工業都市 (2)

 地面が斜めでないこと、冗談みたいな凹凸がないこと、気を抜いても転げ落ちたりしないこと、毎朝の霧でずぶ濡れにならなくて済むこと。

 シャイネは一歩ごとに、平坦な地面を歩く喜びを噛みしめる。平地には道がある。道があるのだ! 風と大地が揃って浮かれるのに合わせ、足が弾む。

 道ってすごい、街道を拓いた人はもっと感謝されていいのでは、と感激は尽きない。それほど「背骨」越えは厳しいものだった。

 カヴェからの街道が行き着くあたりは特に勾配がきつく急峻な峰が連なっており、先人たちが踏み固めたか細い山道は、人間に耐えうる箇所を辿るために蛇行する。歩く距離もおのずと長くなった。

 補給は容易ではなく、高山病にも備えねばならない。魔物の相手もせねばならないとあって、麓の町では「背骨」に挑む旅人たちを集めて講習が開かれていたほどだった。

 天候に恵まれ、魔物にもあまり遭遇せず、壮健で健脚自慢、そして幸運という要素すべてをもってしても、一週間の行程。大抵は十日以上の備えをもって「背骨」に挑むのだと言われ、青ざめたものだ。

 実際に歩く山道は想像以上にきつく、急斜面で魔物に出くわすたびに二人して呪詛を吐いた。荷物が魔物に狙われ、咄嗟に風を召んで吹き飛ばしたら食糧袋もろとも谷底に落ちて泣いた。ゼロを飢えさせてはいけない、と責任を感じて蛇を獲り、つるりと皮を剥いて差し出したら原始人だの野蛮人だのと散々に罵られ、殴り合いになった。

 紆余曲折を経て、どうにかこうにか山越えを果たした。しばらく坂道は歩きたくない。いつもぱりっとしているゼロがむさ苦しくなってゆくのもうんざりだった。自分だって同じだろうけれど。

 山頂を越え、山道を下る行程は気が逸ったこともあり、膝に負担を強いることになった。ゼロが湿布を作ってくれなければもっときつかっただろう。山を下りて笑う膝を宥めつつ平地を半日ほど歩き、マジェスタットに到着した。ちょうど月が改まり六月に入ったばかりで、予定通りだ。

 マジェスタットはリンドと同じく、訪れる旅人に対して「殺さず、盗らず、犯さず」の誓いを求める。

 この誓いは公の色街が存在することを示し、色街の安全をうたう。料金は制度によって定められ、店が暴利を貪ることを許さない。花売女たちの健康状態にも配慮される。公の権力が花売女、店、客、それぞれに介入することで、三者の利益と損失の均衡をとるのだ。色街で遊んだことのないシャイネも、そのくらいは知っている。

 精霊封じの剣を失い、新しく剣を買い求めたゼロはそれにも納得がいかないようで、落ち着かない様子だ。かと思えば突然、精霊封じの剣が欲しいと節約を始めた。

 深夜まで飲み歩くことを止め、色街通いも減った。人付き合いを面倒くさがっているわりに宵っ張りで、楽しく飲まねば損とばかりに遊んでいたのに、日の出頃には起きて薬草を摘みに出かけてしまう。

 剣はただの道具だと割り切って頓着する素振りもなく、愛着を持っているようにも思えなかったから、その変貌には驚いた。

 思えば、剣は記憶をなくしたゼロの、ほとんど唯一の身元の手がかりであり、心を許してきた相棒なのだから、破損に動揺しても少しも不思議ではない。

 もしも僕がディーを失ったらどうだろう? 元の持ち主である父へ申し訳が立たないとか自らの未熟さが呪わしいとかはさておいて、たぶん正気ではいられないだろうと思う。

 当のディーは素知らぬ様子で周囲を窺っている。山越えの間シャイネらがぴりぴりしていたのを窮屈に思っていたのかもしれない。


『なーんか、風通しがいいな』


 カヴェと同じく、港を有するマジェスタットだが、街の雰囲気も潮のにおいも、東と西ではずいぶん異なる。人やものの行き来が盛んな大都市のこと、精霊たちものびやかだった。


「こっちの海はすっきりした感じ。カヴェはもっと重いにおいだったな」


 とは、鼻の利くゼロの言葉だ。シャイネの感覚では、水が軽やかで楽しげ、となる。カヴェではどちらかというと風の方が騒いでいて、水は気圧されてひっそりしていた。

 案内図によると、街は海岸線に沿って敷かれた街道の周囲に発展し、シャイネたちがやって来た「背骨」側の西門から続く大通りと、街道とで大きく三つに区切られている。

 西門と北門の間が宿屋街。西門と南門の間が女神教神殿や王城を抱く行政区と住宅街、工房街。そして街道の東側、港と市場、工場群が連なる海に面した区画。街道と大通りが交差する広場には市が立ち、大道芸人が集まって賑わいを見せているに違いない。

 街には「背骨」を源流とする川が流れ、そこから引いた運河が輸送を助けている。市街地と工房街は運河と小径、繁栄とともに広がった新しい建物で複雑に入り組んでいるようだった。

 マジェスタットが工業都市と呼ばれるに至ったのは「背骨」から産出する鉄と豊富な森林資源ゆえで、旅暮らしに欠かせぬ武器や防具をはじめ、農耕用の鎌や鍬、馬具、鍋釜を筆頭とする家庭用品等々、金属加工品を作らせれば随一の職人たちが集まったからである。やがて交易が盛んになるにつれ、マジェスタットの立地の良さや技術力を聞きつけ、各分野の匠たちが移り住んできた。石造建築物から木工、造船。やがてものづくりにかけては世界一となった。

 ――というようなことは道中、酔っ払いや経験豊富な旅人、商人たちから聞きかじった知識だが、確かに街中なのに炎やいし、森の気配が濃厚で、ディーがそわそわしている。生まれ故郷とも言うべき街を再訪して、気が高ぶっているのかもしれない。

 大きな街だ。規模はカヴェとそう変わらないだろうが、訪れる者を圧倒する街門の構えや、整然と石畳で舗装された大通り、巨体と表するのが相応しい工場など、街の雰囲気は重厚で、どっしりと安定感がある。遠くに見える王城の塔は陽射しを浴びて白く輝き、シャイネが気後れするには十分なほど洗練されていた。

 行き交う人々の服装は、街のつくりの堅牢さとは裏腹に軽やかだった。色鮮やかな前合わせの薄物を重ねて帯で締めるかたちで、身頃の細さに比べ、袖は大きく開いていて風通しが良さそうだ。気温と湿度が高いのだろう。

 道すがら眺めた限りでは、物価はずいぶんと高かった。宿賃をはじめ、屋台で売られている飲み物や軽食、ちょっとした土産物なども気軽に手を出せる価格ではない。


「高いねぇ」

「税金が高いんじゃないか」

「ああ……なるほど」


 ゼロも物価には鼻白んだ様子だが、シャイネよりはまともにものを考えているようだった。


「どうする」

「一通り見てみようよ。もしかしたら通りを外れたところは安いかもしれないし」


 そうだな、と同意をとりつけて、宿屋街をざっと流し見た。客引きの姿はまばらだ。昼過ぎだからかもしれない。

 たいていは表口に看板が立てられていて、詳細な宿泊料金が記されていた。足を進めるほどに、眉間に皺が寄る。通り沿いの大店だろうが、裏通りの小さな宿だろうが、料金はどこも大差なかった。

 目立って安いところは、日当たりが悪そうだとか、薄汚れているとか、理由は定かではないが何となく嫌だと感じた。言葉にできない「何となくだめ」「ちょっと違う」をゼロは尊重してくれた。宿城で働いていたのなら目が利くだろ、と言って。

 足を棒のようにして歩き回ったが、結局のところ、行き届いているが高額、もしくは不満は多いが安価、のどちらかを選ばなければならなかった。


「二人部屋は嫌か」


 げっそりした表情で振り向いたゼロの顔には、渋々とか嫌々とか大書きされていて、剣のために節約したい気持ちと、おれだって好きでこんなことを打診しているのではないといった強情さがせめぎ合っていた。

 彼がことのほか真面目に貯金に励んでいるのはシャイネも知っているし、慣れた得物が腰にない心許なさも理解できる。知り合って二月、これっぽっちも親密にはなっていないしなるつもりもないが、旅暮らしの相棒としては文句のつけようのない男だ。協力したい気持ちはある。あるのだが、二人部屋となるといつ何時、他人の夢を覗くことができると知られるかわからない。

 道中の野宿でも夢に落ちてうなされ、見かねたゼロに起こされることが何度もあった。日中の眠気に抗えず寝てしまうし、あまりにも頻繁なので言い逃れもできず、その時は夢見が悪いとだけ説明していた。慣れない野宿や疲れのせいだろうと納得していたふうだったので精霊の力には触れずにいたが、同室ならば困ったことになる。

 距離が縮まる、それはすなわち、胸の奥にしまってある秘密に近づかれるということだ。夢を渡るだけならいい、この眼が人を支配できること、してしまったことを知られたくはないし、もしかするとシャイネの知らない精霊の能力が悪さをするかもしれない。

 あの夜、キムの眼に浮かんだ光とわが身に刻まれた浅ましさは、まだ鮮明に思い出すことができる。黒い眼に金茶の光を浮かべたゼロ、その長い手指に捕らえられるところを想像するだけで震えが走った。


「僕……寝言激しいから。できれば別々の部屋がいい」

「そうか」


 嘘ではない。答えるのに要した時間が長すぎることを気にした様子もなく、ゼロは腕を組んだ。


「仕方ないな。おれは安いところに泊まるから、あんたは好きなのを選びな。一緒の宿にしなきゃならない理由もないし」

「まあ……そうだけど」


 断言されるのも腹立たしいのは何故だろうか。

 かく言うシャイネとて、どれほどここに滞在するかまったく読めないのだ。日雇いの仕事は探すつもりだが、楽観視はできない。

 宿を別にするのも面倒で、結局えいやと飛び込んだ宿でシャイネは中の中、ゼロは下の上、といった格の部屋に滞在することを決め、荷物を置いて身軽になってから落ち合った。精霊封じの工房を訪ねるためである。

 便宜をはかるのではなく、挨拶のためだ。鍛冶屋の半精霊にディーを会わせたかったし、半精霊どうしで話も合うかもしれない。精霊の使い方、親しみ方、そして、半精霊だと名乗って暮らすことについて。訊きたいことはいくらでもある。


「先に薬草屋に寄っていいか」


 道中、早起きしてせっせと集めた薬草類を金に換えると言うゼロに従って、薬草店を探した。

 飛び込みで買い取りを受けてくれる店は多くないそうで、カヴェでは馴染みの店と売買契約を交わし、ゼロは決まった店にだけ薬草を売っていた。逆に、店から依頼を受けて郊外まで薬草や茸、苔などを探しに出ることもあったそうだ。

 たて続けに二軒断られ、値段の折り合いがつかない、一見さんの買い取りはしていない、などの決裂を経て、五軒めでようやく条件の合う店に行き当たった。

 店番をしていた中年男性ふたりは、昔は旅人だったのだと笑顔で語った。細やかな商談をするためゼロが奥へ招かれ、手持ちぶさたのシャイネはぼんやりと店内を見て回る。

 知識のない一般人が化膿止めや火傷の軟膏、咳止めの水薬を求めるための店ではなく、薬問屋に近いようで、木の根や乾いた草、なにがしかの薬効があるのだろう萎れた花束が陳列されているが、これらをどうすれば薬になるのかはとんと想像がつかなかった。判別できたのは、ゼロに見せてもらったことのあるスチャヤの根だけだ。

 店内が薄暗くなって、夕暮れの気配が迫っていることを知った。まだそんな時間ではないのに、と思うが影の色はずいぶん濃い。窓から外を覗いて、「背骨」が西にあるせいで日が落ちるのが早いのだとわかった。空はまだ青みを残しているが、間もなく暗くなるだろう。

 店番のために残った男性に背を向けるが、既に光る眼を見られてしまったようで、ずいぶん強く睨まれていた。精霊封じの武具を求めて世界中から人々がやってくるのだから、精霊も半精霊も暮らしに溶け込んでいるのかと思っていたが、そうでもないらしい。

 半精霊であることを隠さずともよいのかと期待していたが、甘かったようだ。何か言われる前に外に出てゼロを待つ。

 精霊の存在が周知されていても、こんなに睨まれるなんて。


「がっかりだな。思ってたのとは違うみたい」

『期待しすぎるなよ。あとさぁ……』

「なに?」


 人通りが多いから、小声で会話するくらいなら見咎められない。珍しく、街中で話したそうにしているディーを促すと、かれは不機嫌そうに唸った。


『なんかやな感じがする。魔物とかじゃなくて……なんだろ』

「ディーにわからないものが僕にわかるわけないだろ」


 そうなんだけど、とぶうたれるディーがふと言葉を切った。鮮やかな精霊の気配に、シャイネも顔を上げる。こんな街中で出会うことになるとは。通りの向こうから近づいてくる。


『うわあ、炎だ』


 喜んでいるのか嫌がっているのか、ディーは落ち着きがない。鞘を撫でて、目を凝らした。

 燃えるような赤毛が海風になびいている。幼い顔立ち、深紅に輝く眼。そろそろ見慣れた前合わせの衣服の下、ズボンは短く膝がむき出しで、よりいっそう溌剌とした印象を受けた。構えた様子もなく、ちょっと買い物に出てきたと言わんばかりにぶらぶらと歩いているが、間違いない、まっすぐにこちらに向かっている。


「見つけた」


 くしゃりと笑って、小走りにやって来た少年は右手を差し出した。


「初めまして、オレ、イーラっていいます。おにいさ……ううん、おねえさんか、闇のひとだね、すごくきれいな眼をしてる。オレはね、炎。見ればわかる? あはは、よく言われる」


 手を握り返し、シャイネです、と名乗る。彼は繋いだ手を両手で包み込んで頬ずりせんばかりだ。

 街中でなんてことを、と思うが、肩あたりにある視線は熱っぽくきらめいて、思いのほか力が強い。振りほどくのもどうかとされるがままにしていると、店から出てきたゼロがぎょっとした様子で身を引いた。


「何してるんだ」

「ええと……親交を深めてる?」


 イーラはゼロを見上げ、頭のてっぺんから爪先まで何度か視線を往復させて、それから首を傾げた。この暑い中、黒ずくめの旅装が悪目立ちしている。


「こちらはゼロ。ここまで一緒に来たんだ。かれはイーラ。炎の半精霊」

「あっ、違うんだ、シャイネ」


 少年に袖を引かれる。日に灼けた肌によく映える白い歯を見せて、にっと笑った。


「精霊」

「えっ」

「炎の、精霊。どう、びっくりした?」

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