第8話、雨と海と、五線譜と・・・

 しとしとと、降りだした雨。

 空は、鉛色の雲に覆われ、薄暗い。

 梅雨明けは、もうしばらく後のようだ・・・


 スポーツジムを出た後、保科のいる、カティ・サークへと向かった、里美。

 あいにくの天気だが、ハンドルを握る里美の心は、晴れやかだった。

 渡瀬の娘さんの話しには、少々、驚かせられたが・・ 第1回目のプレゼンは、大成功。 正式契約も取れたし、デザインコンセプトにも、OKが出た。

 今日は、知人宅に行くと言って、直帰の届けが出してある。 ゆっくりと、カティ・サークにいられるのだ。 天気が良ければ、以前、保科が言っていたように、夕陽が見れそうであるが、今日の天気では、無理だろう。

( まあ、休日に来れば、いつでも見られるし・・・ それより、看板、楽しみだわ・・・! )

 保科に会えるのは、もっと楽しみである。

 里美は、ワクワクしながら、車を飛ばした。


 雨に佇む、カティ・サーク。 霞む空気に、店の外壁の白が、新鮮だ。

 ただでさえ静かな所だが、雨の日の今日は、尚更、その静けさが感じられる。

 逆に、波の音は、雨に反射し・・・ 幾分、いつもよりは、静かに聞こえる気がする。

 店内に灯る白色灯が、鉛色の空をバックに点々と灯り、まるで絵画のようだ・・・


 駐車場に車を入れ、外に出る里美。

 店内入り口の軒先の下に、大きな木の板が掲げてある。

『 CUTTY SARK 』

 里美のデザインした通りに、忠実に再現してあるロゴタイプ。 白木の木彫りの中に、ブルーグレーで色が着色してある。 里美が、希望した通りだ。

( イイじゃ~ん・・! 雰囲気、出てるわ~・・・! )

 さり気なく、かつ、お洒落だ。

 多少、中心辺りに膨らみを持たせ、斜体をかけたロゴタイプ・・・

 よく見ると、小さなライトまで設置されていた。

 ・・・雨に煙る海と、白い外壁の、カティ・サーク。 モノトーンの、この景色もまた、どこか旅情を誘う・・・ 国産車が駐車場に止まっていなかったら、外国の風景のようだ。

 里美は、想像以上の出来栄えに満足し、店内に入った。


 カラン、カラン、とドアの鐘が鳴る。

「 いらっしゃいませ 」

 いつもの保科の声・・ いつもの鐘の音。

「 こんにちは~ 」

「 やあ、吉村さん。 いらっしゃいませ。 ・・見て頂けました? 」

 トレイを小脇に抱えた保科が、入り口付近で、にこやかに出迎える。

「 はい! 凄く、イイ感じです! 我ながら、見惚れちゃいました 」

 保科は、微笑みながら答えた。

「 お客様からの反応も、上々ですよ? 有難うございました。 お願いして、本当に良かったです 」

 一礼する、保科。

「 こちらこそ、良いお仕事をさせて頂きました 」

 里美も、軽くお辞儀をする。

 保科は、店内に、里美を招き入れるように右手を出しながら言った。

「 どうぞ、どうぞ・・・ いつものお席で、宜しいですか? 」

 チラっと、テラスを見やる、里美。

 窓からは、雨に煙る海と、ねずみ色の空が見えた。

 ・・・外は、さほど、風は無いようである。

 6月も下旬に入り、日の差さない雨の日でも、そんなに寒くはないだろう。 カウンターでの、保科との会話は、後の楽しみに取っておき、雨のしと降る海を眺める

のも一興だ。

 テラスには誰か、先客もいるようである。

「 じゃあ・・・ まず、テラスで頂きます。 いつものブルーマウンテンを・・・ 」

「 かしこまりました 」

 保科が、テラスへのドアを開け、里美をエスコートする。

 白いイスに腰を下ろし、里美は、海を眺めた。


 ・・・遠く、灰色に霞んだ水平線を、1隻の貨物船が航行している。

 マストの先に、小さく点滅している灯り。

 煙突から上がる、かすかな排煙・・・

( これもまた・・・ 絵に描いたような景色ね・・・! )

 保科が置いて行ったグラスを手に取り、水をひと口飲む。

 崖下に打ち寄せる波の音が、優しく響く・・・

 風は、無風のようだ。

 海辺で、こんなに風が無いのは、珍しい。 もっとも、強風の時に、ここへ来た事は無いが・・・

 大き目に作ってある軒のお陰で、今日は、テーブルの所までは、雨が降り込まないようだ。

 音も無く、しとしとと降る、梅雨の雨・・・ 何とも、風情がある。

( いつ来ても、それなりに、イイ所だわ・・・ )

 里美は、ふと、隣のテーブルにいた客を見た。

 男性客が、1人で座っている。

 何やらテーブルに紙を広げ、熱心に書き込んでいる。

 歳は、20代後半。 長髪の髪に、上下のジーンズスタイル。 白いTシャツの胸には、銀色のペンダントをぶら下げていた。

 テーブルには、サンドイッチでも食べたのだろうか・・ 籐で編んだバスケットと、コーヒーカップがあった。

 何気無く、その男性が書き込んでいた紙を見る。

( ・・・五線譜・・・ )

 男性は、楽譜を書いていた。

 音楽は、ラジオから流れてくる曲を、BGMとして聴くだけだった里美。 譜面など、高校の音楽の授業以来、見ていない。

( 静かな所で、作曲でもしてるのかしら・・・ ドラマの、ワンシーンみたい。 こんな、良いシチュエーションの所だったら、さぞかし悦に入って、良い曲が書けそうね。 趣味で、音楽をしてる人なのかしら・・・ )

 時折り、頭をかきながら、楽譜を書き続ける、彼。 まさに、没頭しているようだった。

 彼が、ふと、顔を上げ、海を見た。 何やら、ぶつぶつと呟いている。 再び、五線譜に目を移し、書き込む。 困ったような表情でペンを止め、気が付いたように、再び、音符を書き込む、彼。

 里美は、何か、その仕草がおかしくなって、クスっと笑った。

 やがて、保科が、あのカップとソーサーを持って、テラスに出て来た。

( ・・・マイセン・・・! )

 そうだった。 これは、里美のマイカップになったのだ・・・

 忘れていた里美は、少し緊張した。

「 お待たせ致しました・・・ 」

 カップに、コーヒーを注ぐ、保科。

 香ばしい香りが、湧き立つ。

 ・・・保科と、目が合う。

 保科は、里美の心情を察したのか、にっこりと微笑みながら、言った。

「 ごゆっくりどうぞ、吉村様・・・ 」

 里美も、微笑みながら答える。

「 有難うございます、保科さん・・・ 」

( 使わせて頂きます・・・ )

 心の中でそう言った、里美。 多分、保科には、伝わった事だろう。

 店内に、保科が戻った後も、里美は、じっとカップを眺めていた。

 ・・・ゆっくりと立ち上がる、一筋の細い湯気。

 茶褐色のコーヒーが入れられたカップは、絵付けされたグリーンの色と相まって、見事な色彩美をかもし出している。

( ・・・綺麗・・・! )

 こんな、コラボレーションの美しさを、見た事が無い。 加えて、モノトーンな周りの風景・・・

 遠くを行く、貨物船の船影と、点滅するマスト灯。 軒から落ちる、雨の雫・・・

 里美は、うっとりしながら、カップを持つと、炒れたてのブルーマウンテンを、ひと口、飲んだ。

( ・・美味しい・・・! )

 今日の味は、また、格別だ。

 左手を、そっとカップに添え、コーヒーを堪能する、里美。

 ふと、隣のテーブルの彼と、目が合った。

 慌てて視線を反らす、彼。

 だが、音符を書き込もうとした手を止め、ゆっくりと顔を上げると、じっと里美を見つめた。

「 ? 」

 里美も、彼を見つめる。

 やがて、彼は言った。

「 ・・・その、カップ・・・ 」

 彼は、このカップを見つめていたのだ。

「 はい・・・? 」

 怪訝そうに、カップをソーサーに置き、彼を見据える里美。

 彼は言った。

「 君の・・・ かい・・・? 」

 ・・・彼は、このカップにまつわる話しを、知っているのだろうか・・・?

 いや、ただ単に、アンティーク陶器に興味があるのかもしれない。


 里美は、無言で青年を見つめていた。

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