第4話 救済編④


 翌朝。

 自室のベッドで眠っている私を母が叩き起こした。

「起きなさい! いつまで寝てるの」

 私は朝が弱い。普通の人より五倍は朝が苦手なのではないのかと思う。

 寝ぼけまなこで私はジャージから制服へと着替えた。かばんに教科書を詰めると、階下へと降りた。

 あつしはいない。母がキッチンで食器を洗っている。

 代わりに珍しい現象を目にした。父がリビングのソファーに座り、朝のニュースを観ているのだ。

 いつもなら、とっくに朝食を終え、会社へ行っている時刻である。

 私は父の姿を見ずに、

「おはよう」

 と、挨拶あいさつをした。

 父はテレビから目を離さずに、「おう。おはよう」と返した。

 珍しいこともあるものだと思いながら、私は食卓に向かった。

 食卓には私の席に朝食が用意されていた。今日もいつもと同じだ。食パンにサラダ、目玉焼き、ベーコンにホットコーヒーだ。

 朝食を終えると、私は洗面所へ行き歯をみがいた。ついでに体重計に乗る。

(体重が一キロ減った)

 歯ブラシを動かしながら、私は喜んだ。

 口をゆすぐと、鏡に向かって髪をいた。縮れ毛を少しでも真っ直ぐにしたいと思い、強引にくしを使う。が、いつも通り櫛はうまく髪を通らない。

(髪がストレートなら少しはまともに見えるかもしれないのに)

 毎朝そう思う。

十分間ほど髪と格闘して私は諦めた。毎日、同じことの繰り返しだ。

 リビングに戻り、鞄を手にして家を出ようとしたときだった。母がキッチンから声をかけてきた。

「今日は学校が終わったらすぐに帰ってきてね」

「なんで?」

 私は放課後になると真っ直ぐに家路に着いていた。母もそれを知っている。なのに、この日は私にすぐに帰るように念押しをした。

「大切な用があるの。あっくんも今日は部活を休むから」

 私は首をかしげた。

(大切な用? なんだそれ?)

 理解できずに玄関に進むと、私は靴をいた。

「わかった。いつも通りすぐに帰るから」

「お願いね」

 母の顔は真剣だった。

「行ってきます」

 私は家を後にした。

 その日の学校生活を私は日頃と同じように過ごした。授業で解答するよう指名されることもなかった。昼食は仲の良い友達とおしゃべりをしながら食べた。

 放課後。

 私は校舎を後にすると、帰路についた。歩きながら、昨日の美少女が出てくるのではないのかと考えたが、彼女らしい姿はどこにも見当たらなかった。

 私はいつもと同じペースで家に帰った。

 家に着くと私は玄関のドアを開けた。

「ただいま」

 玄関に敦の靴がある。父の革靴もある。

(あっくんもお父さんも、もう帰ってるんだ)

 私は玄関からリビングに入った。リビングに続く食卓にはそれぞれの席に父と母、敦が座っていた。

(皆、私を待ってたの?)

 私は眉間にしわを寄せた。家族の雰囲気が非常に重かったからだ。

誰も口を開いていない。

「ただいま」

 私はもう一度、繰り返した。

 母が顔を上げる。

「おかえりなさい。ちゃんと早く帰って来てくれたんだね」

「うん」

 私は母に向かってゆっくりとうなずいた。

「ちょっと、そこに座りなさい」

 父が私の席を指でさした。

「うん」

 私は先ほどと同じトーンで返事をすると食卓についた。いつも私が座る席だ。

(なんだこの空気は)

 私は食卓を包むたたずまいに違和感を覚えられずにはいかなかった。

 父が私、敦へと視線を送ると前もって準備していたように口を開きだした。

「実は、今日は大事な話があるんだ」

(この空気で大事な話以外、何があるんだ)

 私は心の中で父に突っ込んだ。

 父は話を続ける。

「今日、会社を休んでお母さんと一緒におじいちゃんとおばあちゃんの家に行ってきた。両方のだな。だから、今から話すことはお前たちが最後になる」

 私は隣に座る弟である敦をちらりと見た。敦はひざの上でこぶしを握っている。

「で、何の話なの?」

 私は半ば頓狂とんきょうな声で聞いた。瞬間、敦が私の顔を少しにらんだように感じた。

 父は先程よりもさらにゆっくりと言った。

「実は、お父さん、ガンなんだ」

 私は唖然あぜんとした。言葉が出ない。

 敦がなぜか両肩をがっくりと落とした。まるで、あらかじめ父がガンであることを知っているかのようだった。

 私は勇気を出して、声を出した。

「ガンって軽いもんなんでしょ? だって、お父さんまだ若いんだし。手術とかで取れるんでしょ?」

 父は首を左右に振った。

「残念ながら軽くないんだ。膵臓すいぞうのガンでね。もってあと三ヶ月程度らしい」

(三ヶ月?)

 私は心中で父の言葉を反復した。

(お父さんはあと三ヶ月で死んじゃうの?)

 私は右の唇を上げた。苦笑いのつもりだった。

「そんな何かの冗談でしょ? お父さんとお母さんでドッキリでもしようっての? たちが悪いよ」

 それまで黙っていた母が眉を寄せた。

「これはね、本当のことなんだよ。二人には黙っていたけど、少し前からお母さんはお父さんから聞かされていたの」

「少し前ってどれくらい?」

「一週間と少しくらいかな」

「どうして、もっと早く……」

 母はし目がちになった。

「本当はあなたたちにも早く知らせたかったんだけど、お母さん自身の心の気持ちが整理できてなかったの。だから、今日、こういうふうにお父さんから言ってもらうことにしたの」

 突然の話に私は混乱していた。父がガンであるという事実がまだ受け止めることができない。

 しかし、敦は冷静だった。

「治療は始めてるの?」

 父が答える。

「はじめようとしてる。でも、普通の治療とちょっと違うんだ。それをお前たちに話したくて、今日は早く帰ってきて欲しかったんだ」

 敦が首をかしげた。

「普通の治療と違う? 民間療法ってやつ?」

「いや、それも違う。お父さんはガンになった後でも普通に暮らそうと思うんだ」

 今度は私が口を挟んだ。

「普通ってどういう意味?」

「必要最低限の治療しかしない。抗ガン剤もあまり使わない。つまり、日常生活ができる程度の治療しかしないってことだ」

 私はテレビのドキュメンタリー番組でガンと戦う人を観たことがある。その人は抗ガン剤の副作用で髪が抜け、ひどい吐き気に襲われていた。トイレの便座に向かってゲーゲーと胃の内容物を吐き出しているのが印象的だった。

「お父さんはこれからも会社に行く。行って普通に仕事をする。ま、仕事と言ってもお父さんが受け持ってる仕事を同僚や後輩に引き継ぐのがメインになるだろう。それでも、お父さんは会社へ行く。今まで通り、朝起きて、会社へ行くんだ。そして、仕事をして帰ってくる」

 敦がつぶやくように言う。

「俺、部活辞めようかな。そうすれば少しでもお父さんといる時間ができるし」

 父が即座に敦に視線を送った。

「駄目だ。今日はそういうことを話すために早く帰ってきてもらったんだ」父のほほ若干じゃっかん緩む。「あっくんはお父さんのことを思って、大切な部活を辞めようとしてくれてた。その点では感謝してる。お前はいい子だ。けれど、お父さんの望みは日常を生きることなんだ。いつも通り、あっくんが部活で泥だらけになって、夜の遅い時間に帰ってくれるのが、お父さんの望みなんだ」

 父は次に私を見つめた。

「お前も普段通りでいいからな。無理に何か事を起こす必要はない。いつも通りで普段通りの生活をして欲しいんだ」

 父が手のひらを叩いた。パンと乾いた音がする。

「お父さんの話は以上だ。いいか、お前たちはお父さんの病気を何にも心配する必要はない」

 私は心の中で父に反論した。

(こんな話を聞かされて普段通りでいれるわけがない)

 父は私の心中を察しないとでもいうように、母に言った。

めしにしよう。なんだか今日はおじいちゃんとおばあちゃんの家に行って疲れた。風呂の前に夕食をいたい」

 母が食卓を立つ。

 父が私と敦を観察するように交互に見た。

「お前たちと夕飯を食べるのは久しぶりだな。お父さんは仕事で帰る時間がバラバラだし、あっくんは部活で遅いしな。ま、たまにはテレビドラマよろしく家族でご飯を食べるのもいいだろう」

 父はその後、豪快に、「ハッハハハ」と笑った。

 しかし、私には父の笑いが空笑いに思えて仕方なかった。

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