第14話、恋の味

 雨の上がった、テラスに出てみる。

 軒先からは、銀色の雫がまだ落ちていた。 所々、濃い雨雲があるが、全体に空は明るい・・・

 水平線の彼方の空は白く、グレーに見える海と、その境を隔てて映る。

 むっとした湿気を含んだ、重い潮風が里美を包んだ。 だが、公園で隼人から告白された日と同じく、不快ではない。 むしろ、来る夏の予感を、彷彿とさせるような雰囲気だ。 何か・・ 潮騒の音も、ざわざわと、人がたくさん群れているような音に聞こえる。

( 蒸し暑さ・・ と言うより・・・ まとわり付いて来る、無邪気な子供に接している気分・・・ )

 うまく表現出来ないが、雨のやんだテラスに佇み、里美は、そう感じた。

 生まれたての景色・・・ そんな気がしたのだ。

 振り込んだ雨に濡れた、テラスの床。 雫の掛かった、軒柱・・・

 空が明るくなった分、芝の青さが、一層に映える。

 ふと、西の空に目をやると、薄くなった雲を通し、日の明るさが、ベージュ色に透けていた。


 ・・・すう~っと、風がなびく・・・


 里美は、湿った大気を、胸一杯に吸い込んだ。

( ・・気持ちイイ・・・! )

 濡れたアスファルトのような雨の匂いに混じり、潮の香りがする。

( まるで、空気に・・ 色が付いているみたい・・・ )

 淡い、琥珀色・・・

 里美は、そう感じた。 トパーズのような、透明に近い色だ・・・

 里美は、軒柱にそっと寄り掛かかり、段々と明るくなって行く海や空の景色を、しばらく眺めていた。


「 吉村様 」

 声を掛けられ、振り向く、里美。

「 雨、上がりましたね 」

 洋志だった。

 また、里美の胸が、トクン、と鳴る。

「 ・・ええ。 これで・・ 梅雨も終わりかしら 」

 緩やかな潮風に吹かれ、頬に掛かった髪を右手でかき上げながら、里美は、微笑しつつ、答えた。

「 まだ、降るかもしれませんが、もう、梅雨も終わるでしょう 」

 洋志は、雨で濡れたガーデンチェアーやテーブルを、持って来たタオルで拭きながら言った。

 里美は、テラスの入り口に立て掛けられた、モップに気が付いた。 おそらく、テラスの床を拭く為に、洋志が持って来たのだろう。

「 あたし、床、拭くね! 」

 そう言いながら、モップを手にする里美。

 洋志が、慌てて言った。

「 いけません、そんな事・・! お客様に、そのような事・・・! 」

「 やらせて下さい。 拭きたいんです、あたし 」

「 でも・・・ 」

 お構い無しに、濡れた床をモップで拭き始める里美。

 モップを手に、床拭きなど、中学以来だ。

 木造の床が、珍しくなった事もあろう。 自宅のフローリングは、よく掃除するが、乾拭きであって、モップ拭きはしない。 事務所の床はカーペットだし、掃除機を掛ける事はあっても、モップ拭きはしないのが常だ。

 ・・・妙に、楽しい。

 拭き上げられたテラスの床は、水分を吸い込み、木造特有の濃い色となった。 いかにも掃除した後のようで、見た目にも綺麗だ。

「 すみません・・・ 吉村様は、綺麗好きなのですね 」

 洋志が言った。

 笑いながら答える里美。

「 別に、そんなんじゃないですよ? ただ、何となく拭いてみたくなって・・・ いつも、お世話になっているテラスだもの 」

 テラス脇で、タオルを絞りながら、洋志は言った。

「 父から・・ あのカップを、お譲りしたお客様がいらっしゃる、と聞きまして・・・ 内心、どんな方なのだろうか、と思っておりました 」

 粗方、拭き終わった里美は、モップを持ったまま、足元のテラスの床を見つめながら言った。

「 ・・今でも、あのカップを使わせて頂くのは、分不相応だと思っています・・・ 」

「 とんでもない・・! 僕には、想像以上の方でした。 あのカップを託した父の気持ちが、良く分かります 」

「 そんな・・・ 」

 気恥ずかしくなって、下を向いたまま、顔を赤らめる里美。

 洋志は、里美に歩み寄り、里美が手にしていたモップを受け取ると、言った。

「 吉村様には、確かに、母の面影があります・・・ 父も・・ 最初は、母の記憶を吉村様に重ねたのだと思います。 だけど、父に言われました。 そんな事で、あのカップを人に譲る事は無い・・ と 」

「 ・・・・・ 」

 洋志は続けた。

「 今も、このテラスを拭いて下さいました・・・ 父は、そんな吉村様のお人柄を、見定めたのだと思います。 この店を、本当に愛して下さるお客様だと・・・ 」

「 ・・・・・ 」

「 今日も、こんな天気の中、ご来店頂けました。 僕も・・ 吉村様こそ、あのカップを使って頂きたい、お人だと思います 」

「 ・・・・・ 」

 何も言えなくなって来てしまった、里美。 胸が熱くなり、目が潤んで来た。

「 ・・有難うございます、洋志さん・・・! これからも、足げに通わせて頂きます・・・ 」

 かすれたような声で答える、里美。

 里美の、泣きそうな表情に困ったのか、声の調子を上げて洋志は言った。

「 新しく、スパークリング・ジュースを始めました! リンゴ果汁の炭酸割りなど、いかがです? モップ掛けの御代として、サービス致します! 」

「 ・・夏らしくて、いいですね・・! 頂きます 」

 目を指先で拭いながら、里美が答える。

「 しばらく、お待ち下さいね 」

 洋志は、嬉しそうに微笑むと、タオルとモップを持って店内に入って行った。


 段々と、明るくなる、西の空。 どこからか、カモメたちが飛来し、洋上を鳴きながら舞っている。

 暗い色だった海にも、青さが戻って来た。 景色は、一気に、表情を変えようとしている。

 テラスから見える駐車場には、里美が乗って来た車が、ワイパーを途中で止めた状態のまま、雨に濡れて黒くなったアスファルトの上に、取り残されたようにポツンと駐車している・・・

( 何を見ても美しい・・・ どんな時だって、安らげる・・・ ここは、別天地だわ・・・ )

 テラスのイスに座り、里美は、そう思った。


 ・・・ここだったら、何のわだかまりも無く、暮らして行ける・・・


 里美の脳裏に、そんな考えが過ぎった。

 あの洋志と結婚する女性は、この、桃源郷のようなカティ・サークで暮らしていけるのだ。 2人で、このテラスを掃除し、美味しいコーヒーを炒れ、店を経営する・・・ 天気の良い日などは、このテラスで、好きな詩集などを読み、カモメたちの舞う姿をキャンバスに描き、時折り休憩する保科と、人生を談義し・・・

 里美は、顔を振った。

( ナニ考えてるの、あたし・・! 今・・ 隼人との生活を、秤に掛けてた・・・! 最っっ低・・・! )

「 いかがされました? 」

 声に、ドキッとし、振り向く里美。

 洋志が、細いグラスに注いだドリンクをトレイに乗せ、立っていた。

「 ・・あ、何でもないです 」

 胸の鼓動を押さえつつ、答える、里美。

「 業務用の、濃縮還元ジュースではありませんよ? リンゴを絞った果汁の、炭酸割りです。 ちょっと、酸っぱいかも・・・ 」

 グラスを、里美の前のテーブルに置きながら、洋志は言った。 リンゴ果汁の、甘酸っぱい香りがする。

「 ・・美味しそう・・・! 」

 ストローを挿し、早速に飲む里美。

「 ・・・いかがです? 」

 トレイを小脇に挟み、里美を、のぞき込むようにして、洋志は聞いた。

「 美味しい・・! 炭酸の刺激も、丁度良いわ 」

「 良かった・・! 」

 ホッとした表情の、洋志。

 甘酸っぱい味に、ピリッと舌に残る、炭酸の刺激・・・

 洋志は言った。

「 お客様に、お出しするのは、初めてです。 コーヒー同様・・ ソフトドリンクも、手間を掛けたものを、お出ししたくて・・・ 」

 若い洋志ならではの考えなのだろう。 ゆったりと落ち着ける、カティ・サークだからこそ似合う、ラインナップかもしれない。

 グラスも、ボトム側に、パステル調の淡いブルーが、グラデーションで入り、洒落ている。

 里美は言った。

「 素敵ですね。 果汁も、すっきりした味で美味しいです。 ここのテラスで頂くから・・ 尚更、雰囲気もあって、いいですね 」

 里美の評価に、洋志も満足のようだ。

「 ごゆっくり、どうぞ・・・ 」

 里美に微笑み、トレイを小脇に抱えると、洋志は店内へ戻って行った。


 ・・・恋の味・・・


 そんな表現が、似合いそうだ。

 隼人を想いつつも、里美の心の中には、確実に、洋志の存在があった。

 里美の、一方的な、淡い片思い。

 保科には届かなかった、いや・・ 届かせてはいけない、恋心・・・ だが、洋志に対しては、別である。 選択による未来も、可能性もある。

( ・・あたしって、不埒な女なのかしら・・・ )

 実際の所、隼人から洋志に乗り換える事など、基本的に真面目な里美には、有り得ない行動であった。 ・・ただ、あれから、隼人から連絡の来ない事実が、里美の心を揺らせていた。


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