2つ目 焼肉さん太郎
最近、仕事終わりの一杯の美味しさが身に染みてわかり始めた。亜紀が上京して社会人になってから季節が一回りしている。時間の流れの早さに驚きと同時にこんな生活をしていて大丈夫なのかと自分を心配した。
「何名様でしょうか」
という問いに指を一本だけ出して答える。
そういう客層も多いのだろう。若い女単体での来客にも店員は慣れた動作で案内した。隅の方の、一人でいても居心地の悪さを感じない席へ誘導される。
お一人様で飲みに行くことに慣れてしまったのはいつ頃からだろうか、少なくとも大学時代は抵抗があった。しかし、慣れてしまえばこれほど楽なものもない。ペースもメニューも自分の思う通りに、そして純粋に味を楽しめるのだ。
「すみません」
今日もふらふらと足の進むままに行き着いた店に無計画に立ち寄ったのだった。
木目のテーブルや椅子がオシャレな西洋風の店内で「生一つ」と声にするのははばかられた。おとなしくおススメの文字が刻まれたワインカクテルを頼んだ。
肉バルを謳う店だけあってそのラインナップは豊富だ。滅多に見ないジビエ料理があったのでつい挑戦してみることにした。
金曜日だけあって人入りは上々、それだけに料理が来るまで時間がかかりそうだ。だけど、この時間も好きな自分がいる。
疲れた体に染みわたらせるようにチビチビと酒に口をつけながらこれから来る晩餐に思いを馳せる。どんな味の、どんな香りの、どんな食感のものが来るだろうか。そう考えるだけで酒が進むものだ。
今飲んでいるワインカクテルが中々美味しいということもあって料理が来る前に二杯目に突入していた。
濃い味の肉に合う赤ワインを二杯目に頼んだところで料理が亜紀の前に到着した。
「お待たせいたしました」
淡々とした声で入店時に対応してくれた店員が料理を並べた。注文したメニューを軽く説明してくれるので聞きつつ店員を見ると思っていたよりも若い。顔立ちは面長で大人びた風だが肌の感じなどから見るに亜紀と同世代か下手をすれば年下だろう。落ち着いた雰囲気で亜紀の好みではないけれど顔立ちは整っている方だろう。
そんな観察はほどほどに、フォークとナイフを手に取る。野菜から食べると太りにくいという話を実家の母がたびたびするせいで習慣的にサラダから手を付ける。魚介類をあしらえたサラダは軽いながらもしっかりとした味付けで亜紀の好みに合っている。
赤ワインを一口含むとずっしりとした肉を口が欲した。
牛肉とシカ肉のステーキを一口大に切ってほおばった。どちらも目が大きくなるくらい美味しいがシカ肉の荒っぽい味が癖になる。赤ワインとの相乗効果で食も酒も進んだ。
「すみません」
食べることは好きだが、量が入るわけではない亜紀が満腹を感じ始めたところで声をかけられた。
「そろそろラストオーダーのお時間です」
「え、もうそんな時間?」
時計を見るが、まだ9時30分だ。席は時間制ではないと書いてあった。ラストオーダーを取られるにしては早い。
「ラストオーダーは9時30分ですので」
例の店員は平坦な声で言った。可愛げのないことだ。もう少し申し訳なさそうにしてくれてもいいだろうに。
じっくりデザートも満喫しようと思ったのだが、今回は断念した。最後に惜しい部分はあったものの、行動圏にこのレベルの店はあまりない。
帰り道、夜風に当たりながら再訪を決めた。
「謎だわ」
平日の昼休み、いつもの如く会社近くの店で食事をしている亜紀に同僚の南が投げかけた言葉だ。
「なんでそんなに食べるのに痩せてるの。不平等!」
「痩せてなんかいないよー」
平均よりも身長が高いことも相まって細く見られることが多い。実際のBMIは平均的で、おまけに年々体重は右肩上がりの曲線を描いているが。
「それにしてもその量はおかしい、どこに入ってるの」
テーブルを囲っている周りの三人の女の子サイズと比べて一回り大きな皿を前にしているので、こちらには反論の言葉が浮かばなかった。
逃げるように大盛で注文した新メニューの和風パスタを口に含む。
あ、これは当たりだ。醤油の風味が具材とマッチして口の中いっぱいに広がる。
会社から歩いてすぐの立地ですっかり常連になった店だが、割と当たり外れが激しい。それだけにこの美味しさには頬がほころぶ。
「こらこら、美味しいのはわかるけどにやけ過ぎ」
言われて口元を引き締めたが手遅れだったらしい。
同じ課の男性陣にバッチリ見られていた。もう食べ終わったらしく店を出ようとするところらしい。
集団は会計を済ませてからこちらへ近づいてきた。その中にはひそかに気になっている同期の沢口もいる。小柄で周りと比べて頭半分ほど小さい。クセっ毛がたまらなく可愛く、亜紀のストライクゾーンに突き刺さっていた。
「お疲れ、やっぱり男連中は食べるの早いわね」
「そうでもないって。俺らの方が来るの早かっただけ」
男性陣と仲のいい南が他愛もない言葉を交わしている間、亜紀はじっと顔を伏せていた。元々、異性の同僚とはあまり話さない方だが、それよりもニヤケた顔を見られたことによる恥ずかしさが亜紀の顔を下に向かせていた。
「そういえば、笹塚さんって意外と食べるんだね」
頼むから、そこに突っ込まないで。
フォークを右手に、ジッとしていた亜紀は急に教師にあてられた生徒のようにビクッと反応した。
「いや、そうでもない、です」
「だって、沢口が食べた量よりもあるじゃん」
「確かに。俺が小食ってのもありますけど」
男よりも大食いというレッテルが張られそうになったところで助け船が来た。
「いやいや、亜紀は背も高いじゃない。それに量をがっつくんじゃなくてグルメなんだから」
「へー。ってことは料理とかもできる人?」
南のフォローに沢口が話に食いついてくれた。
が、残念。そこは苦手分野だ。
自炊なんてろくにしていない。それどころか調理器具すら買っていない。冷蔵庫の中身は一人暮らしの男とどっこいどっこいだろう。
「自分では全然しないんだ。食べる専門」
「マジかー」
露骨にがっかりされた。それだけでもダメージなのに男連中からの横やりがずっぷりと亜紀に刺さった。
「沢口、料理ができる女の子が好みって言ってたもんな。お弁当とか作ってもらいたいんだっけ?」
「南さん、自炊とかしてるらしいじゃん。こんど沢口に作ってきてあげなよ」
「えー、やだよー面倒だし」
そう言っている南はまんざらでもなさそうだった。
被害妄想も入っているが、食べるだけで料理もできない女はちょっと、と言われた気分でひどく落ち込んだ。
この後は不調も不調、絶不調で業務はボロボロだった。係長からは嫌味を言われ、課長からは雷を落とされた。
精神的にボロボロになった亜紀の足は自然と依然訪れた肉バルに向かっていた。体があの肉の味を求めていたのかもしれない。
「いらっしゃいませ」
前に対応してくれたのと同じ店員さんに通される。
今日は店の雰囲気に合わせてなんて上品なことを考えずにビールを頼んだ。食事はそこそこにハイペースで酒を頼み、空けていく。
「別に、料理ができなくてもいいじゃないのよ。食べるの好きでいいじゃないのよ。何が悪いのよ」
完全に出来上がっているせいで愚痴が吐息と一緒に漏れていた。
もしかしたら遠巻きに見られているかもしれないが今の亜紀にとってはどうでもいいことだった。
コトっとテーブルに皿が置かれた。注文した覚えはない。頼んだ記憶が飛ぶほど酔いが回っただろうか。
「サービスです。アルコールだけだとお腹に良くないので」
何度か聞いたクールな声音が耳に心地よい。
素面なら断っていたかもしれないが酔ってそんな判断力はない。
「あ、おいし」
肉と野菜を煮込んだスープだ。ホッと息をつくような味で荒れた心までも落ち着くような気がする。
小さく切った肉を口にすると、既視感のある風味がふわっと広がる。
同じものだとはにわかに信じ難いけれど、あの時食べたジビエ肉だった。
「その肉、スープにしてもいけるでしょう」
「とてもおいしいです。ありがとうございます」
「いえ、喜んでいただけて何よりです。実は、そのスープ自分が煮込んだものなんです」
「料理、上手なんですね」
まだまだです、と笑う彼を横目に昼の出来事がフラッシュバックした。肺が引っ張られるように胸が苦しくなる。
「でも、だからこそ貴女みたいにおいしそうに食べてくれると本当に嬉しいですね。そういう人、いいなと思いますよ」
年を重ねるにつれて感じなくなったドキッと胸を打つ感覚。
何か言葉を返そうとしたところで店員は軽やかに身をひるがえして店の奥に戻っていった。
プレートに坂本と書かれていること、そして耳が赤くなっていることだけは辛うじて目で捕まえることができた。
おそらく、口から洩れていた恨み言が聞こえてそれをフォローしてくれたのだろう。
「店長、お先に失礼します」
店の奥から声が聞こえる。無意識に声の方を追った。
裏口がない構造のため、客と同じ場所から出ていく坂本の姿が見えた。
「あれ?」
扇風機がごとく首を動かして坂本を視界に入れていた途中で時計が目についた。
もう10時近い。
ラストオーダーを告げに来られた記憶はない。
もしかして、気を使ってもらっていた、のかな。
友人でもないのに、心配して、料理をプレゼントして、そして優しい言葉をかけてくれる。そしてそのことに照れて逃げ出してしまう。
そんな男は、
可愛いじゃないの。
まだ彼は出たばかり。ここらで駅まで続く道は一本。
追いかけるなら今しかない。
女は愛嬌とはいうけれど、決めたら度胸で行くしかないでしょ。
亜紀は急いで会計を済ませて駆けた。
酔いで足取りは怪しいけれど、気持ちは一本まっすぐ進み始めた。
お菓子の詰め合わせ 七咲 @sasakuto
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