第18話、黄昏の水平線
途切れた雲の間から、真夏の太陽が顔をのぞかせている。
道路の端に、所々残る、水溜り。
里美は、運転席の窓ガラスを、いっぱいに開けた。
心地良い潮風が、車内一杯に入って来る。
( ・・気持ちいい・・・! )
道路右側に広がる、太平洋。
日の光を吸い込み、今、紺碧に輝き始める。
ついに、梅雨明け宣言が出された。 いよいよ、本格的な夏が始まったのだ。
今年は、どんな夏になるのだろう。
( チーフとの打ち合わせで、事務所を出るのが遅くなっちゃったわ。 隼人、待たせちゃってるな・・ )
渡瀬のジムでの集金を終え、里美は、カティ・サークへと向かっていた。 前日、用があり、実家に帰っていた隼人と、待ち合わせているのだ。 例によって、直帰の届けが出してある。 今日こそは、前に保科が言っていた、夕陽も見れるかもしれない。
里美は、ウキウキで車を走らせていた。
( 隼人にも、返事をしなくちゃ。 でも、どうやって切り出そうかしら・・・? 改まって言うのって・・ 何か、恥ずかしいなぁ・・・! )
先日、裕子に会った時、隼人は、里美への想いが変わっていない事を示唆していた。
・・・あんな、自然に言い表せたら・・・
そう里美は、思った。
( そう言うのって、ダメねぇ~、あたし・・・ 恋愛に関しては、ホント、不器用だわ )
午後3時を廻った、国道247号線。
始まったばかりの夏の中を、里美の車は、走る。
轍の跡だけが乾いた、果てなく続く、海岸通り・・・
海辺の上空には、カモメの姿が群れていた。
「 こんにちは~ 」
カラン、カランと、鐘が鳴る。
「 やあ、いらしゃい、吉村さん 」
保科が、カウンターの上を、ダスターで拭きながら出迎えた。
店内に入った、里美。
傍らのテーブルでは、洋志が、先客の後片付けをしていた。
「 いらっしゃいませ、吉村様。 先日は、どうも 」
にこやかに笑う、洋志。
「 こんにちは 」
里美も、笑顔を返す。
・・・胸は、トクンとは鳴らなかった。
なぜかは、分からない。
里美の心に、決心した指標が存在しているからなのだろうか。 隼人と歩むのだ、という指標が・・・
拭いていたダスターを、きれいにたたみながら、保科が言った。
「 先日は、良いお店を、息子にご紹介して下さったようで。 私も、そのようなお店が、あの近くにあったなんて、知りませんでしたよ。 今度、行ってみます 」
「 エスプレッソは、まあまあですが・・ こちらのコーヒーに勝る味は、出せていませんね 」
里美がそう言うと、保科は、嬉しそうな顔をしながら答えた。
「 有難うございます。 ・・いつもの、ブルーマウンテンで宜しいですか? 」
「 もちろんです・・・! 」
洋志が、里美に言った。
「 隼人・・ 待っていますよ? びっくりしました。 隼人と、お知り合いだったなんて・・・ いいヤツですので、宜しくです 」
そう言って、テラスの方を右手で案内した。
日が西に傾きかかったテラスのテーブルで、何やら、書き物をしている隼人の背中が見える。
( また、楽譜を書いているのね )
頭を、ポリポリとかく後ろ姿に、里美はクスッと笑った。
里美との事は、久し振りに再会した隼人からでも聞いたのだろう。 洋志の話し方からは、里美と隼人の間柄を、認知したような雰囲気が感じられた。
暗黙の了解だ。
大人の接し方のようでもある。 また、里美が洋志と交際する事を、望んでいるようにも感じられた。
それは、里美自身にとって、洋志への『 片思い 』の終曲を意味する。
( ・・これで良いのよ、これで・・・! あたしは、隼人と未来を共有するの。 そして、このカティ・サークへも、自由に、気兼ね無く来られるの。 これで良いの・・・! )
里美の耳に、聴き覚えのある曲が聴こえた。
「 ・・この曲・・・ 」
以前、隼人がライブをしている店で、聴いた曲だ。 確か、曲名は『 ラプソディー・イン・レイン 』・・・
店内に流れている、BGMのようだ。
天井際の壁に吊ってあるスピーカーに、目をやる里美。
保科が気付いたようで、言った。
「 隼人君のCDですよ。 先ほど、彼から買わせて頂きました。 良い曲ですね 」
どうやら、店内のデッキで掛けているらしかった。
ジャズも、中々、この店の雰囲気に合う。
出来上がったCDは、里美も先日、隼人からもらっていたが、聴きそびれていた。
保科が続けた。
「 2曲目の曲なんかは・・ 吉村さんへの、彼の心情がこもっていて、特に良いですね 」
意味ありげに、ウインクしながら言う保科。
「 ・・え・・・? 」
どうして保科が、里美と隼人との間柄を察知したのか・・・
里美は、情況が分からないまま、顔を染めつつも、意外な表情で保科を見た。 音楽をするもの同士の、特別な感覚なのだろうか? それにしても・・・
戸惑う、里美。
保科は言った。
「 ・・もしかして・・ まだ、ジャケットを、よくご覧になっていらっしゃいませんか? 」
「 ええ・・ 」
頷きながら答える、里美。
保科は、デッキの横に置いてあったジャケットを、里美に見せた。 里美自身が、デザインしたものだ。
保科は、ジャケットを裏返し、言った。
「 吉村さんのお名前が、タイトルになっている曲があります 」
「 え・・・・・? 」
里美は、保科のいるカウンターに近寄り、ジャケットを見た。
『 SATOMI 』
「 ・・・・・ 」
あの日・・ 久し振りに、隼人に会った日・・・ 確かに、曲名を書いたメモは、隼人からもらっていた。 しかし、内容は確認せず、そのまま里美は、印刷所へ渡したのだ。 全て、英文表記のタイトルだったからだ・・・
「 ・・隼人・・・ 」
ジャケットを見つめながら呟く、里美。
保科は、無言のまま、デッキのリプレイボタンを数回押し、曲の頭出しをした。
・・・隼人のピアノが、スピーカーから流れる・・・
しっとりとした、ジャズバラードだ。
『 ラプソディー・イン・レイン 』が、マイナー調で、『 夜 』の雰囲気がある曲だったのに対し、こちらは、同じマイナー調でも、静かな雰囲気のある曲だ。 お洒落なブティックなどに、流れていそうである。
アルトサックスが、隼人の奏でる旋律と絡み合い、まるで男女が、静かにお喋りしているようだ。
何とも落ち着ける曲である。
時折り鳴らされる、ライド・シンバルのサスペンド・・・
間奏のアドリブに入り、隼人のピアノが鳴る。 軽やかなタッチ。 自由でいて、繊細だ。
やがて、アルトサックスが、最初の旋律を奏でる。 それを追い掛けるように、隼人のピアノも加わった。
見事な、ハーモニックス。 優雅だ・・・
( ・・何て、美しい曲なの・・・! )
自分の名前が、タイトルとなった曲。 自分の為に、隼人が書いてくれた曲・・・!
・・・里美は、ゆっくりとテラスの方に顔を向けた。
五線譜に楽譜を書き込んでいる、隼人の背中・・・
テラスへ通じるドアの傍らには、洋志が立っていた。 洋志は、そっと、そのドアを開けると里美を見つめ、小さく頷く。
促されるように・・ 夢遊病者のようにゆっくりと歩み、ドアの前に立つ、里美。
里美は、横に立っている、洋志の顔を見上げた。
微笑み、テラスに出るよう促す、洋志。
・・・日が、西に傾いた空・・・
黄金色に輝く夕陽が、遥か水平線の上に、大きく浮かんでいる。
小さな、金の粒を敷き詰めたような海原・・・
崖下に打ち寄せる、潮騒の音が聴こえる。 優しく、爽やかに・・・
心地良い潮風が、里美の頬をくすぐる。
無邪気に、たわむれるような潮風のそよぎ・・・ カモメたちの、鳴き声・・・
隼人は、里美の気配に気付かないようだ。
黄金色、一色に染まった空と海原を前に、譜面を書いている。
眩しいほどに煌めく夕日が、隼人の後ろ姿を黄金色に縁どり、黄金のような夕日が、今まさに、水平線と一緒になろうとしていた。
洋志は、音を立てないように、静かにドアを閉めた。
・・・しばらく、潮風に吹かれながら、その背中を見つめていた、里美。
夕陽に、キラキラと輝く水平線。
琥珀にも似た、美しい黄金色の空・・・
全てのわだかまりを、払拭させるかのような、幸せに包まれた情景と時間が、そこにあった。
( 隼人・・・ )
そこに、彼がいる。
未来を託し、共に、歩んで行きたい彼がいる・・・
無意識の内に、一歩を踏み出す、里美。
ゆっくりと・・ 時を踏みしめるように歩み出し、隼人の背中に近付く。
そっと両手を、隼人の首筋から胸へ・・・
そして、隼人を、後ろから抱き締めた。
「 ・・ん・・・ 里美か。 遅かったじゃないか・・・ 」
黄金色に染まった譜面に、音符を書き込みながら、空いていた左手で、里美の左手首を優しく掴む、隼人。
里美は、隼人の首筋に顔を埋めながら、小さく言った。
「 ・・・待った・・・? 」
隼人は、里美の左手を頬擦りしながら、答える。
「 まあね 」
数羽のカモメたちが、鳴きながら頭上を越えて行く。
無言の、2人。
聴こえるのは、カモメたちの声と、潮騒の音・・・
黄昏に染まった潮風が、里美の髪を、優しく揺らした。
・・・遥か沖合いに、黄金色に輝く水平線・・・
その、金色の水平線を、南の洋上に向けて、1隻の貨物船が航行していた。
限り無い未来、と言う大海原に向けて・・・
里美は、隼人の首筋に、唇をそっと押し当てながら、言った。
「 今度は・・ どんな曲を書いているの・・・? 」
「 2人の、曲さ・・・ 」
水平線を行く貨物船が、汽笛を鳴らした・・・
〔 午後の水平線 / 完 〕
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