第21話『ご苦労にございました』
その日がやってきた。
いつもの時間に目が覚める。
古いベッドはエレアの軽い体でも悲鳴のような軋み音を立てる。身を起こす彼女から毛布が流れ落ち、その一糸まとわぬ体が露わになる。
暗い室内に於いても、その肌の生白さは際立っている。ベッドの脇の棚に置かれた真新しい下着を身につけるその手、徹す脚、髪の流れる首元。そこかしこに、暗い室内に於いてもなお赤黒い傷跡があった。
ベッドを降りる前に、その肉体から漏れ出る魔力を抑える伝来の深紅のドレスを身に纏う。ベッドに立つのはいささかはしたなくもあるが、このドレスを身に纏わぬうちにここから降りると、コティの、近衛たちの身に災いが降りかかりかねない。まるで油の海の中でロウソクを掲げ持つかのような気持ちだった。
「おはようございます」
「おはよう。喉が渇いたわコティ」
「ええ、少しお待ちください」
頃合いを見計らったかのようにコティが入ってくる。手には水差しとコップ。下着を乗せていた棚にそれ置くと、ベッドの上であぐらを掻いて座るエレアに一礼し、ベッドの下からジャラリと封身具を取り出す。
「今日ですね、姫」
「今日も、だ。この身が女になるにつれ、女王の器になるにつれ、この身を通して湧き出す魔力は高まる一方だ。近い将来、この魔力がお前も吹き飛ばすことになるかもしれないわね」
「この間も同じことを言いましたが」
コティは封身具をまとめてベッドに投げ置くと、腰に手を当てて肩をすくめる。何を言うのかこの姫はと、ため息交じりに首も振る。
「このコティならびに近衛の皆は、姫さまにそのような思いはさせません。万が一、姫が制御を誤り魔力の奔流を放ったとしても、そのドレスが封じます。封身具が、宝玉が、その身の総てが封じます。ご安心ください」
「しかし、コティ。私の力は生まれたときよりも強いのだ。恐ろしく、強力に育っている」
「だとしても」
側御用にピシャリと遮られる。
コティはベッドの上、エレアの前に腰を下ろす。いままでもそうしてきたように、今日も同じように、姫の手首に薬を塗り、清潔な包帯を巻き、腕枷の如き手甲をガチリとはめる。
「だとしても、このコティ、生中なことで死ぬつもりはありません」
「強情なヤツだ」
「主に似たのですよ」
同じように、首に枷の如き首輪を嵌める。鎖をつなげると、エレアは慣れた様子で両足を前に投げ出す。
足首に薬を塗り込み、包帯を巻き、枷そのものを嵌める。この三つを鎖でつなぎ、ようやくエレアはベッドから降りることが許される。
「ふぅ……」
大きく息を吸い直すと、エレアは裸足のまま土の床に立つ。
じゃらりと揺れ垂れる鎖の重みを支えながら、背筋を伸ばす。弱音を吐けぬ王女のそれへと表情を引き締める。
そして両腕の手甲、その手首のやや上に嵌められている左右ひとつずつの燐灰石。それが宝石そのものの青から、鈍くうごめく鮮やかな青へと変わっていく。両足、そして首のそれも同じだろう。
「どうぞ」
そう差し出されたコップを受け取り、水を飲む。エレアは一息つくと、重い鎖を引きずりながら窓辺により、カーテンを引き窓を開け放つ。
強い潮の香りが風に乗って流れゆく。
水平線の先まで見えるかのような良い天気だった。
「おなかすいた――」
ぼそりと呟く。
あの日、クライフが落葉の約束と共に訪れた日。その日の昼食を最後に、彼女は水のみを摂取している。『収穫』『回収』の前の禊ぎのようなものであったが、コティも彼女と同じく食を絶ち、水のみで過ごしていた。
「終わりましたら、腕によりを掛けます」
「うん。それを胸に、今日を乗り切ろう。……」
そこで頬を緩めるも、エレアの表情の奥に感じるものがあり、コティは窓辺の姫に寄り添うように肩を抱く。
そのかすかな震えに、力を強めて抱きしめる。
「姫さま。私には姫さまの苦しみを分かち合えません」
「わかっているわ」
苦笑するエレアの震えは、止まらなかった。
この後すぐなのだ。
彼女が身に纏う獄鎖の封身具から、六つの燐灰石を引き剥がすのは。
もう、すぐ後なのだ。
この少女が「怖い」という言葉を捨てたのはいつだっただろうか。
この少女が「逃げたい」という言葉を捨てたのは、だが良く覚えている。
だからこそコティは少女の側にいる。エレアも彼女を近衛の長官として置いている。
「……クライフはもう来ているのかしら」
「ええ、向こうで待っています。お呼びするときはどういたしましょう」
「使いの者と共に呼んできてちょうだい。――あの剣士は私をどう思うだろう。惨めに思うだろうか、それとも」
いや、と首を振る。
「――使いの者と、クライフを呼んできてちょうだい」
震えは止んでいた。
コティはそっと肩を放し、頷いた。
異様な風体の『護衛』だった。
いずれも、女性。それは良い。クライフが知る騎士にも女はいる。だが、どうもその身体から感じる圧力というものが、読めなかった。その護衛二人は、やや離れた壁際で離れて佇立している。お互いに目を合わせようとすらせずに、まっすぐに中空を見ている。
視線を移すと、ベイスと話す壮年の男たち。エレア姫の宝玉を回収に来たという、二王子それぞれからの使者だろう。
護衛を合わせ六人ほどだという話であったが、双方二人ずつの、四人。数の少なさを護衛の頼もしさと受け取るには、やはり壁際の護衛――その女性たちの異様さが引っかかる。
二王子の生み出した『浸着装甲』とは、それほどまでに異様なものなのか。しかし、それを装備している様子は見受けられない。若いひとりは近衛の制服に近い意匠の服であり、もうひとりは使用人のような服装だ。
いまはまだ招かれている側のクライフは、疑問に思えど、口には出さず、じっと彼女たちとは反対側の壁に背を預けたままだ。
彼女たちは一度クライフに視線を向けたが、それっきり、興味なさげに控えている。
他の近衛も外に出たままだ。
顔を知るベイスも何やら文官二人と話しており、クライフもじっと黙っているほかはなかった。
「お待たせしました」
そのとき一声かけて奥からコティがやってくる。お側御用の使用人姿ということもあり、クライフは「ほう」と思わず声を出してしまう。それを皮切りに、ベイスも居住まいを正しコティに礼を取ると、文官の二人を促して一歩下がる。
「ではこちらへ、姫殿下がお待ちです。――クライフ」
コティに言葉を向けられると、壁から背を離す。
「彼が?」と、ダランが問いかけると、コティは静かに頷く。
「ほう、これはまた」と、こちらはマイスだ。彼はじっとクライフを見つめると、ひとつ頷き、その得物である落葉に視線を落とし、「姫にお時間を取らせる訳には参りません。さっそく、用事を済ませましょう」とすぐに興味なさげにコティを促す。
ダランも続くが、ひとつアリッサに頷いている。
クライフもあとを追う中、すれ違いざまにベイスが彼の肩をがっしりと掴む。
「がまんしてくれ」
そう言うと、手をあっさりと離し背中を押す。
その懇願に似た呟きを、クライフは腹に落とす。
初めて渡る廊下の先には、炊事場があり、生活空間があり、塔内の螺旋状の回り階段を上がると、尖塔の裏手にあたる石組みの建物の中に出る。
コティも二人の文官も慣れたように歩みを進め、開け放たれたままの入り口。かつては扉があったであろう場所をくぐる。
「ご無沙汰しております、殿下」
文官たちは揃って跪く。
「よい」
ベッドに座り待っていたエレアは、立ち上がりその礼に答える。そして控えるコティの背後にクライフの姿を見つけると、皮一枚で繋いでいた威厳にほろりと弱さが浮かぶ。
コティはその変化と、彼女に奔る細い震えに気がついた。
しかし、控えたままだ。
「ダラン=ヘッジス殿。ご確認を」
「マイス=ガーランド殿。ご確認を」
お互いに声をかけ、エレアの前に立ち、左右六つの燐灰石の宝玉を確認し合う。
「しっかりと揺れておりますな。姫、再装備は先ほどで?」
「うむ。大丈夫だ、しっかりつながっている」
マイスの言葉に頷くと、エレアはそう答え、ゆっくりとベッドへ座り直す。
「では始めましょう」
ダランはエレアをベッドに横たえると、首から腕に伸びる鎖をグイと、諸手を挙げさせる形に枕側へと引き上げる。まとめ上げ、ベッドの支柱にがっしりと巻き付ける。
――何をする気だ。
身を乗り出しかけるクライフを、コティが目で制止する。
「がまんしてくれ」
ベイスと同じく、そう言っているようだった。
堪える。
よくよく見ると、ベッドの枕元には、エレアが身につける拘束具の鎖を固定する金具が見受けられた。粗末な木のベッドに似合わぬ、仰々しく、禍々しいものだった。
巻き付けられ、噛み合わされ、固定される。
マイスはエレアの足下でも同じことをしている。
あまりに不敬、あまりに不快な情景だった。
きつく腕を上げさせられ、きつく足を引き縛られたエレアの姿は、いびつな山の字のように身もだえしている。
「殿下、これを」
マイスの差し出す、薄板に巻かれた布。エレアはそれを噛み挟もうとするが、奥歯は震えでカチカチと鳴るだけで、大きく開く気配はない。開こうとしても、どうしても自力で開くことができなかった。
――何をする気だ!
動かない。
クライフは文官たちの間から垣間見える震える少女の元に駆けつけ、その鎖を切り飛ばし、その涙をためる目を覆ってやりたかった。
「ご無礼」
ダランはひとつ詫び、エレアの口を両手でがっしりと開かせる。ようやく開いた口に、マイスがすかさず布を巻いた板をねじ込むように咬ませる。
薄くなっていた奥歯の音が、止んだ。
あれは、あの咬ませていたものは、容易に思い当たる。
痛みに耐えかねて食いしばる歯が砕けぬように咬ませるものだ。苦痛の痙攣の中、舌をかみ切らぬように咬ませるものだ。
死なさぬために咬ませるものだ。
「参ります」
二人は一声かけると、エレアの両籠手に付けられた燐灰石へと手を伸ばす。瞬間、がちりと鎖が緊張する。エレアが身悶えたのだ。
「いざ――」
燐灰石は、握り込めるほどの大きさだ。それをがっちりと握り込むようにし、二人は引きちぎるように全力でそれをもぎ取った。
「んぐぁあああああああああああああああああ!!」
押し込むような絶叫が、エレアの口から上がる。弓のように仰け反りながら、鎖を引きちぎらん勢いで暴れるように、全身を駆け巡る激痛に跳ねていた。
しかし二人はその体を押しつけるようにすると、そばにある箱の中に、それぞれ仕舞い込む。
「おみ足、失礼いたします」
エレアの膝から下を、文官二人は脇で抱え締めるように左右持ち上げると、足首の宝玉へと手を伸ばす。
「いざ――」
むしり取る。
「ひぎぃいい――!」
悲鳴を上げることすらできなくなりつつあるエレアのこめかみには、食いしばる顎部からの圧力でうっ血が始まっている。激しい痙攣とともに、口からは唾液と胃液があふれ出る。
しかし、咳き込むエレアを尚も押さえつけ、二人は示し合わせたように脚の宝玉も箱に投じると、彼女の両肩を強く押えるようにのしかかった。
「……お首、失礼いたします」
胃液をまき散らす口元、涙と鼻水にまみれた少女の顔から目を背けずに、二人の文官は最後の宝玉へと手を伸ばす。
「いざ――」
えぐり取った。
「くぁ――」
ひときわ大きく跳ね上がるエレアの体を押え、二人の文官は完全に気を失ったエレアの上から身をどけると、三つ目の宝玉を箱にしまい、ふたを閉じる。
「ご苦労にございました」
「ご苦労にございました」
二人はエレアに臣下の礼を取ると、箱を手に奥を去る。彼らの案内をするのはコティだった。
その場に残されたクライフは狂った状況から我に返ると、エレアに駆け寄りその拘束を解こうと彼女を抱えようとする。
しかし、封身具は彼女の肌に吸い付くようにしっかりと一体化しており、鎧のように剥がせるような代物でもなかった。鎖もしかりで、彼はベッドに咬ませてある金具を解き放つと、エレアの体を楽に――顔を横に倒し呼吸が楽になるよう肩を広げる。
ひどい有様だった。
備え置いていたであろうタオルを手に取ると、そっと口元を拭ってあげる。タオルを折り、別の部分で顔を拭いゆくうちに、ふと、エレアの意識が戻る。
「……そのままでよい。あとは、コティが、やる」
息も絶え絶えの、生命力がごっそり抜け落ちたかのような体で、エレアはようやくその言葉を口にするも、動けるような状態ではなかった。
「無理はしないでください。ともあれ、これで口を……」
「……顔はこのざま。腰から下も、推して知るべしだ、剣士どの」
クライフの手が止まる。
その言葉が意味するところを悟ったからだ。
「回収のたびに、このざまだ。はは、驚いただろう」
「何故このようなことを……」
クライフの問いに、朦朧とした表情のまま、エレアは笑った。
「燐灰石に女王の魔力を残したまま、他者がそれを使うには、いまのように生きたまま引き剥がすしかない。骨を砕き抜かれるような激痛に耐えねば、宝玉を生み出せぬ。強く自分の体と結びつけることで育て、強く自分の体と引き剥がすことで女王の呪縛から魔力そのものを引き剥がす。――代々、女王がしてきたことが、これだ」
「こんなに惨いことを……」
「おかげで、二日近く食を断たねば、粗相をしてしまう。腹は減ったが、こんな有様だ。起き上がれるようになるまで三日はかかる。はは、笑えるだろう。これが、シャールの女の仕事だ」
クライフは、震えるように持ち上げられるエレアの右手をしっかりと掴む。細く、しなやかだが、枯れ枝のような脆さを感じる。
「落葉の剣士は、先代王女を敵から救っていたが、そもそもの因習因縁までは追えなかった。……クライフ」
「は」
かき消えそうなエレアの声に、クライフはしっかりと控える。
「私に続くこれからのシャールの姫、女王たちのために、力を貸して欲しい。敵も、この我が身の因縁も、この世界の魔物も、必然の元に絡み合っているはず。それを、探って欲しいのです」
縋るようなまなざし。
しかし、彼女は「助けて」とは決して言わなかった。
強い少女。
このとき初めて、クライフはひとりの剣士として自分の使命を意識した。
「承知つかまつりました」
しっかりと握り返す剣士の手の熱さに、溜まったままの涙がすっと流れ落ちる。
「好きに使ってください」
それを拭いながら、クライフは笑いかける。
「雲を掴むような話ですが、まずは敵を追います。そのためには、まずは姫に元気になって貰わねばなりません」
その言葉にエレアは「ん」と頷き、再び目を閉じるように意識を手放した。
そっとクライフは立ち上がる。
横たわる姫の疲弊した姿を見ぬよう、踵を返す。
コティを呼ばねばならない。
もう一度振り返り、呼吸の様子だけを伺う。
因縁、か。
自分に追えるだろうか。その不安をかき消すために、彼はひとつ、前を見据えるのであった。
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