第32話『水平石獅子神楽 6』

 傷の治りが早い。

 落葉の切っ先に傷つけられた痕を指先で撫でなぞると、もうすでにむず痒さだけ感じる肉が盛り上がってきている。切られた瞬間こそ血液は蒸発し、黒き細鋼と化していた肉は灼熱の痛みを伴う衝撃で塞がる気配すらなかったが、時を少しおけばなんということはなくなってしまっている。

 漆黒の魔獣と恐れられた一家のもつ、まさに魔獣の如き治癒力が遺憾なく発揮され、彼の肉体は夜明けには十全を取り戻すであろうと思われる。

 それが、気に入らなかった。


「傷の治りが早い」


 落葉の剣士が打ち振るった刃が肉体を掠めたときの衝撃。あのすさまじいまでの、魔を屠るという『女王の力』の奔流。その身に受けたとき、ああ、自分こそ人ではなく、漆黒の魔獣、魔物側の存在となっていたのだと誇らしく思ったものだ。

 それが、治りかけている。

 痛みも薄い。

 骨よ貴様は半端物だ、と自分自身の魔性に愛想を尽かされたような衝撃だった。爪を立て、傷を付けながら、刀刃の痕をなぞる。ぷるりと盛り上がる血潮と、痛痒。一気に掻き引き、じっと待つことしばし。


「……傷の治りが早い」


 自分自身のつけた傷跡のほうが、落葉のそれよりもはるかに早く治癒していく。落葉のもつ退魔の影響が確かにその身に効果を及ぼしていたことに彼は安堵した。自分はまだまだ、魔性の方向へと魂を染められると希望を持つことができたからだ。

 奏者の使徒である魔女セイリスは、落葉に受けた一撃で魔性の根幹を消滅させられそうになった。その寸前のところを導師に助けられたという。それほどのものなのだ。それほどの落葉カタナに斬られ、自分がその程度の損傷であったのだと思い返したときの挫折感たるや。

 自分はあの魔女如きには劣ってはおらぬ。たかが弟をひとり喰っただけで奏者の使徒と成り果てられた幸運なだけの女には負けられぬ。

 彼にとって、女王の力を帯びた落葉が弱点となることは、思い描く理想の魔物になることの証左のひとつとなっていた。


「未だ道半ば、か」


 骨は闇の中、足下に綺麗に畳まれている肉を、ぬるりと着込む。細い細い骨自身が骨肉を補い、その肉の服がみるみると女の姿を形作っていく。

 長く夕焼けの色を持つ髪を背に流した豊満な女だった。色を失った虚ろな瞳が魔性を帯びたかと思うや、あっさりと厭世した娼婦の艶を帯びる。

 腰をほどくだけで脱ぎ着できる深紅の肌着ワンピースを着けると、壁際の蝋燭に火をつけ、平皿に盛られた臭い消しの香にうつす。男女の営みが饐えた空気と、彼の持つ魔性の腐臭がかき消されていく。


「起きたか。カーシャ、体の方は大丈夫か」


 灯りが漏れるや、しばしして男の声が扉越しに掛けられる。


「もう平気。三日寝てたからね。稼がないと」

「モーゼルの旦那から届いてるぞ」


 骨の艶声が返されると、扉の隙間から折りたたまれた紙片が差し入れられる。扉が開けられることはない。この扉を開けられるのは、この扉の鍵を持つ上客と、モーゼルはじめ幹部だけだ。彼女という、彼女たちというたからを拝めるのは、差し入れられた紙に書かれた者たち。今日の客の一覧で知ることができる。


「三人」

「ちと多いが、休み明けだからな」

「待ち人来たる」


 しかしにんまりと笑う彼女の声に、扉の前の男は安心する。金入の大きい客なのは彼も分かっているからだ。だがしかし、彼女の、骨の思惑は別にある。つまり、次の長期潜伏先の肉を見繕ったからに他ならない。

 モーゼルに語ったクライフの分析は間違ってはいなかったが、すべてではなかった。死んでいないのは金持ちや、身分そのものを秘匿して水平石に来ている重役もそうなのだ。特に肉体そのものを喰い奪える場所としては、この高級娼館は適していた。

 それなりの身分から身を持ち崩した『高貴な生まれの商品』も多い。好事家も集まる。それこそ余人に知られることなく。


「ふたりかしら」

「ふたり?」

「そうね、わがままかもしれないけどお相手はこの人まで。ただ、ふたり目は朝までお相手するから許して欲しいなァ」


 そんなワガママさえ、彼には許される。

 彼が奪ったこのカーシャという女は、いちばんの稼ぎ頭だったからだ。


「お大尽には、饗宴を設けて他に移って貰うか。次は受けろよ? あとふつかはこっちにいるらしいから、明日にでもと頭を下げてみよう。ただし、姫から一筆くらい書けよ」

「恋し恋しい恋文。わたしあまり得意ではないのだけれど。口づけで紅の跡でもつけようかしら」

「それがいい」


 話はそれで終わりだった。

 ふたり目。

 それが骨の次の器であった。





 水平石を構成する五つの小島に挟まれる境水路と、各小島に縦横に巡る捷水路には、小屋が乗ったような小舟が船頭を伴って流していくことがある。交通の乗合船ではなく、観光の寄合船でもなく、ある意味密室を設けるための屋形船である。宴のときもあれば、余人に知られず移動したいときにも用いられるが、そのふたつを伴う場合も多い。

 今回もそうだった。


「よもや屋形船とはねえ」


 小屋の――館の小窓がスっと開けられると、アンゼルマの顔がニンマリと。それを受ける船頭であるクライフは落葉こそ背負ってはいるものの、姿は水夫のそれであった。


 その姿に「水辺では鎧が苦手か」とアンゼルマ。クライフもひとつ頷き「暗中の水路に鎧は、過ぎた装備だ」と強がってみせる。その強がりはアンゼルマにも分かっている。通常、重石を漬けたまま背が届かぬ水に落ちる恐怖は誰しも持っているが、彼のそれは実感を伴うものだったからだ。

 かくいうアンゼルマは、厚手の革鎧と、腕ではなく拳と手首を保護するような手甲じみた装具。足下はブーツだが、足首の柔軟さとかかとが薄い平靴仕様なのが見て取れた。座敷の靴脱ぎ場に足を投げ出すように腰掛けているが、どう見ても給仕娘のそれではなかった。


「今回は譲りなさい。……あの男相手に剣士が室内戦を仕掛けようとするなら、戦い慣れていなければ被害が出る。ひとりで戦い、すべてが敵という状況なら止めないけどね」

「身に染みている」


 これも、実感が伴う述懐だったろう。クライフの絞り出す言葉は、アンゼルマの耳に温かく響いた。


「強くなりたいんだね、あんた」

「強くありたいとは思う。あとは、死にたくないと思い知った状況から逃げたくないだけかな」

「あんがい傭兵の気持ちなんてそんなもんよね。――あそこの橋だわ」


 会話が、止まる。

 小窓が閉められ、クライフも目深に頭巾を被り直す。

 大橋の下、中州とのさらに端境。そこにモーゼルが仕切る娼館への入り口が隠されている。増水の危険があろうとも、入り口自体は水が入り込まぬ高さ、そして平石の地下は水が入り込めぬ構造。橋そのものに隠された入り口は、遊びたい内容や遊ぶ客の身分などで水平石の各所にいくつも設けられている。

 なるほどなと、クライフは頷く。

 人は強かだ。強かだからこそ、生き抜くことができるし、活かすこともできる。

 船を外界からの死角に付け、クライフが慣れた手つきで舫うや、ヒョイとアンゼルマが橋桁の側に設けられた――それでも造りのいい階段を上っていく。いちど振り返り、「見つけ次第戦闘になる。クライフ、あなたは逃げるものの中にヤツがいたら斬りなさい」と口元で笑う。その野性を感じる笑顔に、ふと見知った顔を思い出しそうになる。


「承知」


 雑念を追い払い、クライフは腰の短刀をぐるりと臍の下に指し直す。抜き撃ち、室内戦の備えだった。


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