第13話『龍鱗山脈の死闘(2/3)』

   *


 大きく山肌に沿って、右手に山、左手に沢を臨み、右手へと曲がるひげ街道。

 二騎の騎馬が夏場の湿った砂塵を巻き上げて迫ってくる。馬蹄の音は近く、勢いから言ってもこの馬車を追い越すか、もしくはこの馬車こそが狙いといった間積もりが伺える。

 御者台から身を乗り出し、幌越しに背後をうかがった瞬間、覗き込んだ騎士の顔の間近、ほろの支柱に、肺腑に響く乾音をたてて長弓の矢が突き立った。


「ぬぅっ」


 のけぞってかわした動作そのまま、騎士は長剣を抜き放つ。


「みんな、敵だ!」


 叫んでクライフは、矢の位置から馬を狙われていると悟り、すぐさま御者台の後ろにあらかじめ装備していた半弓を取り出し、長剣を馬車の底板に突きたてる。残りの矢は二本のみ。仕損じは許されなかった。


「ヴェロニカ、手綱を頼む!」

「え、ええ!?」


 御者台からほろの中を突き切り、馬車の後ろから背後の二騎に相見える。


「腕の赤布……追っ手か」


 呟きながら矢を引き絞る。

 敵の第二射に先んじ、その射ち手を仕留めなければならない。

 限界近くまで引き絞り、今まさに第二射を放たんとする敵射手の胸板に狙いをつける。

 すねを飛ばして疾走する馬上の人間を射るのは至難の業、相手方はしかし慣れた様子で鏃の狙いを――。


「しまった!」


 殺気の行き着く先が馬や己でないと悟ったときには、すでに対手の矢は唸りを挙げて放たれた後だった。とっさに矢を番えたまま体をひねり、イリーナを庇うように立ち上がる。

 ――ガイン!


「くぅ!」


 鉄の鏃が左の肩当を直撃し、騎士の体は大きく後ろに弾き飛ばされる。跳ね飛んだ鋼の矢は、わずかにイリーナの頭上からほろを突き破って空へと消える。


「な、何!? なんなの!?」


 クライフの体を受け止め、押し倒されたアンナが事態を把握できずに起き上がろうとする。

 たまらずクライフは全員に叫ぶ。


「伏せていてください!」


 ヴェロニカが身を屈めながらも御者台の上で必死に手綱を握っているが、震える手が手綱を震わせ、山道の揺れもあいまって鞭打たれたかのようにそれは波打ち、微妙に鞭打たれた馬が速度を上げていく。

 轍の音が激しくなり、クライフはもう一度矢を番え、イリーナたちの正面に盾となり、立膝で矢の狙いを最善面の敵対手につけ、一気に射ち放った。

 風を切る矢は男の胸板を逸れ、騎乗している馬の右目からその脳髄を貫いた。

 短い断末魔が山間に轟き、前足を折って転がり倒れる馬に巻き込まれ、騎乗していた傭兵は長い悲鳴を上げて落馬し、転倒する馬の下敷きになり、馬もろとも肉塊となって沢へと転落していく。

 左肩がしびれ、狙いが下に逸れたのは幸運だった。

 騎手を狙うより、疾走中は馬を狙うのも効果的なのだろう。


「なるほど、馬から射ようとするわけだ」


 併走していたもう一人の対手は、クライフの次の攻撃を読み、狙いをつけられまいと細かく蛇行させながら接近を試みる。それにあわせ、クライフは最後の一本の矢を番え、的の小さい騎手ではなく、大きな体の馬の体に狙いをつける。


「左右にゆれるのは、よくないな……」


 矢の攻撃を避けたいならば、的は小さくするべきである。

 未熟の技相手なら蛇行で狙いをはずすことも可能だが、惜しむらくは決して広くはない街道、左右の振幅にも当然限界がある。

 自分から最も的が大きく見える瞬間である、左右どちらかに馬体が振れた瞬間に矢を放たんと、クライフは殺気を込めて弓を満月に引き絞った。

 対する相手は矢の効果を発揮しない距離まで詰めようと必死に馬に鞭を入れ、おどろおどろしい殺気を込めた鉈のような軍刀を抜き放つ。


「っ!」


 接近させまいと焦ったせいか、馬体が谷側に振れた瞬間に放った矢は、馬のたてがみ数本を巻き込み射抜き、沢への崖に佇立する巨木に音を立てて突き立った。

 騎士の眉根が歪み、討手の口元が笑み、馬車と騎馬の距離はみるみると縮まりつつあった。騎士の死角、ほろの外側から回り込むように騎馬が寄せてくる。


「つぁ!」


 突き立てていた長剣を引き抜き、馬の気配がある方向に猛然と突きを放った。

 ほろごと馬の首を刺し貫いた手ごたえに一瞬騎士の顔がその感触の確かさを認めた瞬間、幌の天幕に重い気配を感じてぎょっとする。

 ――上か!

 思うより早く討手の男は天幕を切り裂き、骨組みの間から鉈を振りかぶり騎士の頭上を猛然と襲い落ち往く。迎撃しようと長剣を引き抜こうにも、馬の首の強靭な筋肉が刃を挟み噛み、重い手ごたえを残し微動だにしない。


「嫌ぁ!」


 誰の悲鳴だか、娼婦の声と、しかし鋼を打ち鳴らす乾いた音が甲高く響き渡る。


「何!?」


 硬い手ごたえを感じ着地した男が見たものは、右手で長剣を突いた体勢のまま、腰の短刀を左手で抜き鉈の攻撃をしのいだ騎士の姿であった。


「ふん!」


 気合一閃で苦悶で暴れる馬の首から長剣を引き抜く。

 暫時、遠く後方から馬の体が倒れ付す鈍い音が届く。

 ――この攻防は一呼吸ほどの瞬時に起こった出来事である。

 アンナは娘を抱き、イリーナはエレナと抱き合うように彼らから距離をとり、身を低く避難する。とはいえ、誰しもが一足一刀の間合いにあり、討手がイリーナに襲い掛かってしまうとすると即座に対応しなければ彼女の命はないという状況である。しかしながら、討手の男は傭兵団の確固たる仕事意識に理性が引き戻される前に、目の前で長剣を顔の横で垂直に、そして逆手左手で構えた短刀を体の前で水平に構えた騎士の放つ夥しい気迫に電撃に打たれたように凍りついた。

 彼が即座に娼婦たちに襲い掛かるとすれば、それは即ち、すでに騎士の間合いなのである。騎士と相対し、これを討ち果たさねば即座に任務が失敗する、命を失うというヒト本来の恐怖と、傭兵の勘が強く本能に訴えかけている。

 アンナも、さすがにオリビアも、みんな、この凝固した空気を乱すまいと――乱した瞬間に全てが終わることを予見し、硬く身をこわばらせ、息も殺して騎士の姿を見つめている。

 激しく揺れる車内で、それでも安定した下半身の粘りを以って武器を構える騎士と傭兵。その二人の男の殺気と意思が暫時、錯綜する。

 ――話に聞いたとおり、本当に一人だったとは。

 傭兵は即座にこの現実を理解し、頭を冷やすと冷静に考える。

 男の気配が凪ぐのを感じ、クライフも爪半分の間合い、重心を前に移す。


「…………」

「…………」


 二人の戦士の視線が絡み合い、弾ける。

 それは一瞬の出来事であった。


「――あっ!」

「ぬ!」


 傭兵が全てを捨てて後ろを向き、背後に飛び、御者台を踏み台にして馬の一頭に飛び移った。同時に、彼の斬り裂かれた脇腹から夥しい血が噴出する。

 馬を奪いがてら、馬車の疾走を不能にしようと試みたが、騎士の一閃は一瞬早く、間合いから遁れんとする傭兵の脇腹を存分に抉り抜いていた。

 しかし、傭兵の男はそのまま馬の首にその鉈を打ち込む。

 ――ヒィン!

 甲高いが底冷えのする、女性のような悲鳴を断末魔に、二頭の馬のうち一頭がたてがみを血で染め上げ、前足からくず折れていく。

 疾走する二頭の均衡が破れ、括られていた一頭が死体となり、操作不能な勢いに陥った馬車は一個の塊となって街道を横転した。

 馬の体が勢いで車軸を破壊し、運動エネルギーは馬と傭兵の体を押しつぶしながら荷台の中を苛んだ。


「きゃあ!」

「エレナ!」


 イリーナを庇ったエレナがほろの穴から投げ出され、クライフはとっさにその体を抱き止めんと中空に身を躍らせ……――――。


   *


 ――ライフ!

 ――クライフ!


「騎士様! 騎士様!」


 遠くで声がする。

 耳の奥にまで音が届いていないような、壁越しに声を聞いているような、しかしそれは自分に向けられている言葉で……。


「お願い、目を開けてください!」


 言われたとおりに目を開けると、自分の胸の上に覆いかぶさるように涙を流す、不安に染まった少女の顔があった。

 誰、だったか……。


「エレナ……」


 呟いてクライフは思い出した。

 川辺の湿った土に埋まるように体が仰向けにはまっていた。


「あの高さから落ちたのか」

「騎士様、よかった――」


 騎士がむくりと土の中から上半身をはがすように起こすと、少女は膝で一歩離れ破顔した。

 馬車の横転で投げ出されたエレナの体を抱え込み、一緒に沢と落下したのだ。

 鎧に守られた自分の中に抱え込むように、活き活きとした木々の枝葉やむき出しの土面、岩石の突起から彼女の身を守って――。


「下が湿った土で助かったな」


 彼が下敷きになるように、地面との衝突からも彼女を守ったのだろう。エレナは目立った外傷もなく彼に付き従っている。彼自身は鎧に守られながら木々他土砂をクッションとしたせいか、外傷はともかく打ち身と衝撃で背や腰が痛む。

 ――クライフ!

 少しはなれたところから――頭上からの声にクライフは顔を上げる。


「ヴェロニカ、大丈夫だ!」


 崖淵から顔をのぞかせるヴェロニカに、クライフは声を上げて手を振った。呼吸、発声、ともに肺に痛みはない。

 ようやく立ち上がり、その高さを改めて確認する。

 柔い地盤のうえに、女連れで登ることは不可能な反りを見せる崖だ。

 高さは、三階建ての商家の屋根くらいだろうか。

 よく生きていたものだ。


「大丈夫!?」


 アンナが顔を出す。つられて覗き込もうとするオリビアを押し戻しながらなので、少し危なっかしい。


「私に怪我はありません、エレナ、君はどうだい?」

「あの、足が……」

「足だって?」


 クライフは彼女の元に屈みこみ、失礼と一言断り、そのスカートの裾から足を拝見する。

 白く、細い肌だった。一般の男なら、その裾から除く魅惑の足の白さに鼓動が跳ね上がるところだろう。しかし、任務の顔になった朴念仁の騎士は、その白さよりも右脛外側の真っ赤にはれた部位に眼が行く。


「痛いかい?」

「はい」

「こう捻ると、どうだ」

「それは、少し痛いですが……大丈夫です」

「折れてはいないようだ、打ち身だろう。とりあえず固定しておこう」


 そして立ち上がると、心配顔のアンナに再び声をかける。


「エレナは足を打っていますが、酷くはありません。ところで――」


 と、言いにくそうにクライフは言葉をいったん区切る。


「イリーナさまはどうでしょう」


 そう。

 最重要護衛対象がいるにも関わらず、その優先順位を繰り下げてしまったことを、彼は気にしていたのだ。騎士として最優先は領主の子を孕んだ娼婦のはずだった。


「さっき買い込んだ大量のクッションのおかげで傷ひとつないわ。いまそこで一休みしているところよ」

「よかった」


 心底安心した顔をしたくライフだが、すぐに厳しい顔つきに気変わる。追っ手が、領内にまで侵攻しているということは、すでに騎士団のどれかと交戦し、これを突破してきたことを意味する。安心してはいられなかった。

 クライフはすぐに周囲を確認する。

 湿った土の一帯の片隅に、あまり見慣れない櫓が建てられている。河川の内側は水の流れがゆるく増水にも対応しやすいことから、このような粗末であるが頑丈な櫓がたまに組まれる場所があると聞いたことがある。


「切り出し場か」

「切り出し場?」

「山で切り倒した木々を枝打ちし、材木に加工する前の丸太を、川を使って下流に運ぶために使う貯木地のことなんだ」


 言って、彼の頭の中におおよその地図と見た風景が一致してくる。


「この上流には、支道と川辺を行き来する階段と釣り橋があるはずだ」

「そうなんですか」


 へぇ……といった顔のエレナに彼は頷き、続いて顔をのぞかせるヴェロニカとアンナに声を張り上げる。


「馬は、もう一頭の馬は無事ですか!?」

「自分で立ち上がってるけれど、壊れた馬車が括りつけられたままよ」


 あの栗毛の相棒は無事だったようだ。

 そして彼は腰の短剣を鞘ごと外し、崖の上に大きく放り投げる。

 丁度その動作から察したアンナは、上手くそれを中空で受け取る。

 軽いと思っていたが、男の武器の重さをずしりと感じる。


「それで固定してる馬車の縄を切って、馬を自由に放してやってください」

「わかったわ」

「それから、追っ手がかかっています。この先に必ず合流する地点がありますから、徒歩で先を急いでください。こちらはこのまま上流を目指します」

「……この剣は?」


 短剣を手にアンナは言う。


「護身用です。しかし、使おうとは思わないでください。使うことになりそうになったら、逃げることを考えてください、いいですね」

「そう言うと思った。わかってるわよ」

「あと、敵の荷物に長弓と金属製の矢があるはずです、それを落としてもらえますか?」


 この言葉には、すばやくヴェロニカが従った。

 ――遠くで「うぇえ~」という悲鳴が聞こえる。おおかた、肉塊となった傭兵の死体から弓と矢をとるのが嫌だったのだろう。


「これでいいのー?」

「ああ、それだ」


 矢も多い。クライフは一息ついてヴェロニカに微笑む。


「ヴェロニカも、そんなに心配そうな顔をするな。大丈夫、この先で合流しよう」

「たのむわよ、頼りはあなただけなんだから!」


 落とされる弓と矢を受け止めながら、わかってる、とクライフは頷く。

 彼女たちの顔が崖の向こうに隠れるのを確認し、騎士はエレナの脇に再び屈みこむ。


「まだ、痛むよね」

「ええ」


 クライフは鎧の肩当の下で固定してる飾り布を引き破り、さらに広い部分にベルトの広い部分を長剣で切り放す。そのベルトの硬い革部分をエレナの脛の腫れている部分に当て、その上から切ったマントの布できつく固定する。


「どう、痛くないか?」

「はい……」


 少し動かしてみて、彼女はひとつ頷いた。


「よし」


 騎士は満足そうに頷くと、そのままクルリと背中を向ける。


「さあ」


 と、言われ、エレナは岩に腰掛けたまま「はぁ」と、気の抜けた返事をしてしまう。


「早く乗って」

「え!?」


 ――それってつまり……。


「お、おんぶってことですか?」

「その足で沢や砂利道を歩くのは厳しいだろう。追っ手もある、俺が背負って行くよ」

「そんな、私なんか置いて行って下さい!」


 思いがけない言葉が少女の口から漏れる。クライフはびっくりして肩越しに振り返ると、少女自身も今の言葉に自分で驚いているのか、口元を押さえて騎士の顔を見ている。


「置いていけるわけはないだろう」

「き、騎士様が落ちたのは、私のせいですし……。私のドジで、お姉さまたちと別れてしまって……」


 しばらく彼女の顔をじっと見ていたクライフは、それでもひとつ苦笑混じりに微笑んでみせる。


「判断したのは俺さ。大丈夫、君のせいなんかじゃない。追っ手の存在に留意してなかった俺のせいさ。熱を出して一日無駄にしなければ、彼らを撒けていた筈なんだから」


 さあ、ともう一度促すと、少女はそれでも遠慮がちに騎士の背に乗る。


「ああ、泥はついてないか?」


 落ちたとき、濡れた土に埋まっていた背中をいまさらながらに気にする。


「大丈夫です、泥ってほどじゃないですし」

「そうか」


 そしてそのまま騎士は少女を背に立ち上がる。

 腿のあたりに回した腕の感触に少女は身をよじる。


「すまんが、少し我慢だ」

「は、はい……」


 頬を染める少女の表情は、騎士からは見えない。ためらいがちに騎士の肩から胸へと回された細い腕が、それでもぎゅっと彼を抱きしめる。


「ごめんなさい」

「ん?」


 歩き始めたクライフは、耳元で呟かれた少女の謝罪に首をかしげる。


「私、足手まといですよね」

「気にするな……とはさすがに言えないがな」


 騎士の言葉に、「ですよね」とシュンとなる少女。


「こんな旅だから、気にするべきだが……だからと言って気に病むべきではない」

「え?」


 騎士の言葉に、今度は少女が首をかしげる番だった。


「気にすることは次の注意へとつながるが、気に病むと自滅を生むぞ」

「…………でも――」

「自分を犠牲に何かをしようとするのは、気持ちが良いものだが、安易な道でもあるんだよ、エレナ」


 騎士は歩みを緩めずに、浅瀬をざくざくと進む。


「師匠の言葉だけどね」


 と、前置きする騎士。


「謝罪の言葉ではなく、感謝の言葉を。仲間同士なら、特にね」

「な、なかま……ですか」


 騎士は頷く。


「…………エレナ――」


 少し考え、騎士はそれでも言葉を続ける。


「この旅の間じゅう思っていたんだが、そんなに回りに気を使う必要はないんだよ」

「え……」

「君の妹も、お姉さんたちも、悪い人じゃないよ。君を愛してるはずだ」


 実家の姉たちを思い出し、騎士は苦笑する。田舎の彼女たちも自分を家族としてちゃんと愛してくれていたのだろうと、いま確信するに至ったのだ。


「もっとわがままを言って良いよ。たぶんみんな、もうちょっと君が我を出すのを待ってるんじゃないかな。ヴェロニカあたりは文句を言うかもしれないけど、嫌な気分じゃないはずだよ……たぶんね」

「そんな、私は」

「俺がそう感じて言っただけさ、聞き流してくれてかまわないよ」


 少女の腕に力がこもる。

 上のひげ街道はだいぶ東を通っているのか、見上げると青い空が切り取られて見える。左手に緩やかに上る山肌も、野生の山林が生い茂り、獣も通わぬような密生具合だ。

 そして、水の音。

 静かだった。

 しばらく歩くと、少女がぽつりと呟いた。


「そう……ですよね」


 従順であることを生きる術と見出していた少女の、それは逡巡だった。


「私はいずれ、お客をとってみんなの助けにならないといけないんです。それはもう、たぶん近い将来、これが落ち着いたら、すぐにでも……」


 彼女たちの、事情だ。騎士は口を挟まずに、黙って聞く。


「自分のわがままなんて、言おうとは……」

「そのあたりは、君のお姉さんたちを見て、上手いことやらないとね」


 騎士は少女の腰を背で持ち上げ、背負いなおしながら言う。


「人は自分の居場所を作り、守るために戦うんだ。居場所の枠というのは、自分の部屋だったり、家庭であったり、店であったり、領地であったり、国であったり、世界であったり。大きさこそ違うけれど、人はその枠の中でいかに都合良く生きられるか、常に戦いあっているんだ」


 節目節目で、その枠は広がったり縮まったりだね、と騎士は呟く。


「俺の知ってる騎士は、騎士でも珍しい女騎士だったんだ」

「女性の騎士、なんですか」


 たしかに、聞かない事例だろう。


「騎士団養成所で、彼女は自分の居場所を守るのに必死だった。自分がそこにいる正当性を他人に決して汚させなかった。がむしゃらに……戦ってたな」


 文字通りね、と付け加える。


「……誰にだって事情はある。事情のない人間なんて、いない。幸福や不幸は決して他人と比べてはいけないものだし、しかし分かち合うことは大切なことだ。嫌だからといって逃げた先には、もっと嫌なことが待ち構えてるものさ。もし、君が未来に観念して唯々諾々と流されることを選んでいるとしたら、おそらくお姉さんたちは悲しむと思う」

「…………――さまも?」

「ん?」


 耳元の呟きが聞き取れず、聞き返すクライフ。


「――騎士様も、悲しいですか?」


 今度は小さいが、騎士の耳元で少女ははっきりと呟く。

 騎士は、ゆっくり、重く頷いた。


「仲間が諦めてしまうのは、悲しい」


 彼の「仲間」という言葉の響きに、エレナはぐっと言葉に詰まった。


「もし、助けがほしかったら、いつでも俺を頼ってくれ。苦楽をともにした仲間の頼みだ、力になるよ。……どんなときでもね。ま、戦った結果の答えなら、尊重するけどね」


 けれど、そのまえにお姉さんたちにも相談してごらん。

 騎士はそう言って、口を噤んだ。


「騎士様は、騎士様らしくありませんね」


 エレナの微笑み混じりの言葉に、騎士はどんな顔をしていたのだろうか。

 彼女には騎士の少し赤くなった耳だけしか見えなかったので、それは――わからなかった。




 川の方向が、東への右曲がりから緩やかに北の方角に左向きに変わってきた。遠くには河川を横切る橋がかけられており、その東側は、おそらくひげ街道の本道に通じているのだろう。西側の崖部分は石工や工夫の苦労が見て取れる階段が設けられている。あの下には人足たちの使う貯木作業用の施設でもあるのだろう。

 川辺から両岸を行き来する足場も岩を平らかに加工して埋められており、雨の少ないこの時期なら水位も低いので、少女を背負ったままでも余裕をもって渡れるだろう。

 二時間ほど歩いたためか、騎士の背中は汗でじっとりと熱を持っている。鎧越しに感じるその熱気を、エレナは嫌と感じていないのか、クライフの首にしがみつくように密着している。


「さて、あそこを上れば……合流できるはずだ」


 エレナをもう一度背負いなおし、足を速める。


「あの、そんなに急がなくても……お疲れでしょうし」

「大丈夫。はやく合流して、足の治療をしなければ」


 釈然としない顔でエレナは頷いた。

 そんな彼らが遠くかかるその橋に目を再び向けると、なにやら動くものが見えた。

 目の良いクライフが始めに気がつき、次いで言われたエレナが確認する。


「どうやら陸路は川沿いより近道だったらしいね」

「そのようですね」


 足の遅い子供と妊婦連れが先に着いているということは、おそらくそうなのだろう。

 向こうもクライフたちに気がついたのか、手を振っているように見える。


「ほら、騎士様、みんなが手を……」

「ああ。……ん――」


 手を……振っている?

 遠目だが、あれは……。

 クライフは弾かれたように背後を振り返った。


「あれは……追っ手か!」


 南の河川を走り来る二人の傭兵の姿が迫っている。

 馬ではないところを見ると、あの事故の現場から、崖伝いに沢に降りて追ってきた一派だろう。だとすると、街道沿いに追う一団も居るはずだ。哨戒しつつ移動しているだろうとは言え、ひげ街道を行くのは騎馬である可能性が高い。加えて、街道――陸路は川伝いよりも近い。時間がないことは明白だった。


「くそぅ、合流するか、はたまた追っ手を討つか――」

「騎士様……!」


 悲鳴とともに背中のエレナがしがみついてくる。

 この状態では……戦えない。


「急ぐぞ、しっかりつかまって!」

「はい!」


 クライフは走った。

 ただひたすらに走った。

 遥か彼方に見えるが、二つの追っ手の影の近さは疑いようもない。今は、騎士と娼婦たちの距離が開いてしまっていることのほうが問題と彼は判断した。飛び石を渡りきり、早く迎撃に易しと思う位置を奪わなければ、挟撃によりあっけ無く皆の命は霧散してしまうだろう。

 彼女たちの命が蹂躙されることは避けなければならない。

 しかし、彼自身が犠牲になるわけには行かない。


「ふ……自己犠牲は安易な道、か」


 人はみな修羅のように生きなければならないのですか、師匠。


「騎士様――」

「大丈夫だ、俺たちのほうが早く対岸に着く!」

「いえ、ちが――」


 ピゥ!

 少女がそう叫んだ瞬間、悪魔の羽音を騎士に聞かせつつ、一本の鉄の矢が近くをかすめて水面に鋭角にもぐりこむ。

 疾駆しながら長弓を使うだと!?

 相手方の熟練の度合いが計り知れなかった。決して騎士の訓練では教えない戦い方だった。命中精度は恐ろしく下がるはずなのに、その矢の到達点は騎士のすぐ近くなのである。安定した下半身と乱れの無い上半身の動きが一致しなければ到達不可能な境地である。

 平地ならともかく、さすがに足場の悪さで命拾いしたようなものだとクライフは歯噛みする。この状況下で矢が飛ぶとは思いもしなかったからだ。

 これでは、背負っているエレナが良い的である。


「大丈夫です、今は急いでください!」

「エレナ」

「置いていかれても、人質にされます、それよりもみんな助かるほうを選んでください!」


 それは、強固な意志だった。


「みんな助かる方法、か」


 クライフの頬が緩む。


「まったく、わがままを言う。わかった、このまま行くぞ!」


 止まるどころか逆に勢いを増したかのような疾走に、エレナはもう一度強くしがみつく。


「あの、すみま――ありがとう、騎士様」


 人一人背負っているとは思えないほど、飛ぶように疾走し、騎士たちは飛来し続ける矢をものともせずに川辺をつなぐ飛び石を渡りきる。

 ここでエレナを降ろして進行路が限られている飛び石の上で戦うことも考えたが、二手に別れられ、足場の悪い石の上にいる自分を弓で遠間から狙われてしまったら逃げ道が無い。弓の手が相手方にあると分かった瞬間にこれは却下だった。橋の上の娼婦たちに追っ手が迫る危険もあった。ここは渡り、上への階段の足場を利用して凌ぐしかないと考えた。

 崖に沿って幅広く掘られたくりぬき型の階段を半ばまで上り、クライフは段に腰掛けさせるようにエレナを降ろす。


「壁際で伏せているんだ!」

「はい!」

「みんなも伏せて!」


 これは声も届く距離に迫った橋の上の娼婦たちに放った叫びである。

 クライフが追っ手なら、心配そうに覗き込むイリーナの喉首を射抜くと考えたからだ。

 そしてすぐさまアンナから受け取った長弓と矢を取り出し、頭上から狙い、打ち下ろすように二人の敵に狙いを定める。

 一人は剣を手に飛び石を渡っている途中で、もう一方は飛び石に乗る直前で足を止めており、見事なまでの射法姿勢で騎士に矢を向けている。射手の狙いは、おそらく顔を出していたイリーナだったのだろう、この距離でも分かるくらいの殺気と意思をこめてクライフを睨み付けるように狙っている。

 弓の攻撃は、打ち下ろしが有利。

 対手とクライフの技量の差は、これで同等と見る。

 クライフはまず射手との対決を選んだ。

 お互い、撃つ姿勢に入れば、容易に回避はできない。

 睨み合い――。


「!」


 殺気が交錯した瞬間、お互いに矢を放つ。

 風を切り速度を増した一条の閃光は、回避不能の必殺を秘めていた。

 ――ギンッ!

 ――ゴッ!

 敵の放った矢は階段の陰から狙い打つクライフの胸当てをかすり激しい金属音を放ち石壁にめり込み、クライフの放った矢は相手の首元に迫り、身をよじって回避しようとした対手の皮鎧ごと肺腑と脊髄を射抜いていた。

 長弓の威力にどうと倒れ伏す敵射手を確認すると、階段の踊り場まで接近してきた最後の一人と対峙する。


「はぁ……はぁ……」


 さすがに長距離の疾走と緊張から肩で息をする傭兵。

 クライフも同様に鼓動が激しく、肺腑が空気を求めているが、一度大きく息を吸い、ゆっくりと剣を油断無く構えながら、細く長く、ゆっくりと息を吐く。


「シイイイイィ…………ィィイ」


 食いしばった歯の間から呼気が気合とともに漏れる。

 エレナはずっと顔を伏せて耳も塞いで震えている。そんな彼女を守るように、クライフは一歩、すべるように階段を降りる。右足前の大上段。左側は山壁、右手は沢への奈落、上は蒼空を望んでいる。

 傭兵は、頭上を取られながらも剣の切っ先をクライフの喉首に向けて合わせ、守りの姿勢で凝固する。

 お互いの動きが止まる。

 その瞬間――。


「えいや!」


 裂帛一閃、騎士の足元を狙い重心をすさまじく低くした傭兵の横薙ぎの一撃を浴びる前に、騎士の大上段からの雷のような一刀が、傭兵の後頭部の半ばまでめり込んだ。打ち下ろされた勢いで傭兵の体は石段に倒れ付し、降り抜かれることが無かった刃が力なく沢へと落ちていく。


「…………ふぅ」


 鼓動は、治まりつつあった。


「エレナ、もう大丈夫だ」


 傭兵の死体を沢へと蹴り落としながら騎士は少女に言葉をかける。

 耳を押さえていたがちゃんと聞こえていたのだろう、少女は恐る恐る体を起こし騎士を振り返る。そこにあるはずの無残な死体が無いことにほっと胸をなでおろし、とたんに緊張が解けそうになり、ヒックと涙ぐむ。


「騎士様ぁ……」

「エレナ、まだ早い」


 クライフは彼女を背負うのではなく、姫を抱えるように抱き上げ、石段を駆け上る。


「きゃっ」

「合流するのが先だ、安心してはいけない」

「…………ゆ、夢みたい」


 死闘のさなかにも、少女の乙女としての心は揺れ動く。

 先ほど傷ついた左の胸当てに奔る一条の傷跡に頬を寄せながら、エレナは陶然とため息をついた。

 一方駆け上がったクライフは、すばやく左右を見回した。


「……ひげ街道の、本道か!」


 運が良い。

 迷わず合流できたのも、支道があの先に無かったからだ。

 となると、騎馬もまもなくやってくるはずである。


「アンナさん、イリーナさん、ヴェロニカ! オリビア、無事か!?」

「なんとかね……」


 辺りを見回して、アンナはゆっくりと顔を上げる。


「あらあら、私からは『様』がとれてしまいましたね」

「あたしなんてもう呼び捨てにされてるわよ」


 慣れてきたのねぇ、とイリーナがおっとりと立ち上がる。

 ヴェロニカはもう服の土汚れをぱんぱんと叩き落としている。


「きしさま!」


 オリビアに指差され、クライフはびくりとした。


「お姫様抱っこ!」

「あら、ほんとだわ」


 エレナが真っ赤になってうつむく。


「よかったわねえ、まるで御伽噺みたいな展開じゃないの」


 囃し立てるヴェロニカ。


「とにかく」


 一人何とか冷静に受け流し、騎士はヴェロニカにエレナを預ける。


「話は後にしましょう、皆さんは先を急いでください」


 騎士は橋の半ばで佇んだまま、娼婦たちに先を促す。


「どうしたの?」


 と、アンナが問うが、その顔が一瞬のうちに恐怖に彩られる。

 橋の欄干の向こうに、四騎の騎馬が迫っていたからである。


「…………あいつ――」


 クライフは、ひときわ恐ろしい気配を放つ男に目を留めた。

 薄ら笑いを浮かべ、酷薄に一行を見据える――カーライル傭兵団中隊長のひとり、ビスタルの姿であった。

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