第2話 救済編②
自宅に戻ると、母親がキッチンで夕食の準備をしているところだった。
「ただいま」
私が玄関で
「おかえりなさい。今日はちょっと帰る時間が遅かったのね」
私はリビングへと歩みを進める。ソファーの上に
母親の指摘通り、普段より三十分は遅い帰宅になっていた。
(道すがらいろいろ考えたから歩くスピードが遅くなったのかな)
私はキッチンに足を運んだ。冷蔵庫からミネラルウオーターを取り出し、コップに注いで飲む。
ミネラルウオーターを飲み、一息ついた私はガスレンジで
「ねぇ、最近、お母さんって体の調子が悪いと感じたことはない?」
母親は炒め物をかき混ぜている
「突然、何? お母さんの顔色、悪い?」
「そういうわけじゃないけど、何だか急に気になって聞いてみただけ」
「変なことを聞くね。お母さんは健康そのものだよ」
「ならいいんだけど」
確かに、見た目では母親は健康そのものに見える。家事全般をそつなくこなすし、風邪をひいたとき以外は日中、母親が横になっているところを見たことすらない。
それから私は鞄をソファーに置きっぱなしのまま、制服姿でテレビを観た。あまり興味のないニュース番組ばかりだったので、ザッピングを繰り返した。
やがて父が帰ってきた。ちょうど、ニュースが明日の天気を報じているときであった。
「おかえり」
「ただいま」
父はいつもの調子で玄関からリビングに入って来た。
父は私を見るなり、眉間に
「なんだ、制服のままじゃないか。それに鞄も片づけてない。鞄だけでも自分の部屋に持っていきなさい」
私は父を
父の言い分はまったく正当だ。が、それが気に食わなかった。なぜかわからないが、父の言葉遣い、態度がいちいち
私は大げさな身振りでソファーの上の鞄に手をかけた。わざと足音を大きく出して、二階の自室に向かう。
自室に入ると鞄をベッドの上に無造作に置いた。
クローゼットを開けると、私は制服を脱いだ。代わりに、中学のときに使用していたジャージに
(お父さんに話しかけられると、どうしてこうもイライラするんだろう?)
理性では私は父を尊敬していた。
私たち家族を養ってくれているし、私の学費やお小遣いも父が出費してくれている。
理性では尊敬しなくてはいけない、とわかっている。わかってはいても、いざ父と対面すると言いようのない不快感に襲われるのだ。
私はベッドに横になった。仰向けになり、天井を眺めていると、下校途中に声をかけてきた魅力的でボリュームのある唇から発せられた美少女のことを思い出していた。
「あ」
と、私は単音を発した。
(彼女にもらったメモ用紙が制服のスカートに入れたままだ)
私はベッドから起き上がった。クローゼットに進むと、ハンガーに吊るしたスカートのポケットからメモ用紙の切れ端を取り出した。
私はメモ用紙に視線を落とした。それから再び、ベッドに倒れこむと天井を見つめた。美少女の言葉が頭の中で響いた。
(あなたの近しい人、親族か友人、知人の命が危なくなる。そのとき、あなたはその人を守りたいと思う?)
自分と親しい人が危機に見舞われたら、助けたいと私は思う。容姿にコンプレックスはあるが、それなりの道徳的観念は持ち合わせているつもりだ。
(でも、私は友達が少ない。本当に仲良くしてくれている友達は十人にも満たない)
私はある程度の友人と呼べる女子生徒と仲良くしている。太っちょで不細工な私であるが、幸運なことに
十人にも満たない、という感想を抱いたが、私にとってはそれで充分である。
吊り目で肥満な私であったが、いじめにもあっていなかった。このことも私は運がいいと思っていた。
(私の親しい人が危なくなるのか)
私はクラスにいる何名かの顔を思い回した。私と普段から仲良くしてくれる女の子たちだ。
(あの子たちが危なくなるのか?)
私は自問自答した。
(可能性はある。彼女は私に近しい人に危険が及ぶと言っていた。ということは私の友人もその対象になるはずだ)
考えてから私は胸の中で首を横に振った。
(何を本気になって考えてるんだ。私はあの美少女を信じてるのか? あんな馬鹿げた話を信じるなんて、私自身が馬鹿だ)
私はベッドから起き上がった。
(きっと悪質な嫌がらせなんだ。あるいは何かのゲームに負けて、その罰ゲームで私に意味不明な声掛けをしたんだ。真剣になって考えるのは
私はメモ用紙を両手で包み込むようにすると、クシャクシャと丸めた。球状になった紙片をゴミ箱に向かって放り投げる。
宙に放たれたメモ用紙は見事、ゴミ箱の中央に落下した。
それから私は目を
私は浅い眠りに落ちる。
私は夢を見た。夢の中で夢とわかる夢だ。
(あ、今、私は夢の中にいる)
夢の中の私は真っ白な世界にいた。右を見ても、左を見ても白い世界だ。上下も純白だ。
あまりにも白い世界なので、自分が立っているのか横になっているのかすらわからない。
しばらくすると、前方に黒い点が現れた。黒い点は真っ白な紙に一滴の墨汁を垂らしたように見える。
黒い点はだんだんと大きくなる。私に近付いて来ているのだ。
(なんだあの点は?)
やがて黒い点は形を帯びてきた。それは人の形だった。
人の形をした黒い物体は私にさらに接近する。近くになるにしたがって、それは大人の男性だということがわかる。
近づくと黒いものは、厳密に言うと濃紺の背広だということがわかる。やがて、顔もはっきりと確認できるようになった。
(お父さんだ)
背広は父が毎朝仕事に出かけるために着るものだった。
やがて父の姿は私と三メートルも離れない位置に距離を詰んだ。
真っ白な世界で、私の目の前の父はパクパクと口を動かした。が、父が何を言っているのか、私にはまるでわからなかった。
口が動いているのはわかるのだが、声が聞こえないのだ。
純白の中、私は父に向かって声を出した。
「何? 全然、聞こえない」
私の声も父には届いていないようだった。相変わらず、口を開いたり閉じたりするだけで、私の耳に父の声は入らない。
私は声を大にすると同時に、口周りに左右の手で輪を作り、メガホンのようにした。
「聞こえないってば。何を言ってるの?」
やがて、父は口を閉ざしてしまった。
父は悲しげな顔をした。同時に今度は父の姿は遠ざかって行く。近づいて来た時と同じ速度でどんどん父は私から離れる。
遠ざかる父に向かって私は声をかける。
「ねぇ、待って。どこに行くの? お父さん」
しかし、父は悲しそうな表情のまま、私からさらに距離を
最終的には、始めに現れたように小さな黒い点になってしまった。そして、黒い点はやがて視界から消え去ってしまう。
黒い点がなくなると同時に私は目覚めた。
部屋にある壁掛け時計を見る。寝ている時間は三十分にも満たなかった。
ベッドの上で私は吐息をついた。
(何だったんだろう、今の夢は)
覚醒しても夢の記憶を鮮明に思い出すことができた。いつもなら、自然と
(何でお父さんが夢に出るんだ?)
理由はわからなかった。
父の夢について思案していると、枕の隣に放り投げた
私は寝返りを打ちながら鞄に手を伸ばし、スマートフォンを手にした。着信は母からのメールだった。
〈夕飯ができたから食べにおいで(^o^)〉
母はよく顔文字を多用する。そのほうが子供である私とのコミュニケーションがうまくできると思っているからだ。
(別にそんなこと気にしなくていいのに)
私はスマートフォンをジャージのズボンのポケットに突っ込むとベッドから降りた。
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