旅路の果て

旅路の果て (1)

 懐かしい白い肌、輝く金茶と金髪。その向こうに、見慣れない天井があった。

 ぎょっとした様子で、シャイネが身を引く。

 ――シャイネが。

 ゼロは上掛けをはね除けて飛び起きた。否、飛び起きたつもりだったが、全身が酷く痛んで、頭をわずかに浮かせたに過ぎなかった。滅びの後もこんなだったな、と苦く思う。あの時はシャイネではなく、ヴァルツだったが。

 そうだ、おれは、魔物に腹を食い千切られて。

 死んではいないようだ、と苦痛の大合唱に顔を顰める。寝台の傍らで、シャイネが戸惑いも露わにこちらを見下ろしていた。旅装ではない。さっぱりしたシャツと吊りズボン、温かそうな毛織りの肩掛けといった出で立ちで、まるきり少年に見えた。

 骨ばった痩せぎすの体、隈の浮いた血色の悪い顔。悪い病気でもしているのかと不安になる。

 その喉には眩しいほど白い包帯が巻かれていた。どうしたんだと問いかけようとして、彼女とは喋らないと決めたことを思い出し、沈黙する。

 彼女もまた無言だった。怯えた様子でこちらを見て、あるいは部屋のあちこちに視線を飛ばして、落ち着きがない。

 少なくとも、ゼロの目覚めを喜んでいるふうには見えなかった。そりゃそうだ。当然だろ? 喉を塞ぐ重苦しさを、心をよろって飲み下す。

 シャイネはゆっくり後退り、扉を軋ませて姿を消した。家具の隙間から這い出た害虫を目にしたかのような怯えよう、全身で拒否感を示している。

 夢ではあんなだったのに。甘い夢と現実の落差にため息をつく。腹に力を込めぬよう慎重に上体を起こした。それだけで体がばらばらになりそうなほど痛み、不覚にも涙が滲む。悲鳴を呑み込み、どうにかこうにか呼吸を整えた。

 腹にはきつく包帯が巻かれており、化膿止めの軟膏の匂いが布団に籠もっていた。物入れの天板には山ほどの薬とスチャヤの瓶、包帯や晒し布が纏めて置かれている。

 手指を握り込んで開き、足首を回した。動きは心許ないし、全身包帯だらけだが、腹の傷以外はどうということはない。

 生きていた。呟きは静かな部屋に吸い込まれ、消える。

 角部屋なのか、部屋はいびつな四角形だった。小さいながらもしっかりした造りの暖炉で炎が赤々と踊り、蓋のない大鍋には湯が沸いている。部屋もゼロの身なりも清潔だ。民家のようだが、どこだろう。

 ぱちんと弾けた薪に炎と木々の息吹を感じる―精霊がいる。曇った窓の外を駆け回る風は高い声ではしゃぎ、暖炉を守る鉄柵や火かき棒がぬくぬくと微睡む。

 つまり、神都ではない。

 どこだかわからないが、と首を傾げる。どうやっておれをここまで移動させたんだろう。

 女神の子として目覚めた自分を神都が簡単に手放すとは思えず、かといってシャイネが大怪我をした自分を引きずって戦場を後にできるはずもない。動かすことさえ危険な傷だったように思うのだが。

 戦場、そうだ、魔物はどうなった? アンバーの力は失われたのか? アズライトは、レイノルドは、卵は?

 多くの疑問がどっと押し寄せ、混乱する。それを鎮めたのは、扉を控えめに叩いた後に姿を現した若い男女だった。シャイネが続き、扉を閉める。小さな部屋は、三人が立つだけで窮屈だ。


「ゼロさん、ですね。それとも、アーレクスさんとお呼びした方がいいですか」


 前掛けをした青年が言った。年の頃はシャイネより一つ二つ上くらいか。胸元のパンの刺繍が場違いに可愛らしい。ほっそりした体つきの割に肩や胸が逞しく、武術を嗜むのだろうと思えた。

 短く刈り込まれた黒髪と、虚ろな静けさを湛えた緑の眼。どこにでもいそうな青年だが、周囲からは浮いた雰囲気を持っていた。


「……どちらでも」

「僕はラシュレイと言います。こちらは、妻のミナト。ここは、メリアの僕たちの家です」


 ゼロは無言で頷いた。メリア、という地名だけが疑問を残す。


「シャイネは冬の入日に、大怪我をしたあなた連れてどこからともなく現れ、僕たちに助けを求めました。僕たちはそれに応じました」


 ラシュレイと名乗った青年の言葉に、無駄はひとつもない。何度も、繰り返し文を練ったのかもしれない。


「シャイネはあなたの薬と、食事と、寝床に代金を支払うと言って、店を手伝ってくれています。店番をしたり、掃除をしたり、配達をしたり。ですが……ここに来てから一言も喋れずにいます」

「どうして」


 尋ねると、ミナトの後ろでシャイネが身を縮める。何を怯えているのか、目を合わせようとしない。不満を覚える心を叱咤する。いや、これでいい、あいつはおれを避け、おれから離れていくべきなんだ。


「あなたをここに運ぶために無理をしたからです。……精霊のわざを使ったのだろうけれど、よく覚えていない。彼女はそう言っています」

「そんな……」


 精霊の力で戦場を脱したのか。そして、メリアまで移動した? 戦いの最中にもシャイネは多くの精霊を使っている。それでもゼロが命じたからなおも精霊をんだ。もう限界に近かったはずなのに。

 そこからさらに、ゼロを助けるために精霊を使ってくれたのだ。声が出なくなったとしても不思議ではない。もしかすると、もう二度と話すことも、召喚もできないのではないか。

 単なる損傷ならおまじないでどうとでもなるはず。それをしないということは、おまじないができないのか、あるいは、効かないか。

 背筋に氷嚢を当てられたように震える。

 おれが、シャイネの喉を潰した。あの声を壊し、精霊たちとの繋がりを断ち切った。


「大丈夫です、いつかは治るそうです」


 青年の声は優しかったし、事情を承知しているふうな理解の響きがあった。喋れないシャイネと筆談や身ぶり手ぶりで意思疎通を図ったのだろうが、それには途方もない根気と、冷静さが必要だったはずだ。

 それにしても、ラシュレイもミナトも落ち着き払っていて、少しも慌てた様子がない。何をどこまで知っているのか、好奇心や興味本位に詮索されることもなかった。

 それで、と彼は続けた。


「何か複雑な事情があるんでしょう? シャイネは半精霊だし、あなたの具合はどうだ、目は覚めたかって神殿からの使いが毎日やって来る。詮索するつもりはないんですが、ゼロさん、まずはシャイネと二人きりで話した方がいいんじゃないですか。話すことはたくさんある。違いますか」


 そうだとも違うとも言えず、戸惑う。話などない。今さら何を言えと? 弁解か、謝罪か、それとも。どれも後悔の上塗りに他ならない。

 柔和ながら有無を言わさぬ笑顔と共に二人が去り、沈黙のまま部屋に残された。シャイネは扉に背をつけて俯いている。近づいては来ないくせに、部屋を出ようともしない。少しでも遠ざかろうとしている姿がこたえる。嫌われて当然の仕打ち、態度を取ったのはゼロ自身なのに。

 揺らぐ心を殴りつけ、瞼を閉ざした。どんな理由があろうとも、この手と言葉で傷つけたのは事実だ。誠実ではないし、恥ずべき行いだった。いくら彼女が赦しを与えてくれても、己を許すわけにはいかない。

 沈黙は永遠に続くかと思えた。彼女とは話さないと決めたが、独り言ならば構わないだろうとこじつける。一度堕ちてしまったのだから、どんな愚かしい振る舞いも許されるはず。浅はかで滑稽で見苦しい男。ただそれだけだ。


「夢をみたんだ。夢の中であんたに会った。幸せな夢だったよ。あんたと会えて話せて、謝れた。だから、もういいんだ。あんたは北に帰るといい」


 ややあって、意を決した様子で、シャイネは寝台の傍の椅子にかけた。ゼロの左手を取り、掌に指で文字を綴る。


『夢 じゃ ない』

『僕も 夢で ゼロに 会った』


 喉が鳴った。彼女は精霊の力で夢を渡る。では、あの夢はいったい誰の夢だったのか。夢だけれども夢じゃないという言葉に意味が通るのなら、もしかすると自分も。


『僕は ゼロと 旅を したい それとも』


 指が止まった。夢で触れた彼女に温もりはあっただろうか。骨格を感じるほどの華奢な身体、肌の滑らかさ、眼の輝き。柔らかい髪、整った睫毛、花弁のような唇。

 実存の重みは夢で出会ったときよりも鮮やかに、体温と質感と迸る感情とともに良心を締め上げる。現実の揺るぎなさが、命の熱量が、後悔と逡巡、慚愧と困惑、劣情と罪悪感を炙る。


『もう、いらない?』


 いらないはずがない。そんなわけない。夢では何と答えたのだったか。肯定はしなかったはずだ。

 悔恨と羞恥、決意と執着とが混じり合った苦みが全身を駆け巡り、手を伸ばしかけては力を抜き、指を震わせては拳を握る繰り返しだった。

 夢に見た彼女は会えて嬉しいと、いつまでも待っていると言ってくれた。怒っていると言いながらも、ずっと看病を続けてくれていたのだ。目覚めを待ってくれていたのだ。鞭打ち、踏みにじり、深く傷つけたこの自分を。


『僕は』


 ぽつりと熱い雫が落ちた。掌に指を沿わせたまま、金茶の眼を潤ませて、嗚咽も慟哭もなく、シャイネは泣いていた。

 決意のままに、いらないと答えるのは易い。繕えぬ断絶、癒えぬ傷を負わせることは、そして同時にゼロも傷を負うことは、何よりも簡単だった。

 誇りや誓い、自尊心など、自らの罪を償うことに比べれば全く取るに足らぬもので、安っぽい自己満足と陶酔、独善に過ぎないからだ。


『僕は ゼロと』


 はたはたと涙だけを零しながら、なおも文字は綴られてゆく。


『ゼロが』


 今ならば、まだ戻れる。償う機会がある。

 何と答えても犯した過ちが消えることはない。生き恥を晒し続ける道を往くなら、この涙を拭ってやるべきだった。有り難うと伝えるべきだった。

 もとより、シャイネの気持ちをどうにかしようと思うことこそが傲慢だったのだ。


「いらないはずがない……シャイネ」


 涙に濡れる掌で痩せた右手を包んで、ゆっくりと答えた。


「どうか、あんたと共に在ることを許して欲しい」


 ゼロがシャイネを引き寄せたのか、シャイネがゼロの胸に飛び込んできたのか。

 腕の中のシャイネをきつくきつく抱きしめ、撫でさすり、細い体を温める。腕も胸も腹も全力で悲鳴をあげたが、今ばかりは痛みに屈するわけにはいかない。互いを夢に見た幸福が、痛みも歓喜もない交ぜに、嵐となって吹き荒れる。


「あー、死ぬほど痛え……」


 笑いの漣が傷を滅多打ちにしてゆく。振り返れば、選択のどれもが愚かで滑稽だった。体面を繕わず、助けてくれと縋れば良かった。彼女はきっと受け止めてくれただろう。

 身じろぎしたシャイネがゼロの額に、こめかみに、瞼に唇を寄せ、初めて自分が泣いていることを知った。涙を拭おうにも腕が上がらない。もう一回、と頬を指したところで押し戻された。わきまえろ、と声なき唇が動く。


「どうして。ちゃんとしたいって言ってたじゃないか」


 彼女は寝台の上に膝をつき、ゼロの頭を抱きかかえて耳元で囁いた。


「それは、夢の話」


 風が通り抜けるような、密やかな声で。

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