こうして『稲穂』は『きゅきゅ』となる

『……ここ、どこ?』


 穴を抜けた先は、全く見たことのない風景だった。

 鼻腔を突くような草の強烈な匂い。それと離れたところには森が見える。どれも砂漠にはなく、それどころかあの穴から通り抜けただけの場所にあるはずがない。

 進んだのは恐らく数百メートルだ。それならば見えていたはずだし、匂いでもわかる。ならばここは一体……。

 周囲を確認しようと思ったとき、急に不安が襲ってきた。そして振り返る。


『ま……ママ!? みんなぁ!!』

 そこには倒れ、身動きひとつしない母と兄弟たちがいた。

 稲穂は駆け寄り体を調べた。息も、鼓動もない。


『し……死ん……』

 涙を浮かべ、泣き出しそうになる。前世あれほど渇望していた、大切な家族。幸せな時間。その全てが一瞬にして失われてしまった。

 自分が不治の病で長く生きられないと医者に言われたとき以上の絶望感。気が狂いそうになるほどの恐怖。

 だがそこまで達するには至らず踏みとどまる。


 絶望なんて散々してきた。今更これくらいで頭が真っ白になったりしない。

『そ、蘇生……早く蘇生しなきゃ! ──ああもうこのフェネ体じゃやりづらい!』

 狐はイヌ科の動物だ。体の構造も犬に近く、前足の動きはかなり制限される。

 それでもやらねばならない。稲穂は心臓付近に前足を置いた。


『──えっ?』

 触れた瞬間、違和を感じる。硬いのだ。生物の肉の感触ではない。

 一瞬死後硬直という言葉が浮かんだが、先ほどまで一緒に走っていたのだ。そんな急激に硬直はしない。

 しかもこの硬さはおかしい。肉球越しに伝わるその感触は、まるで石に触れているかのようだった。

 ならばこれはひょっとして死ではない? 他に動かない原因があるのかもしれない。稲穂は考え込む。

 あの短時間でこんなことできるのは、液体窒素或いはそれに近いものを用いれば可能かもしれない。だけど触れても大丈夫であったところを考えると、そこまで冷やされているわけではなさそうだ。



「か……かわいいぃ!」

 突然の叫びに稲穂はびくりと跳ね上がり振り返る。するとそこには人間の少女が真ん丸の目をキラキラさせ、長い髪を振りながらこちらへ駆け寄ってきていた。

 迂闊だった。家族が死んだと思いそちらへ集中し、周囲への警戒を怠ってしまったのだ。


「う……ワン! ワン!」

「子犬ちゃん?」

 少女はキョトンとした顔で稲穂を見る。そこで稲穂はハッとする。狐の威嚇は犬のようにワンと鳴くから、このままでは犬と思われてしまう。折角狐に生まれ変わったのだから狐扱いされたいのだ。


「きゅううぅぅぅっ。きゅー! きゅきゅー!」

 稲穂は下手くそなフェネ声で一生懸命叫ぶ。犬じゃないんだと。

「あ、あれ? 子犬ちゃんじゃない?」

 わかってもらえたようで一息つく。しかし根本的な解決はしていない。


『こっち来んな! あたしの家族に近寄るな!』

 稲穂は必死に叫ぶ。すると少女は稲穂の後ろに倒れている数匹の小狐を見つける。

「あ……守ってるんだね。ごめん、怖がらせちゃったね」

 少女は近寄ろうとする歩みを止め、困ったような顔をする。


「それにしてもこの子見たことない……うーん……。ちょっと待ってて、おばあちゃん呼んでくる」

 引き返し駆け出した少女の言葉に稲穂は焦る。誰か人を呼ばれてしまう。それはとてもまずい。

 流石に複数の人間相手と戦えないし、逃げることは可能だがそれだと家族を置いて行ってしまう。

 とりあえずどこかへ隠すか? 見渡す限り隠れられそうな場所はないし、来た穴も見当たらない。

 周囲に民家はないが、多人数の音がする。少女の向かった先にはテントがたくさんあり、そこから呼んでくるようだ。


 そして考えている間もなく、少女は戻って来てしまい、その後に老婆が杖をつきながらゆっくりとやってきた。

 目前までやってきた老婆は稲穂へ向かってゆっくりと手を前に出してきた。なんのつもりかは不明だが、先手必勝とばかりに稲穂は牙をむく。

『く、来んなぁ!』

「おーおー、勇ましい子だねぇ」


 (えええっ!?)

 差し出してきた手に食らいつこうと飛びかかったところ、突然動きが止まる──いや、とてつもなく遅くなったことに驚く。まるで空中に止まっているかのようだ。

 物理的におかしい。ありえない事態に稲穂は一瞬パニックを起こす。だが心とは裏腹に体が動こうとしてくれない。

「どう? おばあちゃん」

「ほほう、こりゃあ異界の動物だねぇ。珍しい」

 (異界の動物!?)


 更に意味不明なことを言われ、稲穂の混乱が加速する。しかし乱れ混じることを加速させると、そこには調和が生まれたりする。

 (よくわからないけど、あたしのいた世界じゃないってこと? じゃあここは魔法のある世界で、これ魔法のようなものなのかな。よくわからないけどそれなら納得できる……というか、そういうことで納得しないと理解できない)

 彼女の場合、落ち着いて分析、そしていい具合に思考を放棄する方向へ乳化したようだ。


『異界の動物って……』

「ほっほう、驚いた。この子、言葉を理解するだけじゃなく思考することもできるのか」

『えっ? えっ?』

 稲穂の混乱は別方向へシフトした。今の言葉を理解されてしまったのだ。


「どういうこと?」

「普通動物っつーのはな、『腹へった』だの、『眠い』だのと本能から直結した言葉しか話さないだろ?」

「あっ、うん。そうだね」

「あとはせいぜいさっきみたいに『近寄るな』とか『仲間に触るな』とかな。なのにこの子は『異界』っつー言葉に反応したぞ」

 少女の疑問に老婆が答える。


『そんなことはいいから、なんであたしの言葉わかるの!』

「それはね、私やおばあちゃんが動物の言葉を聞ける部族だからだよ」

『えええええっ!?』

 稲穂、驚愕する。そして羨ましさが溢れ出る。動物と話せる能力があるのなら是が非でも手に入れたかった。それなら前世はもっと楽しかっただろうに。

 とはいえ今は狐の体。狐の言葉はわかるし、狐以外にも哺乳類であればなんとなくわかるようにはなっていた。


「んでな、お前さんがいた世界に魔法はなかっただろ?」

 老婆の言葉に稲穂は頷く。

「お前さんの家族が固まっているのは、それが原因だ。突然入り込んだ魔力の流れに体が防衛本能を働かせたが、そのとき魔力が変な風に働いて時間を止めてしまったからだ。人間なら理性が働き制御できるんだが、動物だとなかなかそうはいかない」

『時間が止まっている? それってどういう……』

「聞きたいことを先に教えてやろう。つまりこの子らは生きている」


 生きている。それを聞いた途端、稲穂から張り詰めた雰囲気が消えた。そこで老婆は魔法を解き、落ちる稲穂を少女が抱きかかえた。

『触らないで!』

「いたたたたっ」

 稲穂は少女の手を噛み散らし、蹴りを入れて腕から逃れる。


「全く、普段から言うておるだろ。野生の動物を無暗に触ってはいかんと」

 針のような歯で切り刻まれるように怪我をした少女の手を老婆が魔法で治療した。


 (魔法で怪我を治せるの!? いいなぁ)

 稲穂は治っていく傷口を眺めていた。


「んで、とにかくこの子らを放っておくわけにゃいかんだろ」

 老婆は稲穂の後ろにいる家族の前でしゃがんだ。

『な……なにするの!』

「大人しくしとれ。悪いようにゃせん」

 すると老婆は懐から小指の先ほどの水晶のような石を取り出し、3匹に向かってかざす。すると3匹は石にその姿を吸われた。


「これで持ち運びやすくなっただろ。元の世界へ戻れるか、この世界でも動ける方法が見つかったら出してやるといい」

 老婆はそう言って石を革紐に付け、稲穂の首へペンダントのようにかけてやる。

『戻せるの?』

「ああ。この世界であればこの石から出ろと念じて魔力をかければ出るし、元の世界なら魔力切れで勝手に出るだろ」

 それを聞いて稲穂は安堵する。助ける方法を探したいが、放置するわけにはいかない。だがこの状態であればずっとそばにいられるのだ。


「ともかく、この辺はまだ魔物が出る。危険だから我々とともに来るか?」

 その申し出に稲穂は考える。元の世界でも、ちょっと大きい程度の動物相手で脅威になる。だというのに魔物とやらが出るというのだ。どれだけ恐ろしい世界なのか。

 ならば少しでも安全なこの人間たちと一緒にいたほうがいいのではなかろうか。先ほどまでの対応を考えると、悪いように扱うことはないだろう。

 こんなところで意地を張って危険な目に会いたくない。守らねばならぬ家族がいるのだ。


『お世話になり……ちょっと待って。我々と共に来るって?』

 彼女らがいたのはテントの集合体だ。そしてそのテントは見るからに長く住むためのものではない。つまり彼女らは移動の途中ということになる。

「うん。私たちは部族……ってわからないかな? 人が集まって暮らしているんだけど」

『それくらいはわかるよ』

「ご、ごめん。えっと、魔物の軍勢と……軍勢は?」


 少女は稲穂を動物であるとし、わかるわからないを探りつつ話そうとしている。親切なのはありがたいが、それでは話が終わるまでに何世紀もかかってしまう。

 だから稲穂は一番の秘密を明かすことにした。家族にすら──といっても、彼らが理解できるはずはないのだが、誰にも語っていないことだ。


『あたし、実は人間だったんだ』

「えっ?」

「ほほぉ」

 少女と老婆は驚きの声をあげる。

 稲穂は彼女らに自分の話をした。前世は人間で、この姿に生まれ変わったことを。



「──なるほど。そういった経緯であれば動物なのにそれほど賢いのも納得いく。しかも魔力は本来その身に宿せるほどの量ではないくらいだしな」

「おばあちゃん。生き物って大体体が大きいほうが頭いいんでしょ?」

「そうとは限らんぞ。でかいだけでアホな生き物もたくさんいる」


 一般的には脳と体の比率である程度の賢さがわかるという。一説にはクジラとカラスの知能を比較すると、カラスのほうが賢いとか。

 それはさておき、稲穂もそれを考えていた。フェネ体は理性を司る脳、つまり大脳新皮質と呼ばれるものが単純な大きさはもとより、比率としても人間より遥かに小さい。

 他にも様々な要因からして、人間と同じ思考をできるはずがない。

 稲穂はそのことに関して『こころ時空』という仮定の空間が物質空間のほかに存在しており、そこにある自分の心と動物の体が繋がっているのではないかと考えている。


「ふぅむ。それで、人の記憶はいつまである?」

『あたしが死んだのは17歳かな』

「えっ!? 私より年上なの!? そんなにちっちゃくてかわいいのに!」

『ちっちゃくないよ! まだ内毛は白いけど成人……? 成狐? と同じ大きさなんだから!』

 小型の動物は大抵、生後1年も経たず大人と同じくらいの大きさに育つ。とはいえフェネックであればどちらにしろ小さい。10年経とうがこぎつねちゃんだ。


「じゃあこれからよろしくね! 私はリミルリ」

『あたしは稲……あたしはきゅきゅ! フェネックギツネのきゅきゅ!』 

 稲穂────きゅきゅは、人間だったころの名前を使わず、生まれ変わった後の家族が呼んでくれる名を選んだ。

「きゅきゅちゃんね! よろしく!」

 そう言って差し出してきたリミルリの手を、きゅきゅはガブリと噛んだ。

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