目覚め (3)
「その……おれを助けてくれた日、何かあったのか」
「何かって?」
「事件とか、戦とか」
ああ、とヴァルツは頷く。銀の髪が揺れて光が舞い散る。この、無駄に美しい造形は何とかならないものだろうか。
下心に点いた火は、淡々とした声音にかき消された。
「あった。街が、ひとつ滅んだ。ク・メルドルといってこの国の首都だ。だから私がここに来た」
「え……? ほ、滅んだってどういうことだよ」
「人が死んで建物が壊れた。今は誰も住んでいないと思うし、住める場所でもない。
生き物の気配がないんだ……精霊も、魔物も、何の気配もない。瓦礫と死体だけが残っていた。君は、街から離れたこの森で倒れていた。ずたぼろになって」
ヴァルツは足を止めた。表情に乏しい人形の面に、はっきりとした恐怖が浮かんでいる。
「おれは、それの生き残りってことか……?」
「そうかもしれない。私には何とも言えない」
「おれだけが生き残ったってことは、おれがやったのかも」
冗談のつもりだったが、すかさずヴァルツは否定した。そんなはずがない、と。
「無理だ。あれは、人間にできる破壊ではない。私たちにだって、できない。あんな……徹底的に、根こそぎ殺してしまうなんて」
青ざめるヴァルツに、かける言葉も見つからない。精霊、この世ならざる存在をこれほどまでに恐怖させるとは。飄々としているか、唇を歪めて笑っているかだったヴァルツの怯えようはただ事ではない。
ク・メルドル。深く関わる場所であったのだろう、音に覚えはあるが、どんな場所であったのか、記憶はない。それが、滅びた。住人たちは死に絶え、街は瓦礫の山と化した。ゼロは一人、瀕死で倒れていた。
関連がある、と考えるのが当然だろう。
「怖いのか」
「わからない。……ただ、もう二度と近づきたくない。身体が削がれていくような……ものすごく嫌な感じがしたんだ」
震えるヴァルツを抱き寄せる。優美な痩躯は両の腕にすっぽり収まるが、背丈はゼロとさほど変わらない。未だに男性なのか女性なのかわからないヴァルツに欲情したわけではないが、必要ならいつだって頷ける。これは、初めての感覚のような気がする。腕が伝えてくる困惑を、ゼロは新鮮な気持ちで受け止めた。
人とは違うかたち、違うやりかたで生きるヴァルツに、人と変わらぬ体温があるのが不思議だった。
「精霊にも体温があるんだな」
背中を撫でてやる。折れそうに細く、厚みのない体躯だった。かといって女性のしなやかさも薄く、やはり男女どちらとも言い難い。特別念入りに手入れしているというわけでもなさそうなのに、腰まである銀髪は水のように指の間をすり抜けてゆく。
「体温? ああ、これは、そういうふうにしている」
「意味がわからん」
「こちらの世界用の入れ物だということだ」
こちらの世界? では、あちらの世界などもあるのか。
「光る眼は?」
「これは目印。精霊や半精霊はみんな同じ眼をしているんだ。ああ、覗くなよ、闇や
誰にとっての目印なのだろう。ちっともわからないが、はあ、と頷いておく。背をさすり続けていると、棒立ちだったヴァルツがやがて、迷惑そうに身を引いた。
「君は、前からそうだったのか」
「そうって」
「見境がない」
容赦のない一言だった。思わず吹き出す。
「だって、あんたは綺麗だ」
「だからこれは入れ物だと言っただろう。私の本質はこれではない」
「わかるように言ってくれ」
髪を撫で、額や頬に唇を寄せる。滑らかで、手に吸いつく肌に腹の底が熱くなる。人にそうするのと変わらない気がした。
「わからせてやる」
不意に肩を押され、よろめく。ヴァルツの眼が一瞬強く輝き、その姿が萎んだ。
「……うわぁ」
『こういうこともできる』
銀色の毛並みの山犬――否、狼は輝く翠の眼に濃い軽蔑を浮かべる。
『私たちがこちら側で取る姿は、仮のものにすぎない。さっきの人の形も、この狼の形も。……それから』
ヴァルツはすらすらと喋る。狼の口は動いていないのに、声だけが聞こえるのは不思議な感覚だった。
『一応、私は森を統べる王だ。敬えとまでは言わんが、もう少し遠慮しろ』
「偉いのか?」
『……もう、いい。好きにしてくれ。調子が狂う』
深々とため息をついている。理解し合えないならもっと話し合うべきではないか。相互理解、これ重要。思ったが、口にはしなかった。拗れるのは目に見えている。
「わかった。悪かったよ」
ヴァルツは半眼でこちらを見上げた後、再び人の姿に戻った。人里に出るのだから、狼の姿はまずい、と言って。
「君は変わっているな。人は私たちに距離を置くものだが」
「女神教がそう言ってるからだろ」
異端。……この、ヴァルツが? 命の恩人だ。
「それもあるが……人間とは根本的に違う存在だからだ。魔物と同じだ」
「魔物も精霊なのか?」
「そんなことは言っていない。私たちとあいつらは全く違う存在だ」
「人間も精霊も魔物も、全部違うってことか」
そうだ、とヴァルツは頷く。子どもでも知ってるぞ、と口を尖らせる。
「念のため言っておくが、私と交わろうとしても無駄だぞ。身体のつくりが違う……どうして残念そうな顔をするんだ」
「残念だから」
「馬鹿なことを言ってないで、歩け。日が暮れるぞ」
鋭い言葉に尻をはたかれ、再び歩き始める。どれほど広大な森なのか、歩いても歩いても終わりが感じられず、人もいない。思考はひとりでに、滅びた街へと落ちてゆく。
そもそも本当に自分は生き残りなのか。誰がどうやって、何のために街を滅ぼした?
それを為した誰かと、生き残ったゼロがいると考えるよりは、ゼロが街を滅ぼしたと考える方が自然ではないか。どちらにせよ、街を滅ぼす理由と、手段があったはず。一振りの剣から果たしてそこまで調べることができるだろうか。
少なくとも、その間は生きるに値する。目的がある。空っぽのままであっても。
ゼロは息をつく。ヴァルツの肩越しに、木々が薄らいでいるのが見えた。
森の際にある村は小さかったが、ほどよく活気があった。森に沿って街道が通っており、宿場町として興ったらしい。
一軒きりの食堂兼宿屋には誰も客がおらず、ゼロとヴァルツの来訪は歓迎された。
「そう、あの日ですよ。うちの村のもんは誰も被害に遭わなかったんですがね、丁度うちを通ってク・メルドルに向かった隊商がありまして、引き返してきたその人らに聞いたんですよ。そりゃあもう酷い有様だったって」
老齢に差し掛かった夫婦ふたりで切り盛りしているという食堂で、塩漬けにした豚肉を焼きながら主人は言った。熱された鉄板を挟んで主人と向かい、ゼロは適当に相槌を打つ。ヴァルツを見るなり、別嬪さんだねえ、たまげたねえ、と鼻の下を伸ばした主人は、そのぎこちない表情を何ら気にしていないようだった。
水や皿を用意してくれた夫人も競うように話している。
「確かにね、夜中に地響き……って言うんですか、ずーんって、重い音がしたような気はしたんですよ。雷かしらなんて、大して気にも留めませんでしたけど、まさかそんな大事になってるなんて、ねえ」
「なるほど、被害がなくて何よりでした。ところで、こちらの剣に見覚えはありませんか」
ヴァルツが如才なく、ゼロの剣を見せる。殊更柄の彫刻を強調せずとも、夫婦は揃ってああ、と声をあげた。ゼロは無言で焼き野菜と肉を頬張る。身体が芯から温まってくる。熱い。そう、そうだ、こうでなくちゃ。
「これは、ク・メルドルの騎士様のですよ。王様が即位なすったときに、部隊ごとに剣と柄の意匠を揃えたんだとか。街の鍛冶屋がてんてこまいで、余所の街にも応援を頼んだんですって。近衛騎士様のなんて、はるばるマジェスタットで精霊封じの剣を
マジェスタット。近衛騎士。ゼロは呟く。
ヴァルツが頼んで、地図を書き写させてもらった。旅人にしては軽装で、地図も持っていないのかと怪しまれそうなところだが、人の好い夫婦は何も疑わず地図を出し、試作品だけど良ければ、と焼き菓子を盛って客室に運んでくれた。
客室は眺めの良い(田畑と森しか見えないが)角部屋だった。干したての布団はいい匂いがする。ヴァルツが森に用意してくれた寝床も柔らかく心地良かったが、寝台に横になって伸びをするのは格別だ。身体を投げ出して、ゼロは天井を見上げる。
「マジェスタット、と言ったな」
「大陸の東岸だな。ク・メルドルは西岸寄り。森がここで、この村は……このあたりか。遠いな」
地図を見る。西岸と東岸、旅をすれば金銭的、時間的にどのくらいかかるのか、想像もつかない。今日の食費と宿泊費はヴァルツが持つということで話はついているが、いつまでもたかりっぱなしというわけにはいかないだろう。
「どこか、もう少し都会に出て旅費を貯めたいな」
「北の港町はどうだ。カヴェという。賑やかだという話だぞ」
「こっちは? ここもずいぶん大きい街みたいだけど」
大陸の中央に描かれた街の印を指差すと、ヴァルツは鼻に皺を寄せた。
「そこは神都。女神教のお膝元だ。……私は行きたくないな」
「精霊を否定する大元だものな。じゃあ北だ。その、カヴェってところに行こう。港だ港」
「そんなに簡単に決めていいのか」
ヴァルツの小言は尽きないようだ。心配してくれているのか、とふと思う。
「いいさ。カヴェならあんたも来るだろ?」
「だから、そう気軽に私を誘うな」
「一緒にいたいんだ、あんたと。な?」
「……わかったわかった。マジェスタットまで同道する」
寝台に立てかけた剣がことりと音を立てたような気がしたが、ゼロは特に注意を払わず、カヴェまでの旅程を練り始めた。
何にせよ、先立つものがいる。
記憶だ滅んだ街だと言えば格好もつくが、食わねば悩むことさえできない。世知辛いことだとため息がこぼれた。
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