第2話、カティ・サーク

 洒落たカップから立ち上る、香ばしいローストの香り・・・


 男性が言っていたように、確かに、心地良い苦味があり、大変に美味しい。

 窓の外に広がる海原を眺めながら、里美は、しばし、満足げに食後のコーヒーを味わっていた。


 コンテナ船だろうか、大きな貨物船が、水平線を横切って行く。

 少し手前には、小型のタンカーらしき船影が見える。

 薄青い海原に、キラキラと銀色に輝く、6月の太陽・・・

 絵に描いたような風景だ。


( ここで、こうして1日、ボンヤリと海を眺めていたいな・・・ )


 悦に入っている、里美。

 しかし、次の瞬間、自分の携帯の着信音によって、里美は、煩雑な現実に引き戻された。

「 はい、吉村です 」

 着信には、チーフ・ディレクターの携帯名が表示されている。 おそらく、今日のプレゼンの結果を聞いて来たのだろう。

 近くのテーブルには、客がいなかった為、そのまま里美は、通話に切り替え、着信に出た。

『 おう、どうだった? 先方からは、色よい返事、もらえたか? 』

 マイクから聞こえるチーフ・ディレクターの声。 やはり、思った通りである。 里美は、正直に答えた。

「 すみません、チーフ。 先方の社長さんは、コンセプトを理解してもらえませんでした。でも、ツブれた訳じゃありません。 レイアウトは気に入ってもらえたので、後日、プレゼンをやり直します 」

『 そうか。 まあ、ボツった訳じゃないんなら、良しとするか。 あの社長、食わせモンだからな。 里美ちゃんの前の担当も、かなり手厳しく、ヤラれてたんだ。 ・・メシ、食ったか? 』

 意外にも、チーフは同情的だった。

 里美は答える。

「 今、している所です。 時間が中途半端だったので 」

『 それが、あの社長の狙いさ。 昼前後に来させて、どういう対応をしてくるか、見てるのさ。 ヤなヤツだよ、全く 』

 どうやら、今日のチーフは、機嫌が良いらしい。 ・・とりあえず、ホイールキャップの件は、伏せておいた。

「 休憩したら、社に戻ります 」

『 おう、分かった。 ご苦労さん 』

 携帯を切り、ふうっ・・ と、ため息をつく、里美。


「 失礼ですが・・ 少し、宜しいですか? 」


 先程の男性店員が、里美のテーブルに近寄って来て、尋ねた。

「 はい・・? 何でしょうか 」

 男性は言った。

「 失礼ですが、今の携帯でのお話しが聞こえまして・・・ デザインのお仕事を、されておられるのでしょうか? 」

「 ええ。 広告代理店に勤めております 」

 男性は、それはそれは・・ と言うような表情をすると、言った。

「 宜しければ・・・ 私共の店の、ロゴタイプをデザインして頂く訳には、参りませんでしょうか? 」

「 ロゴ・・・? 」

「 はい。 実は、昨年の台風で看板が飛んでしまい、そのままだったんです。 元々、ロゴタイプはあったのですが、看板業者に、適当に描いてもらったものでして・・・ 」


 ロゴタイプとは、商品名・会社名・店名などの書体の事を指す。 商店・商品をイメージ付ける、大変に重要なデザインコンセプトでもある。 大きな企業ともなれば、名刺・伝票・社用車・社屋・工場・・・ 従業員の制服から、店舗デザインまで手掛ける事になり、C・I( コーポレート・アイデンティティー )と呼ばれるビッグ・プロジェクトとなる。

 ・・まあ、喫茶店のロゴタイプなのだから、そこまで大きな話しにはならないとは思うが、デザイナーとしては、是非とも、歓迎したい仕事の1つである。


 里美は、もう1度、メニューを見てみた。

 『 カティ・サーク 』と、店名が印刷されてはいるが、規定書体だ。 確かに、この店に入る時、店名は見かけなかった。

 男性は続けた。

「 新しく看板を揚げようと、いつも思っているのですが・・・ この際、キチンとしたロゴも作ろうとも考えていましてね 」

 里美は答えた。

「 素敵ですね・・! 私で良ければ、是非、やらせて下さい。 このお店、とっても気に入ったんです。 その上、ロゴまでデザインさせて頂けるなんて・・・! 」

 里美は、もう契約してもらったつもりで答えた。

( もし、予算的に合わなかったら、あたしが、ボランティアでやるわ・・・! こんな、素敵なお店のロゴデザインなんだもん。 絶対、やりたい! )

 ・・プラス、オーナーと思える男性の、落ち着いた魅力が、やる気に加味されているのは間違いなかった。

 すまなさそうに答える、男性。

「 お伺いを立ててから言うのも、何ですが・・・ そんなに予算もありません。 とりあえず、おいくらぐらい掛かるものかと、思いまして・・・ 」

「 大丈夫です! 高かったら、事務所にナイショで、あたしがボランティアします! 是非、やらせて下さい。 ・・あ、申し遅れました。 私、吉村と申します 」

 セカンドバッグの中にあった名刺入れの中から、名刺を1枚出し、男性に渡す里美。

 男性は、里美から受け取った名刺を見ながら、改めて挨拶した。

「 これは、ご丁寧に・・・ 吉村・・ 里美 様ですね。 私、オーナーの保科( ほしな )と申します 」

 やはり、オーナーであった。

 保科は続けた。

「 しかし、ボランティアなどと・・・ そんな事を、吉村様にして頂いても、申し訳ありません。 出来る限り、お支払いはさせて頂きますので、まずは、見積りをお願い致します 」

 早速、携帯を出す里美。

「 ちょっと、チーフと相談しますね。 金額は、すぐに出ますから。 ・・お電話、しても良いですか? 」

「 あ、構いませんよ。 周りに、お客様は、いらしゃらないようですし 」

 携帯を掛ける、里美。

 保科は言った。

「 レモネードなど、いかがですか? サービス、致しましょう 」

 呼び出し音を聞きながら、軽く、会釈する里美。

 保科は、カウンターの方に戻って行った。

「 ・・あ、園田クン? あたし。 チーフ、いる? 」

 片手で、持っていたバックから手帳を出し、制作部の予定を確認する里美。

「 ・・あ、チーフ。 実は、喫茶店のロゴデザインが入りそうなんですけど、概算の見積りをお願いします。 とりあえず、モノクロ2点くらいで。 そう・・ そうです。 え? 普通の喫茶店です。 今、いるトコなんですよ。 そう・・ オーナーさんから相談されて・・・ そう・・ そうです。 え? いいんですか? 分かりました。 有難うございます! 」

 携帯を切る、里美。


 やがて、保科がレモネードを持って、里美のテーブルにやって来た。

「 どうぞ 」

「 すみません、頂きます。 ・・あ、見積り、出ましたよ? 2点の、コンセプト違いモノで、5万円です 」

「 え? 私は、もっと・・ 10万以上するのかと思いました 」

 実際は、もう少し高い。

 広告代理店により、多少の差はあるが、デザイン事務所などに至っては、1コンセプトあたり、10万円くらいが、最初の提示相場だ。

 里美は、笑いながら答えた。

「 今日は、ウチのチーフ、機嫌が良いらしいんですよ 」

「 それなら・・・ お願いしましょうか。 これも、何かの縁です」

( やった! )

 内心、里美は、万歳をしていた。

 そんなに大型の受件ではないが、営業せずに入った仕事である。 しかも、気に入った喫茶店のロゴデザイン。 ・・更に、オーナーの保科は、里美好みの、シブイ男性である。

 レジの呼び鈴が、チーンと鳴った。 他の客が、清算をするらしい。

「 しばらく、お待ちを・・・ 」

 保科は、里美にそう言い、会釈をすると、レジに向かった。


( ・・さあ~て・・! どんなロゴにするかな? )

 保科が持って来てくれたレモネードを、ひと口飲む。

 甘酸っぱい酸味が、心地良い。

 ふと、窓の外に目をやると、小さなテラスがある。 淡いブルーのペンキを塗った、ウッドデッキだ。 白い、ガーデンチェアーも数脚、置いてある。

( ふう~ん・・・ オープンカフェにもなってるんだ・・・ )

 手入れされた、芝の緑がデッキの色に映えている。 降り注ぐ日の光が、何とも心地良く、来る夏を演出しているかのようだ。

 里美は、レモネードのグラスを持って、デッキに通じるドアを開け、テラスに出てみた。


( ・・・気持ち良い・・・! )


 潮の香りに乗って、やわらかな初夏の風がそよいでいる。

 5メートルほど先の、芝の先端は、崖になっているらしい。 岩に打ち寄せる、潮騒の音が聞こえた。

 眩しいほどに降り注ぐ、太陽の光。 スカイブルーの上空を舞う、カモメたちの声・・・


( ・・・何て、ステキなトコなの・・・! )


 こんな所があったなんて、里美には、信じられなかった。 海と、空・・・ 潮騒と、カモメたちのハーモニーを、独り占めだ。


 里美は、レモネードのグラスを白いガーデンテーブルに置くと、両手を広げ、深呼吸した。

 透き通るような、爽やかな海風が、里美の髪を揺らす。


( 誰も知らない楽園・・・ 誰にも拘束されない時間・・・ そんな表現をしたくなるトコね・・・! )

 すぐ脇には、国道が走っている。 だが、比較的、交通量は少ないのだろう。 加えて、都会より離れた、辺鄙な所だ。 国道沿いには、大きな海水浴場も幾つかあったが、そこからも離れている・・・

 ある意味、俗世界から隔離されているようなものだ。


 しばらく里美は、何も考える事無く、海に向かって遥かな水平線を眺めていた。

( 何も憂える事が無い・・・ いや、俗欲が、何も心に浮かんで来ない・・・ )

 こんな、たわやかな気分になったのは、最近に久しい。


 里美は、偶然立ち寄ったこの店を、ますます気に入った。

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