冬の大祭 (6)
しかし彼女は倒れなかった。倒れる直前に踏みとどまり、忽然と姿を消したのだ。
「えっ?」
人間ならば致命傷だ。ディーは半ばまで血に濡れており、剣を握るシャイネの手もまた、返り血で汚れていた。
どこへ消えたのか。考えたのと答えが閃いたのはほとんど同時だった。即座に地を蹴る。
風を招く。枯れ草を吹き飛ばしながら、シャイネはゼロのもとへ跳んだ。
両手で構えた大剣を、目にも止まらぬ速さで振り回すイルージャ相手に、ゼロは一歩も譲らず、焦りも見せていなかった。無数の傷を負いながらも猛攻を食い止め、間を計った的確な斬撃を放って手傷を負わせている。わずかにゼロが有利か。
地に落ちる影にイルージャの気が逸れ、エニィが半魔の腹を割った。木を切り倒すかのような、体重を乗せた大振りにイルージャが絶叫する。
「イルージャ!」
叫んだのはクロアだ。虚空から現れ、手負いのイルージャを抱えて後退する。
逃がすつもりはなかった。膝を曲げて着地した勢いのまま、刺突剣を構えて突進する。喉がぜえぜえ鳴って、目の前が暗い。それでも止まるわけにはいかない。クロアが顔を歪めて左手を振った。背後に巨大な魔物の気配がうまれる。
しかしシャイネは走り続けた。後ろにはゼロがいる。彼が魔物を止めてくれる、必ず。だから、僕は前だけを見ていればいい。
その確信が力になった。背中合わせの信頼は目に見えずとも、確かにここに存在した。約束する言葉はなくとも、彼を信じられた。
エニィ、と囁くだけで、かれは敏感に察した。影を縛って半魔の動きを封じる。疲労で痛む右腕を振り抜き、ディーの力も借りてイルージャの剣を弾き飛ばした。
「本当に、強くなったね」
「運がよければ、お前たちの勝利だ」
悔しそうに、しかし曇りのない眼で、クロアとイルージャは互いを支えながら姿を消した。あちら側に逃げたのだ。
逃した無念より、ふたりの残した言葉が気がかりだった。運が良ければ、とはどういう意味だ。
血の味がこびりつく喉に冷たい空気が沁みる。胸が張り裂けそうだ。肩で呼吸しながら振り返ったシャイネは、ゼロが自らの腹を喰い破った鳥型の首筋にエニィを突き立てるのを見た。
苦しげに喘いだ口から、真っ赤な血がこぼれるのを見た。
「ゼロ!」
叫んだ声は別人のもののようだった。嗄れてひび割れ、石をこすり合わせたのにも似たひどい声は、どこにも届かない。
「ゼロ、ゼロっ! しっかりして!」
膝をついたまま、彼は動かなかった。黒い制服のせいで出血は目立たないが、顔色は紙よりも白く、眼は虚ろで何も映していない。身体を折ってもう一度血を吐き、おもむろにシャイネを見上げる。
「シャイネ」
「喋らないで! いま、誰か呼ぶから……」
「まだ終わってない。怯むな、行け。魔物を倒せ」
微笑さえ浮かべ、魔物を指差してゼロは言った。久しぶりに聴いた声に、わけもなく背筋が震える。ぞくぞくと、血が沸き立つ興奮と紛れもない悦びに、頬が紅潮するのがわかった。鼓動が早まり、身体じゅうに力が漲る。喉の痛みさえ和らぐようだった。
どきどきする。そわそわする。
シャイネと同じく、ディーとエニィが、周囲の精霊たちが、割れんばかりの歓呼の声を上げている。怯むな、行けと鼓舞するゼロの言葉に、空気を震わせ、大地を揺るがして精霊たちが応えた。
精霊を使役している。女神の子たるゼロ、アーレクス・ウォレンハイドが。
「勝つのはおれたちだ。行け、シャイネ」
低い声に揺さぶられる。それは、紛れもない愉悦だった。気のせいなどではなく身体が震える。
すり切れた喉から高く長い音がこぼれ、頭の中が真っ白に弾けた。無数の精霊たちが辺りを飛び交い、魔物を切り裂き、焼き焦がし、打ち砕く。
ゼロを抱く両腕に力をこめ、シャイネはひたすらに叫び、歌った。苦しみも痛みもなく、まどろみに似た心地よさの中で、魔物の数が減ってゆくのが手に取るようにわかる。どうして、と問うことすら億劫で、ゼロの命に応えられることが唯一の悦びとして全身を支配する。
もっと、もっと、僕を使って。
あなたのためなら、壊れたっていい。
それはきっと、歓喜や恍惚、陶酔と呼べるものだった。強く腕を掴まれて我に返る。そこまでだ、とヴァルツが険しい顔で首を横に振っていた。
ぼんやりと漂っていた意識が焦点を結ぶや、がらんとした荒野や傷ついたゼロ、呆然と立ち尽くしている傭兵と青服たちの姿が目に入った。魔物の姿はどこにもない。
「よくやった、シャイネ」
ゼロは満足げに唇を吊り上げ、そして表情を支える糸を全て抜き取られてしまったかのように、瞼を閉じた。
「……ゼロ」
呟きは風の音よりも小さい。
「ゼロ」
声が出ない。吐息よりもあえかな、求める声。
「ゼロ!」
胸も喉も、裂けてしまったっていい。彼に声が届くなら。
望みが叶えられることはなく、シャイネを支えてきた大切な名は、冬枯れの葉ずれの音に紛れて消えた。
どれほどその場にうずくまっていただろう。
治療をせねば、とぐったりしたゼロを背負って立ち上がるが、目の前に広がるのは神都の荒野ではなく、どこかの町の裏通りだった。
見覚えのない光景に混乱する。ヴァルツも、半精霊たちもいない。青服も傭兵たちもアズライトも。ここはどこだ?
いや、どこだっていい、ゼロの治療を頼めるなら。
通りを曲がった先には小さなパン屋があり、小麦の焼ける香りが漂っていた。その隣は惣菜屋、逆側の隣は豆や穀類の問屋。遠くの丘には風車が並んでいる。初めて見る場所だ。
ここがどこであるか、どうやってここに来たかと思索に耽る余裕はなかった。早くしなければ、ゼロが、ゼロが。
ちりん、と鈴が鳴ってパン屋の扉が開き、シャイネと同じ年頃の娘が現れた。前掛けをして髪を包んでおり、どうやら紙袋を抱えて杖をついた老婆のために扉を支えているらしかった。
老婆を見送った娘と、まっすぐに視線が絡む。
「……あ」
娘が焦げ茶の目をいっぱいに見開いた。すぐさま店内へ何かを叫び、こちらにやって来る。
彼女に取り乱した様子はなかった。両腕を開いて、丸腰であることを示して見せたほどだ。
「ひどい怪我ね。どうしたの? 何があったの? 喧嘩……じゃなさそうね」
何をどう説明していいのかわからず、無為に口を開け閉めする。その間にもゼロの体温が、血液が、いのちが失われてゆくのだと思うと、こらえようもなく涙が落ちた。
「ゼロをたすけて」
吐息と大差ない掠れ声を、彼女が理解したのかどうか。娘はシャイネの手を取った。
「大丈夫よ、いまお医者さまを呼んでもらったから。寝台に運びましょう。そっとね、気をつけて」
頷き、二人でゼロを支えて進む。涙が止まらず、しゃくりあげる。そのたびに喉が燃え上がるように痛んで噎せた。
前掛け姿の青年が店から飛び出してきてゼロの腕を取ると、肩にかかる重みはずいぶん減った。娘がシャイネの肩を抱く。濃厚な魔物の血の臭いが、しあわせなパンの香りをかき消してゆく。何もかもが悲しく、受け入れがたく、涙が止まらない。
「きみもしっかりして」
青年の逞しい腕がシャイネに代わり、ゼロを担ぎ上げる。真冬の風が、温かく濡れた半身を撫でていった。
ゼロが、離れてしまう。
いなくなってしまう。死んでしまう。
「いやだあぁ!」
シャイネは絶叫した。
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