夢の汀で
夢の汀で (1)
シャイネを棺の間へ送り出した後、アズライトは何食わぬ顔で自室に戻り、気を落ち着かせるために茶を淹れた。
卵をすり替えて、それからどうするのか。女神の遺産に頼らず、魔物に確実に勝利する手段を講じなければならない。卵を使わせなかったとしても、青服や義勇兵たちに大きな犠牲を強いるのではだめだ、単なる自己満足に終わってしまう。
それに、このまま冬の入日を迎えたところで、大祭と魔物討伐に先んじてシャイネと引き離されるのは明らかだ。だとすれば、早いうちに彼女の所在をうやむやにしておいた方がいいかもしれない。
筋書きを複雑にすれば必ずぼろが出るから、何を訊かれても突っぱねられるように単純なのが良かろう。たとえば、油断した隙に逃げられた、とかだ。シャイネを悪者に仕立てることには抵抗があるが、すべては魔物に勝利するためだ。きっとわかってくれる。
シャイネの帰りを待っても良いが、行動は早いに越したことはない。ここに戻れないとなれば彼女はアンリを頼るだろう。話を通しておきたかったが、会議のせいで捕まらなかった。
ふうむ、としばし悩んだものの、一度思いついたことを保留するのは苦手だ。アズライトは歯を食いしばって机の角に手足を打ちつけ、あざをこしらえた。さらには逃走経路に見せかけるため、廊下の窓を開けておく。
残るは、自分だけ。
シャイネも頑張っているのだ。少しの怪我が何だ、と繰り返し自らに言い聞かせ、大きく息を吸って目を瞑り、ひと思いに階段から身を躍らせた。
「いった……! いたーい!」
悲鳴は途中から演技ではなくなった。打ち所が悪かったか、折れたか。それでも構わないが、旅人や狩人、青服たちはこんな怪我と隣り合った生活をしているのか。痛くないのか。ぼく、怪我をしたシャイネの手を思いきり叩いちゃったぞ?
物音を聞きつけた神官が顔を覗かせ、半べそをかいているアズライトを見て文字通り飛び上がった。
「痛いんだってば! ちょっと肩貸して! はやく!」
「なんだ、何があった」
ぎゃあぎゃあ喚いていると、血まみれのアーレクスがやって来た。不機嫌ですと顔に書いてある。鼻が曲がりそうな悪臭を放っていることからして、魔物討伐から戻ってきたばかりらしい。
違う、お前じゃない! 大声は何とか飲み込んだが、負ぶわれて医務室に運ばれるのを拒否するわけにはいかなかった。
診断は、足の指の骨折、それと打ち身がいくつか。頭も打っていないし、命に別状はない。手ぬるかったかな、と反省するが、これ以上のことはできそうになかった。
「半精霊にやられたんだ。階段から突き飛ばされて……」
神官や青服は口々にシャイネを罵り、憤慨したが、アーレクスだけはいつもの無表情を崩さずに、そうかと低く呟いただけだった。
結託を知られまいとしての演技なのに、彼はすべてお見通しなのではとうすら寒い。あの子が手を上げるはずがないと確信しているのではないか。静けさが不安を煽る。
夜になってもシャイネは戻らず、アズライトは見舞客をあしらい、眠れぬ夜を過ごした。朝早くにアンリがやって来て「あいつは街に逃げた」と教えてくれなければ、我慢の限界を迎えて暴れていたかも知れない。
「アンバーに見つかって、すり替えには失敗したみたいだ。偽物は僕が預かってる」
良い状況とは言い難いが、このまま街を出て姿を消すほど、シャイネは無責任でも臆病でもない。アーレクスを取り戻すと息巻いていたではないか。街に逃れたなら、きっと外から援護してくれるはず。偽物も父に見つかっていないことだし、これでよしとせねば。
深呼吸し、落ち着いて周囲を見回してみると、呪卵を頼みに驕り高ぶり、勝利を信じて疑わない父とは対照的に、アーレクスは表情が薄く、必死さが窺えた。悲愴なまでに追い詰められ、決断を迫られているように見える。
つまり彼は卵に頼らず、魔物に勝利せんと準備を進めているのだ。その可能性がいかに小さくとも。
強張った黒い背中は、実父アンバーやその取り巻きたちよりもずっと信頼に足るものだった。精霊使いの力を授かったアーレクスが、半精霊であり、旅の連れでもあったシャイネを傷つけられるはずがない。
けれども、彼が魔物討伐隊の総指揮官に名乗りを上げ、足しげく訓練場に通っていると知った時には、さすがに頭の作りを疑った。
呪卵を使わず魔物に勝利するために、半精霊たちを殺させないために囮になるなんて、馬鹿だ。あんたが死んじゃったら終わりなんだよと言ってやりたかったが、その程度で翻る決意ではないこともひしひしと感じる。殴ってでも目を覚まさせる、とシャイネが言った気持ちがよくわかる。自分の細腕ではそれも叶うまいが。
青服たちはそんなアーレクスを慕い、敬い、毎日訓練に励んでいるようだった。素人目にもだらけがちだった以前の青服とは違う。力を入れるべきところ、緩めるところのめりはりがついたと言うべきか。なんと言っても、連中の表情に余裕が出た。
きっと、神都は少しずつ良い方向へ動いている。その舵取りをするのは女神の子たる自分たちなのだと、アズライトは気を引き締めた。
付き合いはたった数ヶ月きりだが、アーレクスは周りの大人たちよりもずっと世間を知っていたし、行動力も決断力もあった。何より、公平だった。彼はアズライトをひとりの人間として扱ってくれた。「アンバーの息子」ではなく。
――だから、魔物討伐が始まり、戦況が膠着し、十分に勿体をつけた父の合図で運ばれてきた卵を見て、アズライトは心の底から笑うことができた。
シャイネと共謀して手に入れようとしたものの、わずかに届かなかった卵。父がアーレクスに保管を依頼したはずの切り札は。
「な、ど、どういうことだ!」
父が手にしたそれらは、ただの石だった。
「まさかっ」
父が戦場と卵、そしてアズライトを見比べた。青ざめた顔からは余裕と自信が抜け落ち、色違いの眼は血走っている。唇をわななかせたが、そこから意味のある言葉が放たれることはなかった。神都の王アンバー・メイヒェムが言葉を失い、狼狽えている。
きっと父には受け入れられないだろう、頼りきっていた卵が偽物であったなど。アーレクスに裏切られたなど。
「父上」
つとめて静かに、一語一語をはっきり区切った。冬の入日だからこその、満ちあふれる万能感に流されぬよう声を低めて。
「ぼくの勝ちです。ぼくは今日から、神都の王になる」
以前の父なら、卵をそばに置いただけで偽物だと見破ることができたはずだ。いま、アズライトがそう感じているように。
手にしてみるまで卵の真贋にすら気づかぬ父。女神の力は確かにこの身に移っている。女神の力の有無で言えば、父などもはや取るに足らぬ存在だ。
しかし、女神の力と神都の政治力は別だ。父には長い年月をかけて築いた権力の地盤が存在するが、こちらは身ひとつ。戦況は依然として厳しい。
「おまえ、まさか」
高みから睨み下ろす厳しい光を、肩をすくめて受け流した。
「ぼくじゃないですよ、すり替えたのは。そうしてやろうとは思ったけれど、失敗した」
血筋と立場、恵まれた容姿を最大限に利用して、父は神都の王になった。眼下にある「世界」が閉ざされたちっぽけなものであると知っているのは、一握りの者だけだ。
そのわずかな者にとって、父がどれほど滑稽に映るか、想像したことがあるだろうか。世界がどれほど広く多彩なものであるか、この人は知らない。
魔物を恐れ、神都に閉じ籠もり、安全な場所に据えられた玉座から見える範囲を世界と呼び、その範疇に収まらぬものを異端と断じる。これが果たして王たる者の姿か。
自分の考えが正しいのか、父こそが正しいのか、両者ともに間違っているのか。それを確かめたい。確かめて、できるならば変化を、成長を遂げたい。
父の為したことに対する違和感こそが、いわゆる若気の至りなのかもしれない。それでもシャイネは応えてくれた。彼女もまた、変化を期待しているに違いなかった。精霊も傷つき、病む。人と同じだ。虐げて良いはずがない。
アーレクスは立ち上がってくれた。外の世界を知る彼が、神都の淀みを白日の下にさらけ出した。
カヴェ神殿のレイノルドは道を示してくれた。
つまらない男だとばかり思っていたアンリさえ、自ら考え、行動するようになった。
みな、柔軟に歩んでいる。変化を恐れずに前進し、戦っている。
では、父は。栄華と安寧と怠惰に慣れきった神都二家の者たちは。その差は歴然としている。
卵を使わずに魔物に勝利することはあくまで通過点でしかない。目指すはもっと先だ。この自分にさえ青いと思える理想だ。だとしても、理想なくしては、希望なくしては、人は進めぬものだ。道標としての光を掲げたい。
「……アーレクスか」
歯軋りせんばかりの表情で呻いたのは、アスタナ・ウォレンハイドだった。
「どこにも証拠はないけどさ。演技派だからね、あいつ」
こらえきれず、口元が緩む。それが気に障ったらしいアスタナは床を蹴って抜剣した。同時に、控えていたアンリがぎこちなく腕を伸ばす。
長剣と、凹凸を刻んだ剣の背がっきと噛み合う。腰を据えたアンリが腕を捻ると、高く澄んだ音をたてて剣が折れた。
「お前!」
アスタナの声は地を擦るほどに低い。無能な末っ子と見下していたアンリが腕を上げていたことに驚いたのだろう。
「アーレクスにもレイノルドにも、まだ遠く及ばない」
静かに答えた彼の右手は包帯に覆われている。いつから。何のために。尋ねるのは無粋か。
「捕らえろ! 反逆だ!」
父とアスタナが目をぎらつかせて声を張り上げるも、動揺は収まらない。青服も神官も互いの様子を窺いつつ、気まずげにするばかりだった。
不意に櫓が揺れ、誰もが身を強張らせた。眩暈にも似た浮遊感は、地揺れではない。南に目を遣れば、変化はとうに戦場の隅々にまで広がっていた。
「アーレクス!」
彼がついに女神の力に目覚めたのだ。アズライトにはわかる。片割れたる彼が充実してゆくのが。創世の力の一端を手にしたのが。
精霊を使う力は神都の街中では発揮できない。そして、女神の子の安全は神都でのみ保証される。だからこそ女神教は精霊を異端と断じることができたのだ。人々が頭を垂れるいとし子こそが精霊を使うと知られれば、教団の権威も信用も失墜する。たとえそれが、あるべき姿だとしても。
アズライトに宿る神の力が呼応し、喜びさざめく。半身の目覚めを寿ぎ、祝う激情が知らぬ間に具現化しかけて、慌てて気持ちを引き締める。今日は冬の入日、女神の力が最も強まる日。並ならぬ集中力を要する具現化の力も、いまばかりは容易い。なればアーレクスも女神の力の使い方を知り得たのかもしれなかった。
「アスタナ、止めろ! 精霊を使わせるな!」
「しかし……!」
天幕は混乱と動揺をきわめ、誰もが見苦しく右往左往している。警護の青服たちも、かつてない事態に浮ついていた。
ここにいる意味はないと見切りをつけ、アズライトは櫓を降り、裏門を出た。アンリが渋々といった様子でついてくる。
「アンリ」
「何だ」
「本物の卵はどこにある? 誰が持ってるんだ?」
返答はない。彼の眉間には深い皺が刻まれている。
「まあ、いいさ。アーレクスとあんたは違う。持って生まれた力も、適性も。だから」
言いかけたそのとき、戦場が光に包まれた。赤に、黄に、青に、緑に。太陽が生まれたのではないかとさえ思える、烈しい光だった。しかし熱くも痛くもない。不思議と懐かしい光の正体は、アズライトには自明のことだ。
「アーレクスだ。アーレクスが精霊を
「あいつが」
アンリの声は震えている。怖いのか、あるいは、見たこともない光景に困惑しているのか。彼は抜き身の剣を下げたまま、半歩前に出た。庇ってくれている、のだろう。たぶん。
「腰が引けてるけど」
「うるさい!」
レイノルドの言いつけだ、と吐き捨てる。腕で目を庇い、何の害意もない光の明滅を見つめた。
その薄い背中の向こうに、ひときわまばゆく輝く部分があることに気がついた。シャイネのものと同じ双つの金茶は、真っ白に弾け飛ぶ閃光の中にあってなお、爛々と輝いている。
王だ、と一目でわかった。
やがて、金茶のまなざしが笑みの形に和らいだ。一呼吸の間をおいて、目を開けていられないほどに光が強まる。魔物に対する恐怖より、光に対する信頼が勝った。
アズライトは目を閉じて、ただ、唱える。
――ぼくたちに、勝利を。ともに、勝利を。
光が消え、戦場のざわめきが戻ってきた頃には、すっかり陽は沈み、夜の青みが空を塗りこめていた。
冬枯れの野には兵たちがぼんやりと立ち尽くすばかりで、魔物の姿はどこにもない。屍も黒い血も跡形もなく消えてしまったのだ。
青服たちが神都に戻れと身振りで示しているのが、ひどく場違いに思えた。
勝ったのか。夢ではなくて?
「アンリ。さっきの続きだけど。忙しくなるから、覚悟しておけってことを言いたかったんだ」
「何をさせる気だ」
苦い熱さましを口に含んだ声で、アンリが呻く。精一杯の笑みを浮かべてみせた。
「今までのらくら生きてきたつけを払わせてあげようってこと。大丈夫、死なない程度にこき使うから。死なれちゃ困るんだよね、ぼく、味方がいないからさあ」
「殴っていいか」
「いいわけないだろ」
アンバーとアズライトを取り巻く青服や神官たちは、声をかけづらそうに口を開け閉めしている。櫓の上では、父とアスタナが放心したまま、戦場を見つめていた。
だめだな、とひとつ息をついて、注目を集めるために大きく腕を振った。こちらを向いた目はどれも頼りなく揺れている。
「もう日暮れだ。暗くなる前に兵を戻せ。怪我人を優先するように。それから、カヴェ神殿と、シン・レスタール神殿に使いを。我らの勝利だ、協力を感謝するとな」
「それが、その」
若い青服が口ごもる。いくつもの傷を負って肩を弾ませており、腕章を見るに戦場から大急ぎで駆け戻ってきた伝令役のようだった。
「アーレクス様がお怪我を……」
「何だと!」
アズライトを押しのけて青服に掴みかかったのはアンリだ。怒っているようにも、泣き出しそうにも見える。
「あいつはどこにいるんだ! 怪我の具合は? 早く医者を呼べ、あいつは……」
喚くアンリを制し、アズライトは戦場を見やった。
見渡す限り、魔物の姿はない。空を飛ぶ魔物も、地を駆ける魔物も、みな精霊たちが制圧したようだった。兵たちがぽつぽつと裏門目指して移動を始めている。
アーレクスに何かあったなら、半身である自分にはきっとわかる。何も感じないからには無事でいるはず。大丈夫、シャイネがついていることだし。
「怪我人はアーレクスだけじゃない、負傷者を優先して運べ。治療の体制は? 薬や人手は足りているか」
問われて、衛生班を統括する壮年の青服が慌てて頷き、駆け足で去って行った。伝令の顔色はなお悪いままだ。
「そ、それが、その、傭兵の少年と消えてしまって……あの、本当に、目の前で突然消えたんです」
「消えた?」
どうして。どうやって。精霊の力か。それとも女神の? 考えても答えは出ない。
動揺を見せてはならない。指示されることに慣れた者たちが不測の事態に狼狽し、的確な命令に飢えている。指示さえ与えてやれば、彼らもまた安心するのだ。父が自失している今、この場をまとめあげることは後々の下地にもなるだろう。素早く計算し、つとめて声を張り上げた。
「今日は退け! 戦況の確認は明朝、夜明けと同時に行う!」
いささか大仰に身を翻すと、遠くからこちらを睨んでいた父と目が合った。その内心を思いやれるほど、アズライトは父を知らない。ただ、あの人とは政敵どうしだということだけは理解できた。戦いの第二幕はこれからだ。
先に視線を逸らしたのは向こうだった。ほっと息をつきつつ、アーレクスを案じる。どこにいるのだろう? 怪我は? 女神の力は?
しかし、使者をたてるまでもなく彼の居場所は知れた。神殿に戻って間もなく、カヴェ隊から急使がやってきて、炎のごとき紅に輝く眼を持つ半精霊が言ったのだ。
「探しているふたりは、メリアにいるわよ。一応無事みたい」
メリアに? どうやって移動した? 一応とは? 尋ねたい衝動をこらえる。無事がわかればよい。今、自分がせねばならないことは他にたくさんある。生きているなら、向こうから連絡を寄越すだろう……きっと。
「そうか。わかった。ありがとう」
小柄な半精霊はどぎまぎするほどの美少女だった。戦いの余波か、前髪が焦げて縮れ、頬は煤けている。旅装もくたびれていたが、決して彼女の美貌を損なうものではない。
彼女はこちらを見上げて首を傾げた。前触れもなく両手を握られて、赤面する。
「シャイネがあなたを信用したこと、何となくわかるわ」
呟いて、そのまま挨拶もせずに去ってゆく。非礼を咎める者はなかった。誰もが口を開いて、少女の背を見つめている。
両手にほのかに残る温もりを逃がすまいと、アズライトは固く拳を握った。
(ぼくが、シャイネたちを守る。シャイネたちがぼくを守ってくれたように)
それが、あるべき姿。女神が創りたもうた世界だ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます