脱出 (5)

 ひどい格好のシャイネを見ても、レイノルドは少しも驚かなかったし、何も尋ねなかった。

 ナルナティアから連絡があったのか。もしかしてすべてお見通しなのか。春に出会ったときとは違った怖さがある。彼のことを多少なりとも知ったからこその凄みに恐怖を覚えた。

 案内されたのは入り組んだ路地を抜けた先、集合住宅の一室だった。勧められるままにシャイネは湯で顔を洗って身体を拭い、傷の処置をした。

 借りた服の袖を折ると、ひどく惨めな気分になった。神都を出るのではないのか。ここで何をしているのか。なぜ、レイノルドについてきてしまったのか。

 カヴェでの経験と彼の立場を考えれば、ついてくるべきではなかった。気を許してはならない相手なのに、知った顔につい警戒を緩めてしまった。人恋しかったのだ。


「……二度目だな」


 やはり、思うことは同じらしい。進歩のなさを責められているようで、返事ができなかった。


「ああ、怒っているわけではないんだ。アーレクスと同じで、私も精霊と深く関わる運命なんだろうなと思っただけで」


 レイノルドは口調を和らげたが、ゼロを語る遠い口ぶりには、何もかも知っているのだと、シャイネを慰める響きがあった。


「あの……今日は、何月何日ですか」

「十一月二十五日」


 顔が歪んだ。神都を訪れてから二ヶ月以上が過ぎていることになる。


「お客様扱いではなかったようだな。アーレクスは?」

「神殿の……地下牢と、東側の塔に閉じ込められて……ゼロとは別行動中です。本当に何でもお見通しなんですね。僕が閉じ込められていたって、すぐにわかるんだもの」

「お見通しも何も、あんなひどい格好で、日付がわからないとなれば、捕まっていたと考えるのが自然だろう。大丈夫か」


 軽く嫌味を言ったつもりだったのに、正論が返ってきた。頬が熱くなる。


「別行動って、アーレクスがきみを閉じ込めたんだろう。妹が罵詈雑言を束にして送りつけてきたぞ」

「きっと何か理由があるんです」

「そうだろうな」


 突っぱねたつもりが軽くあしらわれ、また呼吸を掴みそこねる。淡く表情を浮かべただけの真摯なまなざしがなければ、遊ばれていると怒ったに違いない。


「あの」


 顔を上げたシャイネを、レイノルドは片手で制した。およそ食べ物が載ったことのないだろう卓に鍵を置く。


「私は出るが……ここは好きに使ってくれていい。寝台も、水場も、火も。ただ、まずは風呂に行ってくれ」

「……ですよね」


 シャイネは俯いて身体を縮めた。身体を拭ったとはいえ、洗ったわけではない。染みついた臭いは落ちず、自分でも我慢ならないのに、小さな卓を挟んだだけの距離で彼が平然としていられるのが不思議だった。急ごしらえの服はとうに火にくべられている。


「とはいえ、風呂を使えるほどの持ち合わせがあるようにも見えない。それで、提案なんだが」


 提案、とは言うが、断れないものだろう。要するに、うまく使われているのだ。カヴェでの仕打ちを忘れたわけではない。慎重になりすぎるということがあるだろうか。


「何でしょう」


 一瞬だけぶつかった視線が、すぐに躱される。


「きみの持つ情報を買ってやろう。きみは得た金で、風呂に行くなり服を買うなり、好きにするといい」

「でも、そんな価値のある情報なんて」

 彼は再び、ぞんざいに右手を挙げた。黙るしかない。

「あいつは、アーレクスは記憶を取り戻して、女神に連なることも自覚した。いとし子として起つつもりなんだな、アンバーと共に?」


 疑問の形を取ってはいたが、確信に近いレイノルドの言葉を、たぶん、と肯定する。すぐさま銀貨が目の前に置かれた。


「まずは風呂だ。夕方に戻るから、それまでに身支度を調えておくんだな」

「僕が逃げ出したら?」


 ふん、と彼は面白くなさそうに鼻を鳴らした。

「銀貨一枚では満足な買い物はできまい。それにきみは逃げない。逃げられない。私からもっと情報を得たいだろうし、いま逃げ出すのを良しとしない性格だろう、きみは?」


 シャイネは諦めをため息に乗せて頷き、銀貨と合い鍵を受け取った。



 浴場で石鹸と手拭いを買い求め、二ヶ月間の汚れをこそげ落とした。汚れを落とすまでは湯に浸かることもできない。泡は見る間に消え、石鹸がちびてゆく。

 浴場にいた女たちは薄汚れて生傷だらけのシャイネを見て目を丸くしたが、事情を詮索する者はなかった。関わり合いになるのを恐れたのかもしれない。お陰で心ゆくまで全身を洗い清めることができた。

 剥がれた爪に湯が盛大に染みて、エージェルの蒸し風呂を懐かしく思った。熱した石を運び込み、水をかけて蒸気で体を温めるのだ。少しの水で済むし、石は再利用できる。豊かな森林資源を有する北方の家庭は蒸気風呂のための小屋を持っていることが多い。シャイネが勤めていた牡鹿の角亭は湯屋を備えていたが、乞われれば蒸気風呂にも案内した。

 大衆浴場を出て屋台で腹を満たし、古着を買い揃えて隠れ家に戻る。長風呂のせいか重い疲労を感じ、寝台に横たわった。寝台も使われた形跡がなく、レイノルドはここで何をしているのかとお節介が頭をもたげる。余裕が出てきた証しだった。

 やはりと言うべきか、神都の町中を歩いていても、巡回の青服とすれ違っても、シャイネが半精霊であるとは誰も気づかなかった。他の街と何も変わらない。

 住人たちが魔物に怯え、神殿に縋るのは珍しくない光景だが、アンバーさま、アーレクスさま、と人々が心強く彼らの名を唱えるのだけが見慣れぬ光景だった。

 ゼロに宿った女神の力とは、それほどまでに強大なものなのか。呪卵の力で魔物を一掃し、神都を守るのではないのか。

 うとうとしながらとりとめのないことを考えていると、レイノルドが戻ってきた。

 窓の外はすでに暗い。しゃんとせねばと思うのに、骨が溶けてしまったかのように体が重かった。

 彼は紙袋をいくつか抱えて、寝台のそばまでやってきた。その姿が制服を着たゼロと二重写しになり、悲劇的な気分になる。


「夜中に出る。それまで寝ておくといい」

「夜中?」


 出る、と言われてもぴんと来なかった。


「アーレクスに会う」


 紙袋から取り出した林檎の皮を器用に剥きつつ、レイノルドは曇り空の眼をさらに陰らせて唇の端を歪めた。笑みにしては、あまりに自嘲の色が濃い。


「私はあの卵が欲しい。アーレクスは卵を持っている。私の手元にはきみがいる」

「僕と呪卵を交換するってことですか? ゼロが応じるとは思えません」


 ナイフの動きが止まった。彼の視線の先に何があるのか、シャイネにはまだ見えない。


「応じるさ、あいつは馬鹿だから」


 馬鹿、と罵るわりに、口調は優しかった。慈愛とも呼べそうな親しみと憐れみに、反論の言葉を奪われる。義理とはいえ弟であるゼロに対し、彼が抱く思いの複雑さは、シャイネの想像の及ぶところではない。

 彼は単にゼロを憎んでいるのではない。彼を高く買っているからこそ、義弟として認めているからこそ、求めるものもまた大きいのだ。その要求に応えられなかった義弟に失望し、怒りを覚えている。悪者にできるのがゼロだけだからだ。つまり八つ当たりだ。

 林檎は香りこそ良かったものの、酸味が強かった。酸っぱいものを食べると元気になる、と黙々と平らげる。


「レイノルドさんはあの卵で何をするつもりなんですか? 滅びを防げなかったゼロが悪いって思ってるんですか。呪卵をめぐって争うことに意味はあるんですか」


 気の利いたことの一つでも言いたいのに、言葉は装飾のない矢さながら、愚直に飛ぶ。


「質問は認めない」


 ぴしゃりと遮られて身をすくませる。萎えていた警戒心を奮い立たせるが、だるい身体と重い頭がそれを阻んだ。

 カヴェの時と同じく、レイノルドは善意で救いの手を差し伸べてくれたのではなく、目的を達成するための駒を拾い上げたにすぎない。呪卵を得るための餌として、ゼロの前にちらつかせるだけ。餌が知恵をつける必要はない。そういうことなのだろう。


「半時間前に起こしてください」


 返答はなかったが、上掛けを頭までかぶって丸くなる。

 眠いのに傷が痛んでうまく眠れない。ゼロが作ってくれたスチャヤの痛み止めを思い出すと涙が出た。



 レイノルドは時間通りに起こしてくれた。

 シャイネは胸を晒し布で押さえ、服を着た。伸びた髪をひとつに束ねれば、どうにか少年に見える。

 熱があるのか頭の芯がぼんやりして、気を抜くとすぐにふらつく。拘束こそされなかったものの、長剣を手にしたレイノルドに背を向ける気にはなれなかった。逃げるだなんて、とんでもない。

 黒い影を踏みつつ、黒い背を追うのは不思議な気分だ。いつもしていたことだった。どうしてあなたはゼロじゃないんだと、叫びたくなる。

 神都は魔物の脅威に晒されているのだ、呪卵を巡って争っている場合ではない。アンバーかゼロが殺されてしまえば、世界が滅ぶ。なのにどうしてみな、魔物を軽んじるのだろう。連中がいつ襲ってきてもおかしくないというのに。

 レイノルドが妻を失い絶望し、世界など滅びてしまえと自棄になっていたとしても、彼ほどの使い手が呪卵に固執する理由がない。どこへでも忍び込んで、憎い相手を剣でばっさりやれば済む話ではないか。

 それでもなおレイノルドが呪卵を欲するのは何故だろう。女神教、アンバーやゼロに対しての復讐として効果的なのは、何をどうすることだろう。

 神都を滅ぼす? ゼロは何とも思うまい。では、シャイネを殺す? アンバーが快哉を叫ぶだろう。ク・メルドルが、愛した妻が呪卵で失われたから、同じ悲劇を神都で再現する?

 考えても考えても、思考はあちこちに散らばるばかりでまとまらない。

 乱れない歩調に従ううち、本来ならこの位置にいるのはユーレカなのだと思い至る。そもそもどうして神殿長たるレイノルドが神都の下町で単独行動しているのだ。ユーレカはどこだ。

 妖艶な紅いくちびる。長い睫と、きりりと整えた眉。あんなに優しくて綺麗で、有能なひとをどうして置き去りにできるのだろう。カヴェでほんのわずかに触れあっただけのユーレカは、レイノルドに純粋な憧れと敬意を抱いているように見えた。それも彼にしてみれば駒のひとつでしかないのか。

 何も語らないゼロも、一人で先走るレイノルドも勝手すぎる。独断が周りをずたずたにすることなんて気にもかけていない。

 たぎる胸のうちを持て余しているうちに、レイノルドは足を止めていた。肩の向こうに見えるのは、同じく黒ずくめのゼロだ。

 シャイネは遠い気持ちで対峙する男たちを見つめる。

 ゼロもレイノルドも無言のまま、互いを見定める無遠慮な視線を投げ交わした。通りを駆け抜ける風が外套の裾をはためかせ、髪をなびかせても、身じろぎひとつしない。ひめさま、とエニィがか細く呟いた。

 ゼロは相変わらずの無表情で、シャイネを見ても眉ひとつ動かさなかった。塔から逃げおおせたことを喜ぶでも、レイノルドにいいように扱われているのを嘆くでもない。

 彼がこの場に現れたということは、シャイネはまったくの無価値ではないのだろう。しかし、それを喜ぶべきなのか怒るべきなのか、ちっともわからなかった。そもそも、この二人が争う意味はなんだ?


「持ってきているな」


 沈黙を破ったのはレイノルドだった。

 ゼロはゆっくりとした動作で、腰に吊った皮袋から呪卵を取り出した。手の中で卵は赤い光を放っている。あの光を見たのはカヴェの洞窟以来だ。いい加減慣れたはずの神都の不快感が蘇った。

 見えない手で体の中をかき回されているような寒気とおぞましさ、吐き気に、血の気が引いてゆく。

 ぐ、と喉が鳴って、両手で口を覆った。一歩下がる。


「動くな」


 レイノルドの、命じることに慣れた声音は呪卵を前にして上ずっている。一方のゼロは卵を右手でもてあそんでいた。


「団長、あんたはこれの使い方を知ってるのか」


 レイノルドは答えない。けれど、常に予想の先を行く彼のこと、使い方はもちろん、神都二家とはゆかりなき者にも使えると知った上で、卵を求めたに違いなかった。


「これの破壊の力を引き出すために、何が必要なのか知ってるのか」

「贄」


 暗闇で低い声が交わされる。介入が許される雰囲気ではなかった。


「女神のものではない血でもって、力を招く。その破壊の力を逃れ得るのは、女神のみ」


 薄く笑い、誰にともなくゼロは話し始めた。何気ないようでいて、隙はない。レイノルドでさえ動きだせぬほどに。


「アレクはきっと、犬か猫か、そういうものを贄として使ったのだろうな。おれは自分の血を与えた。ク・メルドルを滅ぼした卵は両方とも、正しく使われてはいなかったんだよ。卵の本当の威力はあんなものじゃない」


 活気あるク・メルドルは夢で見ただけだが、カヴェやマジェスタットと同じか、それ以上の大都市であったと聞く。そんな街を一夜にして廃墟に変えるほどの威力を「あんなものではない」と評し、「正しい使い方」があると語るゼロに、あまりいい気分はしなかった。レイノルドも同じなのだろう、わずかに肩の線が緊張する。構うそぶりも見せず、独白は淡々と続いた。

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