脱出 (4)

 左足を下ろし、左手を下げる。

 右足を空中でばたつかせると、石が爪先に触れた。ゆっくり、体重を右足に分けてゆく。十分に安定したところで、塔を撫でながら右手を下ろす。壁の凹凸を蹴り、爪先を押しつけ、砕けよとばかりに力を込めて石を握る。

 一連の動きを何回か繰り返すと、床石の出っ張りに足が届いて、息をつくことができる。

 二回目の休憩で、わけもなくこぼれる涙を服で拭った。両手が塞がっているせいで、顔を肩に押しつける格好になる。

 抜け出してきた窓はもうはるか上だ。気持ちを奮い立たせるものがないために、ひとつの動作のたびにくじけそうになる。力を抜いてしまえと囁く声から気を逸らし続けるのは苦しかった。

 空が白むまでには下りられるだろうか。半分ほどに欠けた月は真南を過ぎ、窓を潜ったあの時からはかなりの時間が経っていた。見回りに気づかれた様子がないのが唯一の慰めだ。

 腰に吊った巾着がやけに重く、全身は汗でびしょびしょだった。夜風に体温を奪われ、壁に張りついたままくしゃみをする。

 脂ぎった髪が頬や首筋にまとわりついて、気持ちが悪い。いっそ切ってしまうかとも考えたが、ゼロが貸してくれたはさみを汚すことに抵抗を覚え、結局そのままにしている。

 昼のうちに裁ち鋏で切った爪はひび割れ、血がにじんでいた。石に引っかけてはがれた爪もある。見上げれば両手の辿ったところに点々と血がついていて、生々しい。

 身体を支えている腕は疲労と冷えのために震えが止まらず、石を掴む感覚がない。目眩がするが、力を抜くわけにはいかなかった。

 窓があれば、腰かけるなり室内で横になるなりして休憩できるのだが、窓の位置は階ごとにずらされているのか、それとも斜めに下りているのか、見当たらない。萎えてゆく手足と壁の凹凸に命を預けるしかなかった。

 喉が渇いた。入れ物がなく、水を持ち出せなかったのだ。街を出れば精霊を召べるが、いまは無理だ。乾いたくちびるを舐め、苦い唾を飲んでやりすごす。

 あと半分。あと半分だ。壁を伝い下りるこつもわかってきたし、朝が来れば街を出られる。精霊を召べる。ゼロを助ける準備ができる。

 大雑把な見込みだとせせら笑う気持ちを押しやり、シャイネは左足をそろりと下ろした。大きさは心もとないが、ちょうどいい高さにある石に爪先をひっかけ、左手で新たな石を掴んだ。外壁を撫でつつ右半身を下げてゆく。

 裁縫で痛めた右腕は休むことなく痛みを訴えている。出血する指先は燃えるように熱く、ともすればねじ切れるのではと悲鳴をあげる手首をなだめ、おだてながら壁にしがみついているのは、易しいことではない。

 自然、体重は左半身にかかることになり、まずい、と思う間もなく左足の爪先が滑った。

 左手一本では体重を支えきれず、真っ直ぐに落ちる。


「――ッ!」



 落ちるな。

 死にたくない。

 まだ死ねない。ゼロを助けるまでは。

 死ぬわけにはいかない。



「っ、あああああッ!」


 意地が力になった。

 塔の外壁に沿って滑り落ちる身体を、石を握った腕の力だけで止める。必死に空をかく足が、どうにか収まりのよい石を探り当てた。

 全身が震え、胸を突き破るのではないかと不安になるほどの勢いで心臓が脈打つ。喉がごうごうと鳴り、水浴びをしたかのように滴る汗が夜風にさらされるも、寒さを感じる余裕などなかった。


「あ……ぁあ」


 鼓動も、呼吸も、流れる汗も涙も、掠れた声もみな生の証し。

 生き延びた。

 荒い呼吸を繰り返しながら、シャイネは壁にしがみつく。涙がとめどなくあふれて、嗚咽が止まらない。むき出しの手足は壁の凸凹に打ちつけたせいでひどくすりむけ、鼓動に合わせて疼いた。


「……うっ……ひっく……」


 涙が止まり、呼吸が元通りになるまでずいぶんかかった。ず、と鼻水をすすって、軽く腕や足、指に力を込めてみる。痛まない部分はなかったが、どこもきちんと動いた。動くなら、降りられる。降りなければならない。

 痛いのだか痒いのだか、熱いのだか寒いのだか、それさえもわからず、わあわあと声をあげながら夢中で壁を伝い下りた。左足が探り当てた出っ張りの頼もしさといったら!

 薄氷を踏むのと大差ない、危なげな足がかり。それがこれほど心強いものだったなんて。塔を見上げ、降りてきた高さを確かめ、心の支えにする。

 あとどのくらいかと下を見れば、ほんの一階分だ。つまり、いまシャイネは二階の高さにいるのだった。

 となれば、もう無理をする必要はない。大きく息を吸って吐き、壁を蹴って飛び降りた。夜が頬を撫でたのも一瞬のこと、冬枯れた草の上に膝を折り曲げて着地する。ばねが利かずによろめき、枯れ芝に頭から突っ込んでしまったが、こんなもの怪我のうちに入らない。


「……やった」


 小声で呟き、痛む拳を握る。ぼろぼろの身体を抱きしめた。

 できたじゃないか。無事に下りられたじゃないか。

 もう一度だけ塔を見上げ、シャイネは疲労困憊の体を叱咤して木立へ紛れた。感動に浸るのは、神都を出てからでも遅くはない。



 灯りを必要としない精霊の眼がこれほど有り難いものだとは思わなかった。思うように動かない体を引きずりながら木々の間を抜ける。どちらに向かうかしばし迷ったが、前に進めばいつかは神都神殿の外壁にぶち当たるはず。気にせず足を動かした。

 番犬や見張りがいるのではと警戒していたものの、夜風や葉ずれの音がするばかりだ。警備はどうなっているのだと逆に不安になる。

 疲れで目の前が霞む。持ち出した焼き菓子をかじろうかとも思ったが、まずは水がほしい。ふらふらとさまよっているうちに、視界の隅が光った。動きを止めると、弾んだ息が雪みたく白く散る。

 木立の合間に、月光を照り返して銀色に輝く池がぽつりとある。いかにも不自然だ。人目をはばかって池をつくる理由が思いあたらない。

 あたりに生き物の気配がないことを確かめ、池のそばに寄った。池の向こうは神殿の外壁で、池のほとりには、女性をかたどった石像が置かれている。外壁は手がかりのないつるりとした壁だが、像によじ登れば越えることができそうだ。

 ここから、出られる。

 意気揚々と石像に手をかけたのと、池があるなら身体を清められると思いついたのと、石像の脇の地面に違和感を覚えたのが同時だった。

 どうしよう、と考える間もなく膝をつき、地面を探っていた。右手が巧妙に隠された取っ手に触れる。

 力を込めて持ち上げると扉は難なく開き、ぽっかりと開いた闇の奥、地下へと石段が伸びていた。灯りは見えず、人の気配もなかった。

 迷ったすえ、扉に小枝を噛ませて、シャイネは暗がりに滑り込んだ。かびくさく、湿った空気をかき分けて進む。

 闇はシャイネに親しみ、シャイネもまた闇に安らいで育った。暗闇を怖いと思ったことはあまりないが、この通路を満たす闇はよそよそしい。ここが神都で、精霊がいないからか。それとも、あの地下牢を思い出させるからか。

 精霊がいないという異常にすっかり慣れていることに愕然とした。もう二度と精霊を感じられないのではと、恐ろしい思いつきが歩みを鈍らせる。

 大きく身を震わせ、首を振って悪い想像や記憶を振り払った。考え事をしている場合じゃない。

 ほどなく突き当たりにたどり着いた。左手に上り階段、正面は小さな扉だ。やはり物音も人の気配もなく、しんとしている。

 階段は途中で折れ曲がり、階上の様子は窺い知れない。一方、扉の隙間からはかすかに灯りが漏れていた。真っ暗闇だからこそわかるような、細く淡い光が揺れる。

 上階や扉の向こうに何があるのか、誰がいるのか、興味はある。しかし、脱出に優先するものではないはずだ。ひとつ息をついて来た道を戻る。

 この通路が神殿に通じていたら、ゼロを助けるときに使える。

 どれほど抜かりなく装備を調えても、神殿の正面から訪ねてゆくわけにはいかない。人目を避けて神殿に近づける通路を見つけられたのは大きな収穫だ。

 池で手を洗い、水を啜る。我慢できずに焼き菓子をむさぼった。傷を甘く覆い、体の芯から疲れを癒やす幸福の味だ。パンとスープ以外の味を忘れた身体に、バターや木の実のこくが痺れ薬のように広がる。

 干し果物の甘みは噛むほどに増し、木の実の固さは食べる楽しさを思い出させた。食べかすをこぼしながらがっつく姿は見苦しいが、胃が温まり、体の中で活力に変わってゆくのを感じる。

 菓子をすっかり食べ終えてから巾着を水に浸し、ごしごしと身体を拭った。傷に染みたが構うものか。

 神都に来てからというもの、一度も湯を使っていない。塔に移ってからは毎日体を拭っていたが、石鹸も着替えもなく、自分の身体がどれほど垢じみて悪臭を放っているか、シャイネ自身がいちばんよく知っている。

 湯と石鹸が欲しい。念願の水浴びは不満を膨らませるだけに終わり、ついに諦めて池から上がろうと片足を上げたところで、木立の中を近づいてくる灯りが目に入った。

 思いのほか、近い。身体を洗うのに夢中で、まったく注意を怠っていた。逃げる場所などないのだ、腹を括るしかあるまい。


「……誰だ? 誰かいるのか」


 しかし、投げかけられた声に聞き覚えがあるなど、誰が予想できただろうか。寒さではなく、総毛立った。

 なんで。どうしてここに。湿したばかりの喉も、甘いものを食べて活力を得た体も、驚愕に縛られて動かない。

 下草を踏む無雑作な足音とともに灯りが近づく。ランタンの黄色い光がシャイネを照らして、動きを止めた。

 光の向こうにいるアンリ・ウォレンハイドが目を見開く。


「な……、お、お前、半精霊! どうして……」


 気まずさと焦り、困惑が時を止めたかのようだった。どうしてと訊きたいのはこちらも同じだ。アンリはマジェスタットにいたではないか。いつから神都に。まだ追われていた? それとも別件? どうして今、こんなところにいるのだ!

 疑問が渦巻いて、けれど何ひとつ言葉にならず、無意味に口を開け閉めするばかりだった。それは彼も同じで、初めて見る平服の上に黒の外套、左手にランタンを掲げた格好で固まっている。

 柔和で茫洋とした印象が先立つが、アンリはやはりゼロに似ていた。深淵を覗き込むようなゼロの無表情に比べ、彼は何と表情豊かなのだろう。一瞬だけ浮かんだ眩しさを、怒りに似たものが塗り替えた。

 アンリは眼を細め、背後を振り仰いだ。お前はあの塔にいるはずではないのかと、そんなふうに。

 大きな隙に、ようやく体が動いた。水しぶきを蹴って池から上がり、勢いのままに当て身を食らわせる。あっけなく意識を飛ばした彼を木立の外縁に残したまま、一呼吸のうちに服を着て裁ち鋏を握り、石像によじ登って神殿の外壁を飛び越えた。

 ふわりと宙を舞ったその時になってようやく、裸を見られてしまったことに気づいた。吸った息が胸の中で凍りつき、声にならない悲鳴がこぼれる。

 どうしよう、と嫌な汗が噴き出てくるが、まさか神殿に戻るわけにもいかないし、戻ったところでどうしようもない。激しい後悔を抱えたまま、膝を曲げて着地する。頭を抱えて転げ回りたいのをこらえた。

 目の前には、青い夜の底で眠りにつく神都の街並みが広がっている。

 どうにか呼吸を整えてから、シャイネは全身が訴える痛みの合唱から耳を閉ざし、街の外壁を目指して走りだした。身形を整えて街を出る方法を考えねばならない。

 塔に朝食が運ばれるのは十分に遅い時間だし、食事を出し入れする小窓からは不在は知られまい。夕方、手つかずの食事を発見される頃には神都を遠く離れているはずだったのに、まさかアンリと出くわすなんて! おまけに、女だということまで知られてしまった。

 街の外門は日の出と同時に開く。夜明けはもうすぐそこだ。明るくなる前に着るものと靴を調達して、門を押さえられる前に神都を離れねばならない。

 当然ながら、商店は扉を閉ざしている。干しっぱなしの洗濯物を拝借するしかない。靴はどうする―ああ、アンリの服や財布を奪えばよかった。彼を前にみっともなく動転したことが恥ずかしく、悔しかった。

 取り込み忘れの洗濯物を求めて、住宅街に向かった。まともな衣服であれば少しくらい大きさに無理があっても構わない。しかし季節のせいか、不精者が少ないのか、なかなか望むものが見つからない。

 路地をさまよううち、人の気配を感じて足を止める。壁に背をつけて息を殺した。足音は一人分、衣擦れの音に混じって金属がこすれる音がする。恐らくは、剣。

 青服の見回りだろうか。単独で? それとも、寝付けぬ旅人の早朝散歩だろうか。不必要に怯えず、このまま隠れてやりすごせばいい。落ち着け、と自らに言い聞かせる。

 気配が近づく。シャイネは息を止めて鋏を握り、いつでも飛び出せるよう身構えた。輝く眼を見られるのはまずい。心臓の音がやけにうるさく、いっそ止まってくれと念じたそのとき、足音が間近で止まった。


「……シャイネ、か?」


 またしても知った声に呼ばれて、体が強張る。通りで黒々とたたずむ長身にかける言葉を思いつかぬまま、暗がりから滑り出る。安堵で膝が砕けた。

 薄手の外套が肩にかけられる。あの時と同じだ。あまりの情けなさに涙がこぼれた。


「大丈夫か」

「はい……あの、どうして、神都に?」

「いろいろあってね」


 一言で片付けつつ質問を封じ、レイノルドは肩をすくめた。

 東の空が白み始めている。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る