半魔 (2)

 女の白目だけがくっきりと浮かび上がるのが不気味で、シャイネは刺突剣を強く握る。

 彼女はおよそ気配を感じさせず、街道を外れた草むらに忽然と現れた。

 とてつもなく怪しく得体の知れない存在に対し、ディーは押し殺した沈黙を保っている。困惑と戸惑い、そして紛れもない恐怖が伝わってくる。油断はなく、かといって敵意をむき出しにしているのでもない。あまり見ない反応だ。女が味方ではないが敵でもないこと、かれと面識があることだけはわかった。

 黒い女はシャイネとゼロを見比べ、最後に刺突剣に目を留めて薄く笑った。白昼、剣の輝きも目立たないのに、精霊封じの剣だと察したらしい。背筋が冷えるほど美しい顔に壮絶な笑みを浮かべるものだから、ディーは完全に怯えて縮こまってしまった。

 知り合いかと声に出して尋ねるのも憚られ、シャイネは女を見上げる。見たこともない朱金の眼は彼女がただびとでないことを如実に物語っていた。

 精霊の輝く眼ではない。だとすれば、と浮かんだ可能性を恐怖が塗り潰す。まさか、そんなこと。


「もしかして、スイレンの子か」


 女にしては低い声だった。よく通る、舞台役者のようだ。抑揚が乏しく表情も控えめで、威圧感があるわけではないのに手のひらには汗が浮き、力を込めなければ膝が笑いそうだった。いつも励ましてくれるディーは無言のままだ。


「スイレンは僕の父だ。父を知っているのか。あなたは誰だ」


 シャイネは知っている。この緊張と、沈黙の音が聞こえそうなほどの集中を。恐怖をねじ伏せ、眉間に力を込めた。

 ゼロもまた言葉こそないが、この女がただ者ではないことに気づいている。敵であっても味方であっても構わない、といった無関心を冬空の眼に浮かべ、抜き身のままの汚れた剣はいつでも彼女に斬りかかれる位置にあった。


「わたしはクロア。こういうことが聞きたいのかな?」

「魔物と、同じ感じがする」


 吐き捨てた一言に、クロアと名乗った女はふふ、と息を漏らして笑った。


「あなたは精霊と同じ感じがするよ」

「では……半魔か」

人型ヒトガタ、と呼ばれることが多いけれどね」


 予想が当たったな、とゼロが投げやりに呟く。

 魔物と精霊は似ている。半精霊がいるのなら、半魔もいるのではないか。カヴェの洞窟で語り合ったことが思い出される。自分たちとはまったく縁遠い存在として噂していただけなのに、まさかこんな偶然があるなんて。

 クロアがゆったり構えているのは余裕ゆえだ。向かい合って立っているだけで背筋が粟立ち、うなじが冷えるほどの実力差がある。その余裕を前にしては剣を構えることさえできない。敵意を見せれば彼女は容赦なく攻撃をくれることだろう。二対一であっても勝てるとは思えなかった。

 誰もが恐れる「人型」。もし出会ったならば何をおいても逃げろ、躊躇するな。歴戦の猛者たちが、凄腕の狩人たちが口々に人型の恐怖を語ったが、共通していたのは誰もが「逃げろ」と締めくくっていたことだ。

 噂に尾鰭がついていたわけではないと、今はっきりわかった。武器も持たず、楽に手を泳がせているクロアは呼吸するのと同じくらい易々とシャイネとゼロの命を奪うだろう。声高に威圧、恫喝せずとも、彼女の勝利は揺るがないのだ。

 悔しいが、立ち向かうだけ無駄だ。事を荒立てずに済むならそれに越したことはない。刺突剣を鞘に戻した。


「うん、そう、別にこちらも争うつもりはないんだ。半精霊だと知っていれば、襲わせたりはしなかったよ。すまなかった」

「……半精霊でなければ構わず襲っていた、ということか?」


 割って入ったゼロも剣を収めた。力量差は彼も汲んでいるはずで、ならば無駄な流血を避けるべく動くのは当然だ。

 クロアは黒ずくめのゼロを胡乱げに眺め、なぜおまえが混ざるのだと言わんばかりに瞬いた。


「そうだよ、女神の子。わたしたちはおまえたちヒトの世を破壊し尽くす。だが精霊は関係ない。……そこのいしも、久しぶりだね? いや、挨拶はいいよ、聞こえないから」


 ディーがぶっきらぼうに『レンさんが会った奴』と囁く。


「カヴェの、人型」


 父スイレンが旅を止めるきっかけになった人型こそが彼女なのだ。だとしてもディーが曖昧な反応のままで、逃げろと言わないのが不思議だった。

 半魔は浅く頷く。敵意は感じられないが、友好的でもない。何のことはない、彼女もまた初対面のひとりの人間としてここに立ち、話が通じるのだった。少なくとも今は。


「スイレンはわたしを助けてくれた。助けた、というか……まず武器を振りかざす野蛮を良しとはしなかったと言うべきかな。話が通じるのではと考えた。スイレンはどうしている? それはあの人の剣だろう」


 あるべきものがあるべきところに収まった気がした。父を知る半魔。カヴェの宿屋街を襲った鳥型の群れ。シャイネの母が闇を統べるのと同じく、クロアの親は鳥の王なのではないか。


「狩人は止めた。旅をするのも。ずっと北の小さい村で暮らしてる」


 もう一度、クロアは頷いた。知っていると言わんばかりに。


「元気でいるのか」

「三年ほど会ってないけど、元気だと思う。剣は僕が家を出るときに譲り受けた」


 ならいいんだ、と彼女は平坦な調子で呟いた。長い黒髪が揺れるのを、シャイネは自分でも驚くほど空虚に眺める。

 押し殺した一言で、彼女と父が並々ならぬ関係であることがわかってしまったからだった。それを母ヴィオラに隠し通せるものではないことも。つまり、母は何もかも知っている。知っていてなお目こぼししているなら、シャイネにとっては何よりの保証だ。

 彼女が父の脚を潰したのではないと、確信が持てた。クロアがやったのなら「元気でいるのか」などと尋ねないだろうし、母が放ってはおくまい。

 それは同時に、過去の断片をきわめて正確なかたちで縁取ることでもあった。


「クロア、父と会ったときのことを教えてくれないか」

「聞いてどうする」

「そのとき父と組んでいた男たちを探してる」

「復讐か」


 クロアの唇が酷薄に弧を描いた。歌うような問いかけに、心のどこかが強張ってぎしぎし音をたてる。


「わからない。そうかもしれないし、違うかもしれない」

「わたしはその頃、魔物を……鳥を操ることを覚えたばかりで、万能感に満ちあふれていた。わたしたちの肉体能力は人間を超える。幼くとも半魔、つまらない狩人ごときには引けを取らなかった。スイレンたちと会ったのは本当に偶然なのだけれど、ちょっと相手してやって、適当に追っ払ってしまうつもりでいた」


 前触れのない述懐だった。唾を飲んで拳を握って衝撃に備え、無言で先を促す。


「彼らはがむしゃらに立ち向かってきた。唯一、スイレンだけが乗り気ではなさそうだった。わたしが女で、しかも子どもだったからかもしれないし、どんな姿形であっても一歩引いたかもしれない。それでもスイレンは頭抜けて強かったし、視野が広かった。鳥を召んでもすぐ墜とされて、焦ったよ。互いにいくらか傷を負って膠着したところで、いったん退いて態勢を立て直すことにした。弓に対抗できる強い鳥を召んで、傷を癒やして、それからだと思ったんだ」


 ところで、とクロアはだしぬけに刺突剣を指さした。ディーが身を竦める。


「その剣だって全部知っているはずの話だけど、わたしが話していいのか」

「教えてくれないから」

「そういう内容の話だ、と言ってる」

「承知してる」

「復讐だものな」


 楽しそうに目を細め、影のように黒い女は続けた。


「夜になってから鳥を召んで、連中の野営地に行った。様子を窺っていたら、わたしと話が通じるか否かで言い争いをはじめたから驚いたよ。ずいぶん長いこと揉めていたけれど、スイレンはわたしに誑かされたのだ、という結論に落ち着いたらしい。魔物と話をしようなんて馬鹿げている、お前はおかしい、とね。ここからは一人で行くと言ったあの人を、あいつらは」

「……襲ったんだね」

「そうだ。四人がかりで、呆れるほどめちゃくちゃにな。スイレンは反撃すらせずにやられるままになっていた。今思えば、スイレンが離脱したところへわたしが襲いかかれば奴らはひとたまりもなかっただろうし、手加減してスイレンに逆襲されても痛手だ。その恐怖があいつらを動かしたんだろう。けど、目の前で一番の使い手が同士討ちで殺されかけてるんだ。わけがわからなかった。人間たちがあの人に手を上げた理由も、暴力を向ける先がわたしではなくて仲間だったことも理解できなくて、わたしは何もできなかった。ただ、見ていた」


 言葉が途切れた。朱金の眼を見上げると不思議な揺らめきがあって、ことの真相よりもずっと鮮烈に雄弁に、衝撃に備えて構えた身を打ちのめしていった――クロアの眼が潤んでいる。


「おぞましい、と思った」


 吐き捨てられた一言が、一切を物語っていた。そうだろう、そうだろうとも。


「わたしは逃げた。スイレンは手の届くところにいたけれど、助けられなかった。わたしにできるのは壊すことだけだから」

「僕を見て、すぐに身内とわかったんだな」


 雲の影がよぎって、すぐに晴れた。一帯が陰っていたわずかの間に、シャイネはクロアの朱金に怯えにも似た動揺が走るのを見た。


「僕は父によく似てる。それはその通りなんだけど、たまたま出会った半精霊がスイレンの身内だなんてほとんど考えられないだろうに、僕を見ても驚かなかったよね。あなたは僕を知ってた。スイレンの子が半精霊だって。違う?」


 クロアは答えずに言葉を継いだ。


「……怖い物見たさだったかもしれない。しばらくしてから野営地に戻ると、スイレンの姿はなかった。血痕はそのままで、どこにも移動した形跡がない。死にかけていたスイレンだけが完全に消えていたんだ。驚いたよ。もっと驚いたのは、わたしが鳥を放って捜し当てたとき、スイレンは遠く離れた北の地にいたことだ。精霊が手出ししたのでなければ彼が助かった説明がつかないし、精霊がしゃしゃり出てくるんなら、あの人に惚れてたとか、そういうつまらん理由なんだろう。なら子ができてもおかしくはない」


 最後は吐き捨てる口調だった。あの人、と言ったときに揺れた感情にまでは理解が及ばない。

 カヴェでシドウに聞いた話が裏打ちされた形だった。真相を知っても、ハリスらに覚えるざわめきは変わらず硬くつめたく凝っている。

 安堵と表裏一体の冷ややかさを察したわけでもあるまいに、クロアは舌なめずりせんばかりに一歩踏み出した。


「あの連中を捜し出して復讐するなら、わたしが協力するよ。鳥だっていくらでも貸す」

「そうやってカヴェの宿屋街を襲ったのか」


 そんなこともあった、と軽い頷きを目にすると、ハリスらを見つけてどうするのか決めかねて揺らぐ心におもりが投げ込まれた気分になった。

 復讐。それは何を意味するのか。うつろに広がる淵を覗き込むには勇気が必要で、そのくせ上辺を掬って名づけるのは易い。

 彼女の申し出を受けるわけにはいかない。深く考えたわけではないが、彼女の意図する破壊は、炎の精霊イーラが見せた残酷さに通じる。同種の力を欲することに、言いようのない嫌悪があった。潔癖と嗤われようとも手が伸びない、


「僕は……僕がどうするかは、自分で決めるし自分でやる。力は借りない」

「それもいいかもしれない。わたしの、半魔の力が必要になればいつでも言ってくれ。スイレンに受けた恩を返したいんだ、シャイネ」


 拒絶は予想されたものだったのだろう。クロアは食い下がることもなく、じゃあ、と袖を翻して影に溶けた。黒い外套が翼のように見えたのは気のせいではあるまい。

 彼女とはわかりあえる気がしなかった。話すことはできても、埋めようのない違和感が残る。シャイネとクロアはただ一点、スイレンという人物で交わっているにすぎず、これから接触を重ねたとしても、並んで立つ日はきっと来ない。いつかまた向かい合うことになる。それは確信だった。

 鳥型の死骸はまだ融解の途中で黒々とわだかまっている。交わした言葉、ふつふつと波立つ感情、ディーの沈黙まで、何もかも現実味がなかった。


「田舎者だと思ってたけど、あんた、意外に顔が広いのな」


 まったく場違いなゼロの声音が初夏の青い風に散ってゆく。

 名乗っていないのに、クロアがシャイネを呼んだことがひどく不穏で、同時に半魔の存在は決して遠いものではないと実感した。

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