第6話 救済編⑥

 私は目覚めた。

 朝ではない。まだ、窓に映る景色は暗闇である。

 私は電気をつけっぱなしにして寝てしまっていた。自室の蛍光灯が眠りから覚めた私の両目に突き刺さる。

のどが渇いた)

 私は自室から階下に降りることにした。冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出すためだ。

 一階の階段を下へとくだっている時だった。妙な音が聞こえた。擬音化するならば、

「ぐおぉ。ぐおぉ。ぐおぉ」

 という感じである。

 私は不審に思った。

(なんだ。この音は)

 私は階段を降り切ると、音の発生源がどこからするのか突き止めた。父と母の寝室からである。

 奇妙な音は父が発する声だとわかるのに、五秒ほど要した。父は泣いているのだ。

「どうして、どうして俺なんだ。俺、何か悪いことをしたか? 犯罪とか人をだましたりとかしたか? 俺は何もやってない。なのに、なんで俺だけガンになるんだ。どうして、俺なんだ」

 母の声も聞こえる。

「あなたは何も悪くない。悪いことをしたとか、良いことをしたとか関係ない。これはもう、どうしようもない運命なの。子供たちにも話したでしょ?」

「俺がいなくなって、お前と子供たちでやってけるのか?」

「前も話したじゃない。お父さんは保険に入ってるから金銭面では大丈夫だって。それに、もし万が一、お金に困るようなことがあったら私が働く。一生懸命、働いて、あの子たちにつらい思いは絶対させない」

「わかってる。わかってるんだけど、やっぱり怖いんだ。死ぬのは怖い」

「わかる。私も怖い。お父さんがいなくなった後のことを考えると私も怖い」

「それに、子供たちの成人式も見てやりたかった。それができない。悔しい。なんで俺なんだ。なんで……」

 私はそこまで聞くと、階段の方へ戻った。喉の渇きは忘れていた。

(夕飯のときには、いつも通りのお父さんだったけど、やっぱりガンが怖いんだ。そんなこと当たり前なのに、私は気が付けれなかった)

 私は二階の自室に戻ると、電気を消した。ベッドの布団を体にかける。

(お父さんは私が助ける。あの美少女にけてみよう。私にできるのはそんなことくらいだ)

 私はまぶたを閉じた。そして、ゆっくりと無意識の世界へと入っていった。

 翌朝。

 私はスマートフォンのアラームが鳴る前に起きた。いつもより、三十分は早く起きたことになる。

 私はベッドから起き上がった。ジャージを脱ぐと、制服に着替える。

 かばんに教科書類を詰め込むと、一階に降りた。

「おはよう」

 リビングを通りながら、朝の食卓に向かって挨拶あいさつをした。

「おはよう」

 そこには意外な人物がいた。あつしが食卓にいたのだ。

(あっくんは朝練で一番早くに家を出るのに)

 私は自分の席に座った。

「あっくん、朝練は?」

「さぼった」

 敦は実にぶっきらぼうに言った。

 敦が野球の朝練に行かないのはこれが初めてかもしれない。

(昨日、お父さんが言ったことがショックだったんだろうな。そんなの当たり前か)

 敦はすでに朝食を終えているようだった。まだ、登校するには時間が早いようだ。

 キッチンにいた母が朝食を私の前に持って来てくれた。お盆にサラダ、目玉焼き、ベーコン、食パンとホットコーヒーが乗っている。

「いただきます」

「はい、どうぞ」

 母はいつもの笑顔を見せた。

 私ははしでサラダを突きながら、敦を見た。

「あっくん、お父さんとご飯を食べたの?」

「まぁね」

「お父さん、何か言ってた?」

「怒られた。なんで朝練に行かないんだって」

「ふーん」

 私はサラダを咀嚼そしゃくした。

「ねぇ、あっくんはお父さんの病気のこと、知ってたの?」

 私は前日の父のガンの告白を思い出していた。敦は父の様態を知っていたかのように感じたからだ。

 敦は少しだけ眉を寄せた。

「姉ちゃん、何も気が付かなかったの? ここ一週間、お母さんとお父さんの様子が変だっただろう? 何か二人でこそこそ話をしてたりしてさ」

 そうだっただろうか?

 私は父が告白するまで、ガンのことを全く知らずにいた。母の様子も普段と変わらないものだと思っていた。

「じゃあ、お父さんのガンのこともわかってたの?」

「わかってねぇーよ。でも、何か重大な事が起きてるってことは感じてた。姉ちゃん、本当に気が付かなかったの?」

 弟である敦から厳しく言われ、私は衝撃を受けた。私は自分のことではないとはいえ、大事な家族の危機を察知できずにいたのだ。

 私は食パンに手をつけた。

「気が付けなかった。あっくんはちゃんと家族の変化を感じていた。私は気が付けないでいた。私は馬鹿だ」

 その時、キッチンで洗い物をしていた母が食卓にやってきた。悲しそうな顔をしている。

「自分を責めちゃ駄目よ。あっくんは人のことを思いやる心が強いの。だから、お父さんとお母さんの様子が変だってことに気が付けただけ。むしろ、気が付かない方が、お父さんにとっては楽だったの。たぶん、お父さんがガンの告白をしたときも、あっくんは何かを言いたかったんじゃない? でも、お父さんの様子を見て、めたんだよね?」

 母は全てお見通しのようだった。

 敦が、「そうだけど」と仏頂面で答える。

「ね? 何も感じてなくて、何も言わないことのほうが、昨日の夜は良かったの。だから、あなたが自分を責めることはないんだよ」

 私はうつむいて母の言葉を黙って聞いていた。

 敦が席を立つ。鞄を手にし、玄関へ向かう。

「いってきます」

 敦の言葉にはとげがあった。

 母が敦の背中に声をかける。

「今日はちゃんと部活に行くんだよ」

「わかってる。いってきます」

 敦の言葉は最後まで辛辣しんらつだった。

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