり仕事、遅いですか?」

「え? そんなことないですよ。それに火を灯すときに急いだら、斎の宮を燃やしてしまいますよ。テルセは焦ったら色々やりますものね。虫に驚いて火種を忘れたり、嫌いなキノコを私に押し付けたり」

 テルセの顔がぐっと曇るのを見て、私はまだ《徳》《孝》が全く足りない、と思った。だからあわてて言葉を加える。

「あ、テルセ。心を悪くしたら謝ります。私は、……ずっとこの宮に籠められていますから、テルセのような年の近い女と話すことができて、ずっと助かっていますよ。文読みのときだってそうです」

「……もっとさとい端女はいくらでも……。戦がなくなって、仕事がどんどん細かくなっていきます。私は……」

「テルセ、心に障ったらすみません。私ったら、宮に篭められたせいで、人の心が、その、わからなくなってるのかも。どうか、心を安らげて」

 テルセは小さく声を出して去っていく。あたりはいつの間にか真っ暗になっていた。


 次の日の文読みに、いつもどおりテルセがやってきていた。テルセを見つめるけれど、いつもと変わらないようにも見えるし、いつもと違うようにも見える。

 心が乱れたまま、チョウセイと《書》を読む。近頃は、『論語』に付いた《注釈》を読んで色々とチョウセイと話をしている。『論語』はとうの昔に読み終えてしまったのだけれど、『論語』はとっても昔に書かれたから、そのこころが時の流れの中で失われたり、意が人によって異なりうるところがある。だからカラクニの聡い人々が、『論語』の意を解りやすく説いた書がある。

 こうした《注釈》を読みながら、『論語』についてさらに深く考える。仲尼が生きたのが今から七百四十年ほど前。この前まで読んでいた《注釈》は今から五十年ほど前に生きた鄭玄ジョウゲンという人のものを読んでいる。

 鄭玄さんは偉いなって思う。昔の人が、『論語』をどのように読み解いたか、ひとつひとつじっくり読んで考えて、《注釈》としてまとめたんだ。

 チョウセイの教えは目覚ましい。はじめ『論語』を学んだときは、読みと、やさしい意を教えてくれた。他のたくさんの《書》を読むうちに、『論語』に戻ってきた。《注釈》を読み、他の《書》に現れたことがらと比べながら、さらに考える。

 チョウセイの顔がいつも以上ににこやかだ。その訳を問うまでもなく、チョウセイが自ら語り始める。

「姫様、近頃カラクニの宮では『論語』の新たなる《注釈》をしておりましたのを前にお話ししましたな」

「ええ」

「ついに! っついに! 倭のクニに届きましたぞ! ひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひ」

「ふぁふぁ! は、早くみたいです!」

「焦って読んでもいけませんよ。良く噛んで味わうように、違いがどこかしっかり見極めて読むのです! さぁ早く読みましょう。どれどれ、あ、やはり、あああ」

「なになに? 早く見せなさい!!」

「新しい《注釈》は、やはり何晏さんの名のもとで纏められたようですね」

「かあん?」

「今の世で最も、……最も目立つ《儒者》です。私も一度だけカラクニの宮でお会いしたことありますが。とても変わったお方で」

「あの、チョウセイも変わっている方だと思うのですが……」

「ええ、私も変わっている方だと思います。ですが何晏さんはもっと変わってましたよ。ええとまず、自らの顔の美しさを誇らしく思っています。それで色を白く見せるために白粉おしろいをぬってます」

「ふぁー。カラクニの女の人なら解りますが!」

「それで、鏡をいつも持っていて、顔を見てうっとりしてるそうです!」

「きも」

 チョウセイはちょっとだけ笑みを作って、それでふっと息を吐く。そしてどこでもない、仮宮のどこか上のあたりを眺めてしばらく黙る。考え事をしているときのしぐさで、そのあと、私に色々な新しい問いをしてくる前のしぐさだ。

「姫様も知っていると思いますが、今カラのクニのまつりごとは乱れて数十年経ちます。数百年続いた《漢》がなくなりました。《漢》のまつりごとを継いだ《魏》のクニは、カラクニの全てを治めているわけではありません」

「少しだけ、聴いたことがあります。なんとなく、カラクニってとても大きくてまつりごとも手業も進んでいると思っているのですが、そんなカラクニでも世が乱れることがあるのですね」

「カラクニのたくさんの人が、この乱れた世について戸惑っています。姫様は《史》がお好きですが、仲尼の生きた世もまた乱れた世だと覚えていますか?」

「《周》のまつりごとが乱れて、たくさんのクニに分かたれて、そのうちに七つの大きなクニにまとまって、それで……《秦》が全てを平らげた」

「その《秦》を倒して、《漢》が現れた」

「でもまた乱れて《魏》が興った。うーん、進んでいるのか退いているのか、これではわかりませんね。カラクニすべてを平らげた《漢》の世から退いているようにも思えます。戦ばかりで」

「《漢》の世が乱れて、《漢》がなくなるころから、カラクニの人々は大いに戸惑います。それで、何晏さんの話に戻りますよ! 乱れた世にはああいう、際立ったたちのお方が現れるわけです。《魏》のクニの帝の祖である曹操様も乱れた世を渡り歩くに相応しい性質だったそうですよ」

「おかしいなーって思うのは、『論語』で語られるような《仁》とかからはかけはなれてますよね、その何晏さんは」

「ははは、そーですね。姫様。でも、何千年と残るかもしれない仕事をした。おそらく、乱れた世だからこそ、です。乱れた世だからこそ、際立った質の者が現れ、乱れた世だからこそ、《書》や《詩》が持て囃されるのです」

「そうですか。我がクニはようやく戦がおさまりつつあります。だからこそ私もゆっくりじっくり《書》を読めるのだと思うのですが……」

「カラクニが乱れて、倭のクニが平かという二つの動きが合ったのが良かったのかも」

「なるほど。しかしチョウセイ、あなたは変わってますけど教えるのがとても上手ですよね。改めて思います。カラクニでは何をしていたの?」

「ひひひひ、ただの舎人とねりですよ。ただ、《師》のもとで学んだだけです」

「カラクニに居れば名のある《儒者》になれたかも!」

「あはは、そう言っていただければ、倭のクニまで来た甲斐があります。でも、私はそこまでではありませんよ。今カラクニでは世が乱れているためか、宮に仕えるのではなく、林や森に隠れて暮らすのが流行っています。宮の中は蛇のすまうところ。偉くなれるかもしれませんが、いつ命を狙われるか。そういうのを避けて、隠れて暮らす。私はそういうのに憧れていたんですがね、まさか倭のクニまで来るとは思いませんでした。そこだけは、他の者とは際立って異なるところだと思います」

「私の話し相手になってありがとう」

「ひひひっひひひひひ、可愛くて巫女で姫で聡くて《書》も読めるとなると、やる《気》が違ってきますな。それに近頃はとっても女らしくなって……お顔は花のように美しく、腰つきは柳のようにしなやかで、肌の……」

 テルセがチョウセイを諌めるために、剣で大きな音を出した。これで、私たちは我に返る。

 チョウセイはかしこまって言を加える。「とにかく、倭のクニでも《仁》は考えることができる。クニが違ったっていけるのです。倭の者が《書》を読んだっていいのです。カラクニが乱れた今だからこそ、遠くに……」

 此度の文読みは、ほとんど何晏の『論語集解』の中身は読まず、今のカラクニの世のありさまについて語り合って時を費やした。終わりにチョウセイが付け加えた。「あ、何晏さんは、とても質が際立っておられましたから、おわかりかと思いますが、その、あだがとても多いのです。とても。宮は蛇がすまうところです。殺されてなければ良いのですがね」

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