静穏の彼方へ (5)

 冷静さの仮面をかなぐり捨て、ユーレカが憤然と立ち上がった。細く開いた扉に容赦なく拳を打ちつける。殴ったとしばらく気づかぬほど、彼女の行動は突拍子もないものだった。


「あなたに来客の有無まで報告せねばならぬいわれはありません!」


 今までの礼儀正しさは何だったのか。言葉遣いは丁寧だが、ユーレカの口調は鞭打つ激しさである。表情も険しく、ともすると歯を食いしばる音が聞こえてきそうだった。


「そこをどけ、ユーレカ」

「わたしに命じることができるのは隊長のみです、司教殿」


 司教殿、という言葉に眉が寄る。件の新任司教だろうか。レイノルドはすっかり無表情に戻っていたが、冷たい炎は隠しきれるものではない。ゆらりと立ち上がった姿から感じる静かな怒りに、身体が強張る。夢で見た光景と似ているのだ、と思い至った。


「黙って見ていろと、言ったはずだが?」


 ユーレカに並び、レイノルドが温度のない言葉を発する。戸口を塞いでいる様子からして、よほど入ってこられたくないのだろう。

(……どうしてだろ)

 石の件については司教だけでなく神殿全体に管理責任があるはずだ。どれほど神官と青服たちが険悪であっても、職務に私情を持ち込むような真似はするまい。そもそも無責任の発端は司教だ。それなのに、彼を部屋に入れたがらないのは――石を持つシャイネらと接触していることを知られてはまずいからではないのか。

 つまりは、レイノルドの独断。

 いや、独断で金貨二百枚などそうそう出せるものではない。とすると、神殿の帳簿をごまかすなり何なりの手段が必要で、やはりシャイネらとの接触を知られるわけにはいかない。

(わああちょっと待ってこれどういうことなの……)

 頭を抱えていると、隣のゼロが無言で立ち上がった。表情のないまま扉に近づき、レイノルドたちが止める間もなく、廊下を覗いた。


「あ」


 進入を阻まれている司教の声は短かったが、くっきりと驚きに彩られている。苦いものを食べたときのように、ゼロの横顔が歪んだ。

 自分ひとりが座っているというわけにもいかず、揃って高い位置にある肩の隙間から覗き見ると、こちらを睨みつけている黒長衣ローブ姿の青年とぴたりと目が合った。


「……え?」


 間抜けな声が転がる。司教の顔は、ゼロと同じだった。いや、同じ顔なのにちっとも似ていない。

 黒い髪と黒い眼。目元や鼻、唇の形。矢のように、夢で見た光景が飛来する。アーレクスには、姉と弟がいるのだ。夢に登場しなかった弟が彼か。

 顔だちが似ているからこそ余計に、ふたりの雰囲気の違いは際立っていた。

 滑らかな白い肌と薔薇色の頬、育ちのよさを感じさせる司教に対し、ゼロの面立ちはどこからどう見ても、自分の足で立つ旅人だった。黒い長衣に包まれていても明らかな薄っぺらい身体、旅装越しにでも感じられる鍛えられた筋肉。年齢はさほど変わらないだろうに、どこか茫洋とした眼差しの司教と、鋼の強さ、冷たさを抱くゼロ。

 ゼロと同じ顔が司教の長衣を着ているのがたまらなく不愉快だった。まったく自分勝手なことではあるけれど。


「本当に、生きていたんだな……アーレクス!」


 数呼吸ぶんの白けた沈黙のあと、最初に言葉を発したのは司教だった。彼の表情と声は驚愕に彩られ、それと同じくらい嫌悪と憎悪を帯びている。夢の中で、アーレクスの姉が見せたものと同じだった。

 激しい語調に、ゼロの生存を喜ぶ響きはない。

 ユーレカとレイノルドが浅くため息をつくのを、シャイネは確かに見た。この青年の乱入によって、彼らの計画が狂ったのだということがはっきりわかった。

 計画の狂い。

 ゼロが不機嫌に舌打ちをしたことで、シャイネは深く考える機会を失った。すなわち――レイノルドたちが司教を遠ざけたのは、神殿内部の対立ゆえやシャイネへの配慮などではなく、ゼロと司教の関係ゆえではないのか、ということを。


「誰だ」


 地を這うゼロの低音に、青年司教が怯む。が、次に浮かべた表情は、鮮やかな怒りだった。レイノルドの腕をかいくぐって突進してくる。長衣を掴むべく手を伸ばしたユーレカを、青灰色の視線が止めた。様子を見ようということらしい。


「弟の顔も忘れたようだな、この恥さらしめ」


 言い捨てたその顔が、再びシャイネに向けられる。紅潮した顔に冷笑が浮かび、形のよい唇が歪んだ。

なぜ、初対面の彼に笑われなければならないのか。ふつりと理不尽の泡が弾ける。


「この半精霊も、一体どこで見つけてきたんだ? 本当にお前は節操がないな! 汚らわしい、どこまで家名を汚せば気が済むんだ」


 司教の言葉に、怒りが沸騰した。


「ふざけるな!」


 叫んだのは、シャイネだったのか、ゼロだったのか、それとも。目の眩むような激情が、動きを鈍らせた。

 躊躇なく動いたのは、司教だった。ゼロに向け、右手に握った短剣を振りかざすが、使い慣れていないというのは一目瞭然、型も何もあったものではない。シャイネは稚拙な動きで振り下ろされる短剣の形に目をやった。

 やけに分厚い片刃の短剣、背側の鍔に近いところには鍵にも似た凹凸が刻まれている。その用途に思い至った瞬間、刺突剣の柄に手をかけていた。が、間に合わない。

 司教は、非常に幸運だった。逆に言えば、ゼロはとてつもなく運が悪かった。

 彼は短剣の一撃を最小限の動きで躱し、抜剣しながら踏み込んだ。しかし、傷が痛んだのだろう、身体の軸がぶれる。淡く光を放つ剣を振ることはできたが、勢いはない。

 司教が短剣を引き戻したところへ、ゼロの長剣が吸い込まれる。背の凹凸に、刃が食い込んだ。

 いけない、と思ったが、鈍重な身体は言うことをきかず、声も出なかった。

 今すぐ剣を手放さねば、そのまま力をかけては折れてしまう。見慣れぬ凹凸は剣を折るためのものだと、彼は気づいているだろうか。

 ゼロが剣を引こうとしたのは無意識の動きだったに違いない。中途半端な姿勢から繰り出された剣を戻そうと手首を返すのと、司教が勢いよく腕を持ち上げたのは同時だった。

 長剣に、亀裂が走る。

 きん、という澄んだ金属の音が、シャイネには封じられている風の悲鳴に聞こえた。身悶えするような、悲痛な叫びに胸が詰まる。


『アーレクス!』


 風の悲鳴に呼応するように、ディーが猛り狂い、暴れた。


『てめえ、何てことしやがる!』


 ゼロが剣から手を離す。無理に握っていれば、手首を傷めたかもしれない。勝利に酔いしれる司教に、シャイネはようやく右腕を突き出した。

 遅すぎる一撃。その苦さを捻じ伏せたのは、耳にこびりつく風の悲鳴だ。

 刃を絡ませ、捻りあげて短剣を奪い取る。驚きに目を見開く司教を、できうるかぎりの鋭さで睨みつけた。

ディーが激怒し、暴れているのに同調し、怒りに任せて叫ぶ。


『ディー!』


 やっていい、とは言わずとも伝わる。

 耳の奥に鋭い痛みが走り、すっぽ抜けた短剣がふたつに折れ、窓ガラスが粉々に砕け散ったのは、ほとんど同時だった。




 派手な音をたててガラスが床に流れ落ち、困惑の悲鳴と怒声が神殿を揺さぶる中、レイノルドの判断は迅速だった。指示は簡潔に一言、「逃げろ」。

 目配せを受けたユーレカが前に立ち、ゼロの歩行を助けてくれた。神殿中のガラスというガラスが割れ、床や道路に散らばっていた。格子のみが残る窓からは晩春の海風が楽しげに出入りし、色ガラスの粉をあちこちに散らす。

 ゼロに寄り添うユーレカは脇目も振らず階段を下り、右往左往する青服や神官をすり抜けて神殿を出て通りを渡り、裏道を進む。

 その足取りに迷いはないが、美貌は沈黙したきり何も語らない。

 レイノルドが何を考えているのか、何を望んでいるのか、こうしてシャイネたちが逃亡することは計画の失敗なのか、それとも。

 任務とレイノルドに忠実なユーレカがこうして脱出に手を貸してくれるのは、シャイネとゼロが捕らわれたり、司教の目の届くところにいてはまずいということだろう。

 石を奪うだけならば、気を失っているシャイネを盾にすることも、問答無用で切り刻むこともできたはずなのに、どうしてわざわざ同じ卓につくようなことをしたのだろうか。

 考えれば考えるほど、レイノルドの思惑がわからなくなる。「バスカーの手の者と思わせたかったから」という理由で、ゼロを斬るだろうか。ふたりにはもっと、複雑な事情がある気がする。夢で見た光景よりも後に起きた何かが絡んでいるに違いない。

 何の説明もなく、何の弁解もなく、こうして放り出された混乱は大きい。だというのに、かすかな安堵も芽吹いている。

 レイノルドが目的のために手段を選ばないような人でなくてよかった。あの騒乱の渦中から逃がしてくれたということだけで、シャイネが抱いていたかぼそい信頼の糸は保たれた。それが、何よりも嬉しい。

 半精霊を妻にした、ゼロの元上官にして義兄。彼が味方であってほしいというのは、甘えた願望にすぎない。自分の好意や期待に沿った独善的な現実に浸っているだけかもしれない。それでも、胸に灯った火は明るく温かかった。


「シャイネさん」


 やがて、ユーレカがシャイネに声をかけ、足を止めた。どこをどう下ってきたものか、いつしか高台を抜け、市街に入ったようだ。並ぶ家々の様子が全然違う。周囲を見回しても、青服の姿はなかった。


「この道をまっすぐ下れば、宿屋街を抜けて東門のそばに出ます」


 と、細い道を指差す。見る限り、道はぐねぐねと折れ曲がっているが、まっすぐ、というのであれば迷わないだろう。


「有難うございます。……あの、ご迷惑だったんじゃ……」


 まったく表情を変えないユーレカに頭を下げると、ようやく彼女は微笑んだ。同性のシャイネがどきりとするほど、魅惑的に。


「悪いのはアンリ司教ですから」


 表情とは真逆の、刺々しい言葉には答えられない。司教の侮辱の言葉は許せないが、簡単に同意していい話題でもなかった。

 戸惑いを察したのだろう、彼女は苦笑した。


「……お渡ししたいものがあります。夕刻に東門で落ち合えますか?」


 思いもよらない申し出に、ぽかんとする。渡したいものと言われても、心当たりがない。それとも何かの口実だろうか。有無を言わせぬ雰囲気に押されて、渋々ながら頷いた。


「はあ……」

「うまく姿を隠してください。荷はすぐに回収して、宿は引き払って」

「ええ、わかってます」

「それでは、後ほど」


 とびきりの笑顔と美しい礼を残して、ユーレカは坂を上り、姿を消した。姿勢の良い後姿を見送り、盛大なため息をつく。

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