失われたもの (4)

 敷地内へと進む。石壁を潜って視界が開けると、違和感はいや増した。

 目の前は半円形の広場で、中央に石碑と花壇がある。人々や馬車が行き交うのは卵色の石が敷き詰められた小道で、木立や花壇が来訪者の目を楽しませる。建物の簡素さからはまったく想像できないし、そぐわない。設計者が別なのか、後から整備されたのかはともかく、ちぐはぐな場所であることは確かだった。

 広場の隅には案内板と馬車停があり、人だかりがしていた。他にも木製の長椅子で話し込む若者たち、まろぶように街へ出てゆく子どもたち、人待ち顔の女性、空を見上げて微動だにしない男性など、統一感がない。老いも若きも男も女も、てんでばらばらに散らばっていて、誰もがその光景を受け入れていた。旅装のシャイネたちが目を集めることもない。となれば石の箱も計算されてのことか。

 通りと建物のちぐはぐさ、大学府に集う人々の多様性が、不思議なゆとりを生み出していた。ここでなら、どんな突拍子のないことをしても奇異の目で見られることはなかろう。無関心と受容の調和がとれているのかもしれない。

 案内板によると、大学府の敷地の中には図書館だけではなく、大小さまざまの学問所や研究室、講義や多目的に使える広間などがあり、図書館は西に位置しているようだった。

 世界一を名乗るだけあって図書館はたいそう大きな建物で、地下二階、地上五階に及ぶとある。詳細は案内図ではわからなかったが、内部にずらりと並ぶ書架、そこに整頓された書物の数、記された文字を思うだけで気が遠くなった。それだけの言葉を尽くしても、この世界すべてを記すことはできないのだ。


「どうする、馬車を待とうか」

「いいよ、歩こうよ。いざっていう時に体が動いてくれないと困るもの」


 まずった、と思ったが、それはいつなのだと問われることはなく、ゼロはそうか、と素直に頷いただけだった。ほっと胸を撫で下ろしつつ、並んで歩く。建物の圧迫感を気にしなければ、庭園を散策する気分でいられた。

 同じく図書館へ向かっているらしき人影もあるが、数はまばらだ。もっと賑わっているのかと思っていたのに。

 木漏れ陽で全身をまだらに染め、のどかな通りをゆっくりと歩く。前方には図書館が見えていて、迷う心配もない。もし道が途切れてしまっても、芝生を突っきればいいだけのことだ。

 ゼロは宙を見つめている。静かな黒い眼は思案に沈むのではなく、ここではないどこかをさまよっているようだ。こんなに無防備なゼロを見るのは久しぶりだった。

 今この瞬間にもクロアとイルージャが現れるかもしれず、気を抜いている場合ではないのだが、隙だらけの姿が珍しくて目が離せなかった。

 カヴェで出会い、なし崩し的に行動を共にしてからの三ヶ月で、互いが隣にいることが当たり前になった。それなのに、彼の本当にくつろいだ表情はほとんど見たことがない。

 心をまったく別のところに飛ばしているゼロを見ていると、義務感に似たものが湧きあがるのが不思議だった。僕が守らなければ。僕がそばにいなければ、と。

 自分自身が未熟であるのはよく承知しているし、守るだなんて大口を叩くのは恥ずかしいが、他に心当たりがなく、誰に頼めば安心できるのか自分でもわからなかった。キム? レイノルド? それともナルナティア?

 それとも、自分だけが彼を守り得るとでも?


「まさか」


 思わず口に出していた。冬空の視線が戻ってくる。


「どうした」

「ううん、なんでもない」


 不審げに細まった視線から追求を覚悟したが、彼はそっぽを向いてしまった。しばらく黙ったまま、馬車道を進む。入り口から来た馬車、入り口へ向かう馬車と行き合い、そのたびに道を譲った。

 最高学府と言われても、いったい何が行われているのかとんと想像がつかない。リンドには子どもに読み書きや計算、法律や歴史を教える私塾があったが、ここにも教師と生徒がいるのだろうか。こんなに大きな建物が必要なほどたくさんの生徒が? 世界中から生徒が集まっているにしても、大きすぎやしないか。

 どうにも緊張感の続かない、穏やかなところだった。精霊たちも朗らかに駆け回っていて、半魔の企みが影を落としているとは思えない。

 やがて、図書館の入り口が道の先に見えた。大学府の門前と同じく、開けたところに長椅子が置かれ、人々が思い思いにくつろいでいる。図書館の隣にごく小さな石の箱が見えるのは、どうやら売店らしい。色鮮やかな傘と、日陰にしつらえられた屋外席が見える。

 ここでも、長椅子に座り、あるいは芝生に寝転んでいる人々の性別、年齢、服装に統一感はなかった。日向ぼっこをする猫のようにゆったりとした雰囲気は、世界中の知識が集っていることを容易に忘れさせる。

 正面入り口は箱状の建物に比べればいくらか工夫が凝らされていた。たったそれだけのことでほっとする。つややかな黒い石には、大学府付属図書館の銘が彫られていた。

 両開きの扉を押し開けて中に入ると、雰囲気が一転した。上等の絹地のごとく肌にまとわりつく空気は冷たいほどで、明かりも少なく薄暗い。ゼロの袖を引いて眼を指さすと、彼は顎を引いて頷いた。光っているらしい。こんなに暗いところで本を読んだら目が悪くならないだろうか、と余計な気を揉んでしまう。

 通路は十歩ほど、突き当たりの右手に幅の広い階段、正面に両開きの扉があり、左手には事務所と思しき小部屋があった。胸の高さまで四角くくり抜かれた壁の向こうに、渋い顔の女性が座っている。金糸で刺繍が入った袖の長い上着はなかなか格好いい。

 受付の一帯にはちゃんと灯りがあった。受付係はこちらに目をやって、どうぞと手招く。ゼロの右側に回り込んで視線を遮りつつ、光の輪に入った。


「初めての方?」

「そうです」


 ゼロが頷くと、女性は長い袖を左手で支え、扉を示した。


「正面の扉が一階の閲覧室です。入ってすぐに館内の案内図があります。蔵書の閲覧は館内のみで、持ち出しはできません。館内での飲食と喫煙は禁止です……もちろん抜剣も」


 旅装の来訪者の腰にちらと視線をやった女性は勿体ぶった調子で付け加え、満足げに唇の端を持ち上げた。


「資料を探すときは各階の受付で手燭をお貸しします。三本目の蝋燭からは有料です」


 彼女がうっすらと笑いながら示したのは、覆いのついた手燭だった。下から蝋燭に照らされてできるくっきりとした影が、炎の揺らめきに合わせて踊る。


「お名前を」


 差し出された来館者名簿に、ゼロは淀みなくペンを走らせた。癖はあるが綺麗な字だなといつもながらに思う。シャイネも続いたが、いかにも自信のなさそうなつまらない字になった。


「では、ごゆっくり。よい知識の旅を」


 ひっひっひ、と笑い出しそうな受付係から少しでも遠ざかりたくて、シャイネは閲覧室の扉を押し開ける。意外に重い、と怯んだのがわかったのか、ゼロが手を伸ばして支えてくれた。


「ありがと」

「ん」


 読書用の机には十分な灯りが用意されており、心配したほど暗くはなかった。一方で、書架には最低限の明るさしかなく、しんとした拒絶を感じる。本の棲む闇に分け入るのに、手燭程度で足りるのかと不安になった。


『すっげー、こんなにたくさんの本、初めて見た』


 ディーの感嘆に頷く。印刷や写本に用いる質の良い紙は高価で、製版にも金貨の単位で費用がかかる。リンドで手に入る本はほとんどが写本、かつ抄本だった。

 牡鹿の角亭には、引退した旅人が一念発起して出版した旅行記全三巻が揃っていて、仕事の合間に盗み読んでいた。他には、貸本屋で子ども向けの博物誌を流し読みするくらいで、書物に関する印象は薄い。宝石並み、あるいはそれ以上に高価だから、庶民が親しむものではないのだ。いちばん世に出回っている書物と言えば、女神教の教えを記した「預言集」だが、それとも縁がない。

 そういえば、レイノルドの家にはきちんと製本された書物が並んでいたっけ、と思い出す。本の題名は何だったか。

 ゼロの肩越しに見上げた案内図によると、図書館の地上階はどこも閲覧室と事務室、階段があるだけの簡単な構造だった。地下階は閉架らしい。階段は閲覧室の外、各階の事務室前にあるきりだ。


「ク・メルドルと、女神のことか……」


 二階の「地理」や「歴史」、三階の「女神教」がそれだろうか。三階には同じく「精霊」と「魔物」の書架があるので、まずは三階に向かおうと決める。

 閲覧室を出て、階段を早足で上がった。それぞれの段が低く、段数が多いものだから調子が狂う。外装と同じく、石を積んだだけの素っ気ない階段はひやりと冷たく、澄ました感じがする。教養のない者はお呼びでないのかと、僻みが頭をもたげた。

 三階の閲覧室は一階とほぼ同じだった。入ってすぐのところに案内図があり、その正面の長卓では人々が一心に書物を眺め、あるいは書き写している。

 静寂のなかに漂う、本にかける思いや込められた情熱は熾火のようだ。必要とする者の手によって、再び炎として蘇る知識たち。ここにあるのは、そうして手に取られ、開かれる時まで眠り続ける、熱い沈黙なのだ。

 立ち並ぶ書架の威容、揃った知識の重みと熱量におっかなびっくりのシャイネとは違って、ゼロは手燭をかざしながら勝手知ったる様子で歩いてゆく。堂々としたものだ。過去への恐怖は見当たらない。

 等間隔に並べられた書架は、故郷の倉庫を思い出させた。冬の間、チーズや燻製肉、酢漬け野菜、乾燥させた果物などの食料や酒、薪、薬草を保管しておくのだ。紡いだ糸や織り上げた布も、同じく倉庫にしまっておく。倉庫の管理をするのは村長だが、雪のやんだ日などに倉庫の整理を手伝っては、漬物の端や干し野菜をご褒美にもらうのは秘かな喜びだった。

 雪に閉ざされる村と、書物に囲まれる図書館の静けさはどこか似ている。周りの雪や紙が音を吸い込んでしまうのだ。人の気配さえも闇に同化して淡い。

 書架に挟まれた通路は果てなく続くように思えた。精霊の眼があるから視界に不自由はないが、闇に溶けるゼロとの距離感がどうしてか掴めない。足元がふわふわと頼りなく目眩がして、どちらが前でどちらが上なのか、感覚が曖昧になってくる。

 本を傷めないためか、室内は乾燥していた。唇がかさつくのが気になったが、いま歩みを止めればはぐれてしまいそうで、黒い背中を追いかける。開口部もないのに、どうやって調湿しているのか不思議だった。


「ここだな」


 前を行くゼロが足を止めたことに気づかず、歩いていた勢いのまま背中にぶつかった。彼も姿勢を崩し、手燭を守って書架に手をつく。背中に抱きつく格好だと気づいて赤面するのと、肩越しに振り返った視線を受けるのが同時だった。


「あ、ごめん……」

「いいけど。具合悪いのか? 大丈夫か?」

「大丈夫。ちょっとぼんやりしてた」


 ゼロは息をついて書架から離れ、全体を眺めた。目の前にも書架が並んでいるのだから、ぼうっとしているうちに端まで辿り着いていたことになる。世界一の図書館と期待していたわりに、「女神教」と題された書架は目立たず、書架にもゆとりがあった。

 おまけに、本の体裁をとっていないものが半分以上を占めている。無造作に書架に突っ込まれているのは紐で綴じられた紙束で、書名も内容も定かではない。そのうちのひとつを手に取った。


「これが本?」


 保存状態も悪い。黄ばんだ紙の端が折れたり破れたりしており、紐を通すために開けられた穴も形が崩れ、紙の端まで破れているところもある。綴じられた紙の質、大きさもまちまちで、ぎっしりと文字で埋め尽くされているページもあれば、走り書きの草稿が綴じられている部分もあり、読みにくいことこの上ない。


「見て、『女神の想像図』だって」


 薄い布を身に纏った女性の絵が描いてあるが、ただそれだけだった。忽然と現れた想像図にへの言及はなく、美術的、学術的価値はおろか、単なる落書きとしか思えない。読み進めるには根気が必要だった。


「これを片っ端から調べるのか!」


 ゼロは苛立たしげに髪をかき回しているが、「精霊」や「魔物」の書架に目を移せば、全体量も少ないうえにほとんどが本ではなく、書類だ。膨らんでいた期待が音もなくしぼんでゆくのを感じた。


「そりゃ、本を書く人が少ないんだものな。仕方ないよな」

「ふたりで調べればすぐだよ。ね? それに、印刷するだけのお金がなかっただけで、もしかしたらすごく内容が濃いかもしれないよ。いきなり大当たりを引くことだってあるかもしれないじゃない」


 明るく言ってみたが、自分を慰めているふうなのが哀れだ。

 ゼロは顔を歪めたまま紙束と書架を見比べていたが、やがて大きくため息をついて肩をすくめた。


「そりゃそうだ。始めなきゃ、始まらない」

「そうだよ」


 同意したものの、脱力して途方に暮れているのはシャイネも同じだった。本なんて馴染みのないものを延々と読み続けなければならないなんて、かなりつらそうだ。本当に知恵熱が出たらどうしよう、とどんどん気持ちが落ち込んでゆく。


「で、次はク・メルドルか……」

「地理かな。歴史かな」

「地域史なら地理じゃないか」


 首を捻りつつ二階に下りた。「地理」と「歴史」の書架は隣あっているが、どちらも数が多い。蔵書は数棹にわたり、書架は満遍なく埋まっている。これならば確かに、世界一を名乗るにも不足はない。思い描いていた図書館の姿をようやく見た。


「ク・メルドルは学問の都と友好関係にあり、軍備だけでなく教育にも力を入れていた」


 突然、背後でゼロが囁いた。書きつけを読み上げるのにも似た平坦な調子だったが、周囲を気遣ってか、潜められた声は普段よりも低くかすれてやたらと色っぽい。助走なしに心臓が跳ね、つられて飛び上がりそうになった。ぎこちなく後ろを振り返る。


「思い出したの?」

「いや。知ってることだ。昔のおれの知識だな」


 断片的なんだが、と付け加え、彼は書架を指差した。

 女神や精霊、魔物に関する資料に比べ、その量の何と豊富なことか。布張り、革張りの表紙に箔押し、筺入りといった立派な装丁、大きさの揃った紙。紙の質も良く、変色もない。この本を一冊つくるのに、どれだけの情熱と時間とお金がかかるのだろう。


「これ、全部に目を通すの?」

「時間はかかるだろうけど、目次があるから読み飛ばせるさ。死にやしない」


 ゼロが遠い知識を拾い上げてくれたところによると、王家による世襲政治が長く続いたク・メルドルでは、早くから国の歴史や文化、地理、法などを記録に残すことが行われてきた。書記官や製本技術者は重用され、他の国や街に比べ、書物が手に入りやすい環境だったそうだ。

 やがて学問の都に次ぐ規模の国立図書館が設立され、文化財として書籍を保護した。また、国が発行した書籍はこちらの図書館にも寄贈され、保管されている。


「へぇ。だからこんなに量があるんだね」


 レイノルドが大量の本を所持していたことも頷ける。ゼロが無造作に一冊を抜き取り、ぱらぱらとめくった。はずれだったのだろう、黙ったまま目次を読み終えて無言で書架に戻した。


「まずは、飯食おうか」

「だね」


 ゼロにとっても手強い相手らしい。シャイネは頷き、手燭を返却してから外へ出た。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る