旅路の果て (2)

 北に向かう街道を、初夏の爽やかな風が撫でてゆく。深呼吸を誘う緑のにおいを胸いっぱいに吸い込んで、大きく伸びをした。精霊達がさんざめく。ディーとエニィも鼻歌を歌い出さんばかりに上機嫌だ。

 メリアを発ち、カヴェを経て、シャイネとゼロはリンドを目指していた。

 去年、シャイネはひとりで街道を南下してカヴェに向かった。何だってできる、何も怖くない、ひとりでよい、ひとりがよいと肩に力を込め、周囲を睨みつけながら旅をしていた。

 いま、同じ道をふたりで歩いている。

 メリアを発ったときは危なっかしかったゼロの歩みも、もうすっかり元通りだ。腰で揺れるエニィが誇らしげに嬉しげに鞘を鳴らす。それをたしなめる彼の左手には、新しい飾り紐があった。

 行き来する人馬が均した道をたどりながら、この数ヶ月間を懐かしく思い出す。

 冬の入日からメリアを発つまでは、夢のようにあやふやで曖昧で、めまぐるしかったのだ。



 ゼロの目覚めを待つ日々は、とても長かった。

 もっとも、ラシュレイとミナトのおかげで、メリアでの暮らしはとても楽しく、充実してもいた。

 シャイネはパン屋を手伝う傍ら、それまでと同じく日雇いの仕事に出かけ、子守や刺繍、編み物、繕い物、荷運びや小麦挽きをして滞在費とゼロの薬代を支払い、旅に出る資金を貯めた。

 ラシュレイとミナトは幼馴染みで、ずいぶん年長に思えたがシャイネと同い年だという。幼い頃に両親と死に別れてこのパン屋の先代に引き取られ、その後も大変な苦労をしてようやく結ばれた仲なのだそうだ。

 死の淵を覗いたことも一度や二度ではなく、だからぼろぼろのシャイネとゼロを見捨てることはできなかったとミナトは語った。彼女らも多くの人に助けられてきたがゆえに。

 シャイネとゼロがメリアにいることが知れると、あちこちから続々と人が押し寄せた。

 メリア神殿や神都神殿からの使者、母やヴァルツやソラリス、カヴェ神殿に戻るレイノルドとユーレカ、北で待ってるよと笑うキムとリアラとフェニクス、それから、連絡役として大活躍したらしいイーラ。

 熱湯を含んでいるかのように喉が爛れて痛み、声を出すことができなかったため、シャイネはミナトやラシュレイを交えて筆談を交わし、ようやく冬の大祭をめぐる一連のできごとを把握した。誰もがみな、団結して魔物と戦い、ひいては卵を使わせまいと全力を尽くしてくれたのだと、涙が止まらなかった。

 途切れず訪れる客人たちは誰もが優しく、傷ついたシャイネとゼロをいたわってくれた。あのレイノルドでさえも。


「アーレクスもきみも、生きていてくれてよかった」

『レイノルドさんも 生きててよかったです たぶんユーレカさんも そう思ってます』


 粗悪な紙に綴られたシャイネの文字を見て、彼はかすかに笑った。満足そうに。誰にともなく、そうだな、と呟く。

 続いてやって来たのはキムたちだったが、彼はゼロに会いたくない、ぶん殴りそうだから、と店には足を踏み入れなかった。そんなキムにぷりぷり怒るリアラが、あなたのお父さんに頼まれて南へ来たのよと教えてくれた。

 話を聞くに、地下牢で書かされた手紙が届くよりも早く旅立ったようだが、もしそんな手紙を受け取ったとしても私たちが騙されるわけないわ、と彼女は胸を張る。頼もしいし、うれしい。

 カヴェでレイノルドと出会い、シン・レスタール神殿と共同戦線を張る仲立ちをしたのも彼女らで、その際にナルナティアたちとも知り合ったなんて、つくづく世の中は狭い。


『ゼロが 目を覚ましたら 僕も 一度 戻ります』


 文字を綴り、少し考えて書き足した。


『もし ゼロと一緒でも けんかしないで』


 そう続けたのは、自身の願望ゆえかもしれない。それでも、キムは太陽のように笑って右手を挙げた。その分厚い手を音をたてて叩くと、自然と笑えた。

 人使いが荒いとぶうたれながらも足繁く通ってくれたのはイーラだ。ナルナティアやミルたちの状況を詳しく教えてくれたし、言伝を頼めたのも有り難い。皆がそれぞれの拠点に戻ると教えてくれた時は大慌てで近況を伝え、感謝を述べる手紙をしたためた。


「あー、うん。確かに預かったから」


 封筒を見たかれがなんとも言えない表情だったのは、字が汚いとかそういうことだろう。偽の手紙も酷かったが、大差ない。もうちょっと練習しよう、と心に決める。

 世の中は広いようで狭い。けれど、こんなにも多くの人に支えられ助けられて、いまシャイネはここにいる。それを思うと、偶然の複雑さに心細くなり、同時に人と人のつながりの密度に頼もしさを覚えるのだった。

 ヴァルツやイーラの訪問が間遠になると、いやでも先のことを考えざるを得なかった。

 昏々と眠るゼロは目覚めてのち、何を望むのだろう。神都でいとし子として暮らすのか、あるいは旅暮らしに戻るのか。そもそも、目を覚ますのか。彼をめぐる神殿からの申し出は、すべて先送りにするか、はねつけるしかなかった。

 喉以外の傷は居候して数日ですっかり癒えた。神都で奪われた雑嚢はナルナティアがきちんと保管してくれていたから、財布も手形もそのままで、滞在費の支払いに不安はなかった。ラシュレイは素直に銀貨を受け取った。薬代と宿泊費以上の心付けは頑なに受け取ろうとはしなかったが。

 魔物の消滅によって物流が回復し、農閑期であっても仕事に困ることはなく、ミナトが快く滞在を許してくれたので、心置きなくゼロを寝かせておけたのも有り難かった。彼が目覚めぬこと以外は、おおむね平穏な日々を過ごせた。

 しかしながら、春の足音が兆す頃になっても神都の動乱は収まっておらず、すっかり顔見知りになったメリア神殿の青服が、申し訳なさそうに様子伺いにやって来る。早く落ち着くといいねと曖昧に笑うくらいしかできないのが心苦しい。

 彼を見送り、寝台の傍でうとうとしていたシャイネは水に引きずり込まれるように夢に落ちた。ゼロと分かち合った、あの幸せな夢に。

 そして目覚めたゼロは旅を選んだ。葛藤も逡巡も飲み込んで、カヴェでレイノルドに会おうと、旅の続きをしようと手を差し伸べてくれた。

 否やがあろうはずもなく、シャイネは消耗品や装備を買い求め、彼は失った体力を取り戻すために身体を鍛え始めた。

 神都へは二通、手紙を書いた。

 片方はアズライト宛てで、すぐさま分厚い返信が届いた。シャイネへの感謝と親愛、アーレクスは体をいとうようにとくどくど繰り返し記されている。恋文かなと錯覚するほどだ。

 もう片方はアンリ宛てで、借りた金貨と飾り紐を二本包んでおいた。こちらに返信はなかった。

 ラシュレイとミナトに旅立ちを告げ、何度も何度も礼を述べ、久しぶりの旅装に身を包んでメリアの街を発ったのが花の季節に差しかかった頃。偶然にも、去年と同じ時期にカヴェを再訪することになった。

 神殿を訪ねると、待ち構えていたらしいレイノルドに手合わせを申し込まれ、ゼロは受けた。そして、傍で見ているのが恥ずかしくなるほどこてんぱんにのされた。

 ゼロが鈍っていたのは確かだが、レイノルドの気迫が明らかに勝っていたのだ。精霊封じの剣を鞘に収めた彼が空を仰いで息をつき、せいせいした、と呟いたのには、ユーレカと顔を見合わせて苦笑するしかなかったが。

 まったく歯が立たなかったにも関わらず、ゼロもにやにや笑っていて、それだけでふたりの過去はきっちりと整理がついたのだと察せられた。恐らくはユーレカにも。

 カヴェより北には行ったことがないと言うゼロの前に立ち、街道を進む。シャイネにとっては家路でもある、北への道を。


「親父さんには帰るって知らせたのか? ……いや、知らせなくても知ってるのかな」

「たぶん」


 母が伝えているだろうし、キムに手紙を託したし、カヴェからも手紙を出した。事前に知らせたからといってことさらに歓待されることもなかろうが、気遣いへの感謝と無沙汰を詫びたかったのだ。

 カヴェを発ってから、ゼロは妙にそわそわしている。


「緊張するなあ」


 何がだ。いまの季節なら雪もなく、冬が訪れる前にリンドまで戻れる。北国で過ごす不自由も苦労もないのに。


「おれ、何て挨拶すればいい? 親父さんに」

「はあ?」


 語尾が跳ねる。子どもじゃあるまいし、どうして挨拶の文句まで一緒になって考えてやらねばならないのだ。睨むと、睨み返された。


「あんたさ、全然わかってないだろ。うん、そうだよなあ、そうに決まってる」


 一人で頷いているゼロを放って、足を速めた。太陽は西の空で大きくぽってりと輝いている。陽が沈む前に宿場町に着くはずだったのに、無駄口を叩いていたせいで、ずいぶん遅れていた。

 夕暮れどきになると、大祭の日を思い出す。半魔と対峙したあの時間を。

 クロアが苦渋の表情で魔物を召んでも、シャイネはあえて魔物に背を向けた。後ろにはゼロがいて、きっと鳥型を止めてくれると確信していたからだ。

 恐怖はなかった。彼への信頼が恐怖に勝った。

 シャイネが食べられる味付けのスープや焼き菓子を差し入れてくれて、アンリから預かった卵をすり替え、ディーをずっと保管してくれていたゼロ。

 どれだけ傷つけられても、言葉が無表情に阻まれても、いつも彼はシャイネを助けてくれた。守ってくれた。

 そして彼は、背中を預けるという無言の信頼に応えてくれた。それが当然であると言わんばかりに、体を、命を投げ出して。

 心細さを紛らわせるために彼の名を唱えた、その灯火はまっすぐこの身に返ってきた。強く、剛く。

 ノールに着いたら、ゼロを父に何と紹介しようか。旅の連れ、ではあまりにそっけないし、女神の子、ク・メルドルの騎士だった人、薬草に詳しい人、演技の得意な人、どれも十分ではない。どれだけ言葉を連ねても、持てる語彙すべてを重ねても、ゼロを表現するには足りない。

 一緒に旅をして、笑いあって、食事をして、眠って、夢を分かち合って。

 互いの背を守り、庇い、補って。

 並んで歩いて、くだらないことで喧嘩して、意地を張って、けれど結局は手を取りあって。

 いつまでも、そんなふうにありたい。

 太陽が昇って沈むさまを、月が満ち欠けする様子を、季節がうつろいゆく儚さを。花が咲き乱れ、鳥がたおやかに舞い、魚が水面を揺らし、虫が大地を耕し、獣が野を駆ける、絶えず続くあらゆる営みを、いつまでもふたりで見ていたい。

 女神が創り、精霊が彩ったこの世界をシャイネとゼロが生きる。このとんでもない偶然を想う。これが奇跡でなくてなんだ。

 右を選ぶこと、左を選ぶこと。肯定すること、否定すること。小さな選択が積み重なって、いまの自分たちをかたち作っている。シャイネが歩んできた道、ゼロが進んできた道、そのどの一部分が違っても、いま、このときは存在し得ない。

 無限の可能性のうちの、たったひとつ。

 その瞬間、ゼロが緊張している理由が雷のように閃き、そういうことだったのかと赤面する。そんなつもりじゃなかったのに。きれいな夕焼けでよかった。これは恥ずかしい。


「町が見えた」


 ゼロが指差す先に、宿場町があった。黒く沈む町の影に、星のようにあたたかく窓灯りがきらめき、旅人たちを誘っていた。


「行こう、ゼロ」


 シャイネとゼロは並んで、夕焼けに染まる街道を駆ける。




《完》

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インフィニティ 凪野基 @bgkaisei

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