【02】翡翠の視界
愛用のちょっと特殊な面を片手でもてあそびながら、なんとなく黒板を眺める。授業中なのでいろいろと書かれているが、どうも頭に入ってこない。いや、頭には元々知識として入っている。だからこそ授業に対する意慾がわかない。
ヒトオミは暇潰しがてら、当てもなく視線をふわふわと泳がせる。
肘をついて寝ているのをごまかしてる名前も把握できてないクラスメートや、教師の話を真面目に聞いている緑髪の少女。他人には見えないが、ウインドを開いてなにやらやっている赤い髪の友人。それと似たような動きを青い髪の友人もしているので、多分二人でなにやらチャットをしているんだと思う。ヒトのこといえないが真面目に授業受ける気はないのか。赤い方なんて笑いをこらえているためか、肩をふるわせている。
残りの友人――トワは真面目に授業を受けているのかと何気なく目を向けると、ヒトオミの黒目がちの目だからこそ見えるものが視えた。
正確には、ヒトオミの『色』は緑なので黒目ではないが。
それは金色の鱗粉を纏いながら教室内を浮遊している。
背に羽を生やしているとはいえ、根本的な姿は人間と大差ない。だが、大きさは手のひらサイズ。
世間的に【妖精】や【精霊】と呼ばれている本来なら見ることができない生物だ。
この20人以上いる教室内で、その姿を目視できているのはヒトオミとトワしかいない。それは、視えない周りがおかしいのではなく、視える2人が異常者だということを暗に示している。
魔法、魔道、魔術。
それらのすべての元となる魔力。それは人間が生きていく上で必要不可欠な酸素と同じように空間を漂っているらしい――と、先代人類の遺産である【システム】が言っていたし、学び舎で学ぶ基礎知識だ。
その魔力がある一定量集まり、力場を固定すると命を持つ。そしてそのまま成長を進め、成れの果てが【人外】とくくられ、固有名詞をもつ生物だ。例えば、人の姿をしたオオカミである人狼や、首と胴体が分かれているデュラハンがそれに当てはまる。
【人外】になると目視できるのも一部いるが、その過程は一切視ることはできない。それでいて、人間にちょっかいを出してくるのだから厄介なのだ。
それなりの害を与えてくるため、視えるほうが便利だという意見もあるらしいが、視える方からすればそうは思わない。
【人外】となる前の段階を、世間がなんと呼んでいるか。
幻覚、幻影の意を持つ【ファントム】や、悪夢、亡霊の意を持つ【ゴースト】と名付けた。
見たくもないもの――そういうニュアンスを臭わせた呼び方をしておいて視たいだなんてよっぽどの物好きなのだろう。
事実、【ファントム】も【ゴースト】も大抵はえげつない見た目をしている。
ヒトオミはトワから視線を外し、また意味もなく黒板の方に目を向ける。
担当教師の背後には、ヒトオミが入学した当時からずっと黒い何かが寄生している。何かを訴えるように咆哮をしているようだが、声はない。たまに手のような触手のようなものを教師の瞳に伸ばし、眼球を抉ろうとしているが決行したことはない。その黒い影のような本体をたまに成長させて、羽交い締めにしているが教師に直接の影響は与えられていない。影響を与えられていないということは、もちろん教師に気づかれているはずがない。あの教師は自分が摩訶不思議で不気味な生物を意図せず飼い続けているということを知らないのだ。
正直見ていて気分のいい物ではないが、もう15年以上この【目】と付き合っている。もう慣れてしまった。
そして、自分がみえているそれは誰にもみえていない。
少し特殊なトワにだって、みえているのは【精霊】と【妖精】だけだろうし。
何も影響を与えてこないのなら、案外視えない方が幸せなんじゃないのか。ヒトオミはそう首をかしげる。
【ゴースト】は人間に何かしらちょっかいをだしてくる。
あの教師に取り憑いている黒い何かはまだ成長が足りていないから何もできていないだけで、でもその前兆は4月頭からずっと見せている。
あの教師はいったいどうなってしまうのだろうか。
あの黒い何かが飽きてどこかに行ってしまうのか、それとも黒い何かの餌になってしまうのか。
まぁ、いつかは分からないけれど、残念ながらいつかは何かしらの結果が出るだろう。
もしかしたら、ある日突然、あの教師が行方不明になるかもしれない。
それでもヒトオミは無関係だ。
誰にも【ゴースト】は視えないのだから、注意をしたって変な目で見られるのは自分だ。目立つことが何よりも嫌で、更には変な目で見られるような結果が待っているようなことをするはずがない。そこまでお人好しでもない。
どうか自分と関係のないところで終わってくれ。
黒い何かが大きく口のようなものを開ける。
その内部には同じく黒いものだが、牙のようなものが鋭く並んでいた。そしてその口で教師の頭部を丸呑みにしようとしたところで授業終了のチャイムが鳴った。
教室から出て行こうとするその教師はとりあえず丸呑みされることは逃れたらしいが、その首に黒い触手が巻き付いていた。
◇
「……なぁ、ヒトオミ君?」
休み時間に、トワが控えめにそう言ってきた。
何かためらっている彼の頭には、先ほどから教室内を飛び回っていた精霊が座ってこちらを見ている。精霊にも人間と同じように個体によって個性が違う。性格が違う。その精霊のつり上がった大きな目から、勝手に気の強そうだと思った。トワが気乗りしない口調で声をかけてきたのは、その精霊に強引にここまで連れてこられたからなのかもしれない。予想でしかないけれど、多分完全に間違ってはないと思う。
「どうしたの?トワ君」
何も見当はつかない。そういう素振りで声をだす。その頭に乗ってる小さな生き物にも気づいてない、そんなふり。
トワは「あのな?」といつもの訛った口調でしゃべり出す。
「さっきの先生、おるやろ?」
一体どこの地方のしゃべり方なのか。あまり聞かない訛りにいつもそんなことを考える。考えつつ、「いるね」と答える。聞いたことのない訛りだが通じないわけではない。それに標準語と言われている自分たちと同じしゃべり方も混ざっているため完全な訛りではない。
トワは周りに気を遣いながら声のボリュームを調節する。多分、誰もが自分の話題に夢中で聞いていないとは思うが。
「その、憑いてるらしいんよ」
「……、」
「あ、いや。俺は視えてないんやけど、その」
いいわけ口調で吃る友人の頭に乗ってるかわいらしい生き物には目視できるはずだ。そして、その生命体にはヒトオミの【目】なら視えることも分かっていることだろう。
「うん、憑いてるよ」
あっさり同意したことに拍子抜けしたようだった。
相手が彼でなかったら、自分だってこういう対応はしていない。正確には、その頭の生命体がいなければトワ相手にも視えない振りを貫き通すが。
「トワ君のお友達はなんて言ってるの?」
「へ、」
精霊が何か口を動かす。その声はトワにしか聞こえない。精霊側には自分の声を誰に聞かせて誰に聞かせないのか取捨選択ができるらしい。便利なものだ。
「『どうにかしないの?』……だって」
「どうにか、ねぇ……」
ヒトオミは少し考える素振りを見せて、トワに、そしてその少し上に目線を動かす。
「だってまだ何も起きてないよ?それに、俺にはどうにもできないし。なんのために紱魔師がいるのさ」
「……えっと、『そういう問題なの?』」
「どっちかっていうと、おたくらの方が専門なんじゃない?」
小さすぎる目と、大きめの緑色の瞳が交差する。
「大丈夫でしょ、まだ」
ヒトオミのその答えを聞くと、精霊はトワの頭を離れた。
鱗粉を纏いながらトワの周りを数周回ると、ぱっと姿を消した。
「なにがしたかったんや、あいつ」とトワが怪訝そうに呟く。
「トワ君の身の回りの人間が危険だから、気にしてくれたんだと思うよ」
「えぇ?……あいつ、そんな優しい奴やないで?」
あいつ。
家族にでも向けたような呼び方に、温かみを感じる。あの生き物をそう呼ぶのは多分この友人ぐらいだ。
「言っとくけど、あの先生の心配をしてるんじゃないからね?」
「うん?」
「あの先生に憑いてるヤツが成長して、先生だけじゃなくて周りに――ってか、トワ君に何かやらかすんじゃないのかって心配してくれてるんだよ」
「えー?尚更ないわ。あいつはしょっちゅう俺のことバカにしてるし、暴言ばっかや」
「俺には楽しげな兄弟げんかみたいに聞こえるよ、それ」
「あれ、ヒトオミ君兄弟いるんだっけ?一人っ子?」
「一応いるよ」
一応。仲はすこぶるよくないけれど。
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