静穏の彼方へ (3)

 客間に入ってきたのは、五人。全員抜剣している。入り口を塞ぎ、油断なく部屋中を見回した彼らの視線が、シャイネのところで揺らいだ。人相書きがすでに回っていたのか。

窓は大きく、格子はない。外に人がいても勢いで逃げられるかもしれない。機を窺うのだ。伝わればいいなと思いながら軽く頷く。

 ゼロは応じて剣の握りをずらした。いつでも抜けるようにしている。唯一動じていないバスカーが、変わらぬ調子で唾を飛ばしながら喚き散らした。


「な、な、なんだ、お前たち! 誰の許しを得て、ここまで来たっ!」


 威厳も貫禄もあったものではない。青服たちは微動だにしなかったが、廊下から聞こえた声に、姿勢を正して剣を立てた。


「私ですよ、バスカー殿」


 シャイネはその声に頭を殴られたような衝撃を受けたが、肩を強張らせているのはゼロも、そしてバスカーも同じだった。

 廊下から悠然と現れる、濃紺の制服の男。きっちり二歩ぶんの距離を開け、付き従うのは藍色の制服の女。ふたりに足音がなかったのはもちろん、気配さえも感じられなかった。

血の気が引いていく音を聞きながら、シャイネは剣を抜くこともできず逃げることもできずに立ち尽くしていた。


「お取り込み中のところ、申し訳ない。こちらに半精霊が逃げ込んだと報せがあって、こうして駆けつけた次第です」

「……神殿長……きさま」


 何か言いかけたバスカーが一瞥で沈黙に追い込まれる。

 その眼が――青みがかった灰、曇り空の眼がシャイネとゼロを交互に見て、薄く笑んだ。


「神殿までご同道頂けますか、半精霊のお嬢さん?」


 レイノルドの声はあくまで穏やかで、静かで、だからこそ泣きたくなる。

 彼の口調は、昨日、シャイネを庇い、昔語りをしてくれたときと全く同じだった。

 青服の追跡から庇ってくれたレイノルドが、当の女神教の制服を着ている理由がわからなかった。色は濃紺、黒に近いほうが高位を示すというのに、彼の色が誰よりも暗いのはなぜだろう。


『関わりがないとは言わない。連中が私に丁寧なのは、上の方とつながりが深いからだ』


 彼は女神教との関わりを否定しなかった。副神殿長と近しい、ということまで言った。彼自身もまたそうだとは一言も口にしなかったけれど。

 半精霊を妻とし、慈しみ愛した人が青服たちを束ねる立場にあるのは、なぜだ。

 半精霊への愛を語り、シャイネを庇いながら、女神の教義をうべなうのか。


「……レイノルドさん」


 呟きに、彼は少しだけ目を細めた。

 柄を握る右手が痺れるほど、ディーが暴れている。

(……ああ、そうか)

 雨の中でレイノルドに出会った時にディーが震えたのは、追ってくる青服を警戒したのではなくて、目の前の、この男への不安だったのだ。

 ゆっくりと近づいてくるレイノルドに対し、罵ることも、立ち向かうことも、問いかけることもできなかった。頭がぐらぐらする。

 認めたくなかった。騙されたとは思いたくなかった。

 ただ、彼の曇り空の眼を見ていた。

 空は平らかで、穏やかで、残酷で、とびきり美しく、痛いほどに悲しく、虚ろな誓いだけを有している。


「剣を」


 ディーを渡せ、と言われても、反応できなかった。身体が凍りついて、指一本たりとも思い通りに動かせない。

 レイノルドはいっそ緩慢ともいえる動作で剣の柄を握るシャイネの指を解き、剣帯の留め具を外して刺突剣を奪った。片膝をついて、見上げてくる。


「君に、嘘をついたことを謝罪しよう。私は、沈黙することで誠実であれという誓いを破った」

「あなたはもう、騎士じゃないから」


 彼の眼にかすかな戸惑いが閃き、シャイネは夢で得た知識を口にしてしまったのだと知った。それを撤回するのも、弁解するのも意味がないと思えて、黙る。


「……その通りだ、シャイネ」


 彼はシャイネの両手に枷をはめた。枷につながれた細縄を、青服の一人が引く。逆らわずに歩いた。

 見れば、ゼロも無抵抗だった。藍色の制服の女に剣を渡し、両腕を縛められている。気遣わしげな視線とぶつかったが、どういう表情をすればよいのか、何を言えばよいのか、わからない。

 先程までの喧騒が嘘のように、バスカーの邸宅は静まり返っていた。廊下や階段、玄関など、要所要所に青服の姿がある。その指示を出したのがレイノルドだということを、未だに信じることができない。何も言えない。言葉が浮かばない。冷たいくちびるが震えて中途半端な吐息だけがこぼれる。

 玄関に横付けにされていた神殿の馬車に乗せられる。どうして。ぽつりと落ちる言葉に、答える者はない。




 遠い汽笛の音で、はっと目が覚めた。

 身体が痛かったが、寝返りをうつことさえ億劫だった。胃がぐるぐるとむず痒く、吐きそうだ。丸まっていたい。


「起きたか?」


 ゼロの小声は低く掠れている。真上に顔があって、ひとりきりではないことにほっとした。

 頷きつつ身じろぎすると、彼は頬を緩めて頷きを返してくれた。両目を手で覆って、そのまま、と言う。視界が奪われることに不安はなかった。

 そのままじっとしていると、焼けつく喉の奥の痛みも吐き気も、徐々にましになった。


「具合、どうだ?」

「……だるい。吐きそう」

「ぶっ倒れて少し吐いたんだよ。首とか肩とか、痛くはないか。頭上げてるからこのままでな」


 じんとした熱を持っている目に、大きな手の冷たさが心地よかった。ふと、頭の下にある硬いような柔らかいような温かいものは、もしやゼロの脚なのではないか、という疑問が芽生える。問いかける気力はない。


「気分は?」

「死にそう」

「……金貨八十枚のことを考えてろ」

「死にきれない」


 そりゃよかった、とゼロがため息をつく。彼が喋ったり、身じろぎするたびに頭の下がゆらゆらと揺れた。声が直接身体に響く距離、その安堵に、どうして彼は心配りがこんなに上手いのだろうと僻みに似た気分になる。素直に感謝できないのは、同じだけ返せていないと感じるからだ。彼はそれも面倒だと一笑するのかもしれないけれど。

 ゼロといると、どうも気が緩んでしまう。ひとりで旅をしているときなら、こんなふうに思うことはなかっただろう。彼も同じなのか尋ねてみたい気もしたが、それはさすがにこらえた。わざわざ自分から、心細く思っていると白状することはない。

 心臓の音を数えながら呼吸して、気持ちを落ち着かせる。ふつうに話せる自信がついてから、慎重に口を開いた。


「ここ、どこ?」

「支部神殿。……の二階の、神殿長の執務室。いまは無人だ。さっきまで、神殿長……レイノルドときつそうな栗毛のおねえさんがいたけど」


 そう、石を売りつける交渉はうまくいったのだ。

 そこへレイノルドが現れ、馬車に乗せられて神殿まで護送された。シャイネは馬車から降りるなり、気を失って倒れたのだという。


「疲れてるんだろう。熱もあるみたいだし……寝心地は悪いだろうが、横になっておけ」

「違う、昔から神殿とか、あんまり好きじゃなくて」


 女神に関わるものとは、相性がよくない。この異常なだるさもきっとそのせいだ。


「窓、開けられそうだったら……開けて」

「あー、ちょっと待ってろ」


 頭が持ち上げられ、一度平らなところに寝かされた。ゼロが脚を引きながら歩いている音がして、悪いことを頼んだなと罪悪感がよぎる。

 やがて窓が開き、空気が動いた。肌をくすぐる海風は今日も陽気で、流れ込んでくる潮の香りに泣きそうになった。


『風を入れて』


 風を召び、部屋中を巡らせて換気する。何気なくしたことだが、ゼロの剣に宿る風の不在に気づいた。ディーもいない。剣は取り上げられたままのようだった。

 重い空気が一掃されてからそろそろと身体を起こした。万全の状態とは程遠いが、起きて座っているくらいであれば問題なさそうだ。

 毛布代わりに被せられていたゼロの外套を返し、部屋を見回した。

 広さはちょうど、バスカー邸の客間くらいだろうか。書類や算盤、筆記用具が散らばった大きめの執務机と本棚。壁に無雑作に貼られた街の地図は、日に灼けて黄ばんでいる。毛足の短い絨毯は深い青だったが、あまり手入れされている様子はない。

 出入り口は、両開きの扉がひとつと、扉の正面、やや左寄りに切られた窓のみ。執務机の斜め前、窓に向かい合わせるように、シャイネが座っている長椅子と、低い木の卓が置かれていた。

 鉄格子の中かと思っていたが、拘束も解かれているし、逃げようと思えば窓から逃げられる。レイノルドは半精霊をよく知っているはずで、手落ちではなかろう。不用心なのか、倒れたシャイネを抱えたゼロには身動きが取れまいということか。


「丁重な扱いではあるけど、たぶん容赦はされない」

「なんで、捕まったんだっけ」


 言うと、ゼロは呆れ顔でシャイネの額を指してみせた。そうだった。


「でも、口実だろ」


 レイノルドがバスカーのところにやってきた理由がわからなかった。シャイネを、半精霊を捕らえるためなのか、それとも石の件か。


「どうだかな。起きても大丈夫なのか」


 たぶん、と呟く。窓を開けただけでずいぶん身体は楽になっていた。

 神殿の近くや、神官たちの傍にいると、気分が悪くなる。神官たちが精霊、半精霊に向ける負の感情は青服の何倍も大きいから、この部屋が司教の執務室だったら、空気を入れ替えても起き上がることはできなかっただろう。とりとめなく話すと、ゼロは何ともいえない微妙な顔をした。


「まあともかく、無理はするな」

「しないよ。女の人もすごく強そうだったし……正面からはぶつかりたくないな」

「ああ……相変わらず向こうの考えはわからないし」


 バスカーは洞窟の石を欲して、シャイネらを雇った。石を回収し、口を封じるために追っ手をかけた。

 レイノルドもまた、洞窟に居合わせた。例のものを寄越せと言い、ゼロを傷つけたうえで逃がし、青服に追われるシャイネを助けた。そしてバスカーの邸宅に乗り込んで、ふたりを捕らえた。

 レイノルドの目的は何だ。石か。ゼロが知己であったから殺さずにいたのか。バスカーと通じているのか、いないのか。青服とともにバスカー邸に踏み込んできたときの様子からするに、良好な関係ではなさそうだったが。

 どうにもすっきりしない頭を抱えていると、控えめに扉が叩かれて、藍色の制服の女が入ってきた。

 肩の上で波打つ豊かな栗毛、涼しげな目元と長い睫、赤い唇が人目をひく、とびきりの美人だ。筋肉質な硬い身体つきにも関わらず、胸から腰にかけての曲線は見事だ。制服の胸元が窮屈そうだ。歳はゼロと同じくらいだろうか。濃いめの化粧が、きつい面立ちによく似合った。

 そのふくらみに目を奪われ、いいなあ、とぼんやり思っていると、ゼロも今改めて気づいたといわんばかりに、同じところを凝視していた。慌てて視線を逸らす。

 彼女は長椅子の手前で歩みを止め、右手を胸に当てる正式の礼をとった。右の腰に吊られた長剣に、小さなため息がこぼれる。精霊がいる。


「先程は、大変失礼をいたしました。わたしはユーレカ・ベーリング、副神殿長を務めております。……お加減は、いかがですか」


 驚くほど、丁寧な礼だった。敵意や害意はなく、心からの労わりが感じられる。


『ご主人は半精霊の敵じゃないわよ、姫様』


 つんと気取った炎、けれどユーレカを慕っているのがよくわかる。


「……あ、いや、まあまあです」


 戸惑いが如実に表れた返答に、ユーレカと名乗った女は微笑した。ふくらんだ蕾がほころぶような、匂いたつような色っぽさにつられかけ、はっと表情を引き締める。

大人の色艶、シャイネを逆さまにして振っても出てこず、どこにいますかと探しても徒労に終わるというのに、あるべきところにはあるのだ。

 ゼロが姿勢を正したのを目の端に捉えて、切られちゃえばいいのに、とちらりと思った。


「ご無理なさいませんよう。隊長――レイノルドが戻るまで、わたしがお世話をいたします」

「お世話?」

「隊長のお客人という扱いになっているのです。バスカーの邸宅に同行したものは、見聞きしたことを漏らさぬよう、誓いを立てておりますのでご安心ください。……半精霊に偏見のない者を選抜したつもりです。剣もお返しします」


 差し出された剣を傍らに置く。神殿内だからか、ディーも風も不機嫌そうだ。ユーレカの炎とも打ち解けようとしない。

 バスカーの屋敷に乱入して神殿まで連れて来たやり方に比べ、剣を返したりシャイネが半精霊であることを広めない配慮をしたりというのは、ずいぶんと好意的だ。そのちぐはぐさが違和感と警戒心を呼び起こすが、彼女を見ている限りでは、すぐに危害を加えられるわけではないらしい。

 レイノルドの思惑がさっぱり読めず、困惑する。

 半精霊の妻を持つク・メルドルの騎士団長が、どんな曲折を経てカヴェほど大きな街の神殿長となったのか、知るすべはない。ク・メルドルの滅亡後、わずか三年足らずで神殿長の位までのし上がり、青服たちを掌握し、忠実な側近を育て上げる統率力は、騎士団で培ったものだろう。

 彼女の葡萄色の眼に浮かぶ揺るぎない尊敬と憧憬と信頼は、ここにはいないレイノルドに向けられている。


「ご不便でしょうが、どうか楽になさってください。神職の者はここには入れませんので。……すぐに食事をお持ちします」

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