第1話 無言の叫び

自分の身に何が起こったか理解できず思考停止し、何もリアクションが取れない状態になることを”フリーズする”と表現する場合があるが、今の勇治ゆうじはただ自分の左手に収まった一冊の本を凝視することしかできず、まさにフリーズしていた。ただし心臓と汗腺だけはいつもより数段活発になっており、動悸とともに嫌な汗が額を伝う。


「いま、これ、どっから出てきた……?」


何とか絞り出すように呟くが、答えてくれる者は居ない。今リビングには勇治一人なのだから。


数十秒後、勇治はやっとのことで”このまま固まっていてもらちが明かない”と考えることができるだけの思考力を取り戻した。

まず表紙を見る。タイトルは全く知らない謎の言語で書かれているが、何故か勇治には読むことができる。


「”地底の物語”……夢と同じだ」


よく見るとタイトルの右下辺りにも同じような言語で小さく何か書かれているが、こちらは読めない。

背表紙と裏表紙には何も書かれていない。単なる革だ。

厚さは文庫本以上、辞書以下というくらい。

本を開かずに得られる情報はこれだけである。これ以上のことを知りたければ本を開く必要がある。

今朝の夢のせいか、調べているうちに自分でも驚くほど早く冷静になった勇治は警戒しつつも特に臆すこと無く右手で本の表紙をつかみ、開こうとする。


「……開かない。これも夢と同じだな……」


早速これ以上できることがなくなり、どうしたものかと首をひねっていると、2階からドアの開く音と、それに次いで階段へ向かう足音が聞こえてきた。どうやら妹が起きてきたらしい。思わず本を椅子の背もたれと背中の間に隠す。この本を家族に見せるのは何となく躊躇ためらわれた。


「おはよ~」

「あら杏理あんり、おはよう。朝ご飯出来てるわよ」

「ありがと。あ、兄貴もおはよう」


足音が近づき、リビングに妹の杏理が現れた。すでに学校の制服紺のセーラー服に着替えている。杏理は高校1年生で、勇治と同じ高校に通っていた。


「おはよう……いい加減その呼び方やめろ。不良ワルっぽいぞ」

「えー?いいじゃん別に。そっちこそいい加減諦めてよ」


勇治の言葉に「またか」といった様子でショートカットにした黒髪の後ろ頭を片手で掻きながら目をそらす杏理。これは何度か繰り返したやり取りだ。実は勇治もすでに半分諦め、兄貴という呼び方を受け入れ始めている。いつもならここで勇治がため息をついて「へいへい」とでも言って終わりなのだが、今回は少し違っていた。続けて杏理の声が勇治の耳に届いたのだ。


(この歳で”お兄ちゃん”とか呼んでるの友達に聞かれたら恥ずかしいじゃん。”兄さん”って感じは全然しないし……)

「おい、それはどういう意味だ」

「えっ!? ?」

「ああ、バッチリ聞こえたぞ」

「うわぁ、地獄耳……いや、別に馬鹿にしたとかじゃなくてね? ”兄さん”ってなんかよそよそしくない?」


あはは、と笑いながらごまかすように言う杏理に軽くため息をつき、勇治は壁に掛かった時計を見る。本を調べている間に結構な時間が経っていたようで、そろそろ出発した方がいい時刻になっていた。


「もう出ないとな……あれ?」

「どうしたの?」

「……いや、なんでもない」


立ち上がろうとして気づいたが、いつの間にか背中の後ろに隠していた例の本が消えてなくなっていた。落としたのだろうかと椅子の周りを見てみたがどこにも見当たらない。

もしや、と思い勇治は急いで部屋に戻る。杏理が上ってきていないことを確認して部屋のドアを閉め、左手を胸のあたりまで持ち上げて念じてみる。結果は思った通りだった。

最初に現れた時と同様に虚空からと”地底の物語”が現れ、左手に収まる。今度はそれをベッドに放り出してみる。すると10秒ほどで影も形もなく消え去ってしまった。


「手で持ってないと消えるのか……っと、出る時間だったな」


新たな事実が分かったことに満足し、勇治は学校の荷物を持って部屋を出る。

念じただけで本が虚空から現れたり手を放すと消えたりすることにいつの間にか違和感を感じなくなっているという異常には気づかなかった。





勇治達の通う明霧高等学校あけぎりこうとうがっこうは住宅街の近所にある山の麓に建っており、周囲にバスなどの公共交通機関は通っていないため自転車などが無ければ必然的にある程度の距離を歩いて登校することになる。


勇治と杏理は学校へと続く道を並んで歩く。


「いや~、桜もすっかり散ったね」

「……もうすぐ5月だぞ。今更かよ」


今は4月も終わりに差し掛かる頃。桜が散ったとかそういう話を勇治がクラスメイトと交わしたのはもう1週間以上前の事だった。


「あれ?もうそんなに経ってる?何日か前にはまだ咲いてたような気が……」


そんなすっとぼけたことを言う妹がクラスで浮いていないだろうかと心配になってきたところで道の先に校舎が見えてきた。


「あ、友達発見! 先に行ってるね!」

「おう」


走り出した杏理を見送り、勇治はゆっくりと歩いて教室に向かう。


(あああああああああああああ!!!! 月曜日なんて大っ嫌いだ! くそったれえええええええええええええ!!!!)


突然響き渡った叫び声に驚いて振り返ると他の生徒が何人か歩いている。その中に不機嫌そうな男子生徒が一人。今のはおそらく彼が発した声だろう。気持ちはわかるので勇治は苦笑いする。するとその男子生徒は不思議そうな顔を勇治に返してきた。

周りを見ればかなりの大声だったにもかかわらず、勇治以外の者は彼に注意を向けようともしていない。そもそも叫び声など聞こえていない様子だ。

再びその男子生徒の声が聞こえてくる。


(なんだコイツ?急に人の顔見て……)


ここで勇治は何故誰も彼に注意を向けないのか理解する。


男子生徒の口は動いていなかった。

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