12.邂逅

 日記帳に綴られていたのは、老人橋田留蔵さんの他愛ない日常風景だった。

 重要なことは何も書いていない。ただ一つ、私がよく知っている人物が3人も名を連ねていること以外は。



 『杣澤富美子』


 『野間大毅』


 そして、


『吉田ゆかり』


 日記帳の内容が真実だとすると、この3人は同僚として働いていた過去がある。しかもここで。この『養老院エナガの里』と思しき施設で。日記の日付が1985年であったから、今から31年前か。富美子さんが確か今51歳だから、20歳くらいの時代の話だ。


 さっき医務室らしき部屋で見つけた写真が撮られたのもこの頃なのかな。


 でも、野間さんは―――。


 考え込んでいたその時、不意に後ろから肩を掴まれた。


「ひゃっ! 」


 心臓が止まったかと思った。いや、多分一瞬止まった。


「由紀ちゃん。大丈夫。俺だよ。」


 声の主は私の驚きように狼狽したようだ。黒縁の眼鏡、よれよれのTシャツ、まくりあげたジャージ。冴えない入介スタイルをしたその人は、両の手でどうどうと私を制する。そのあまりに見覚えのあり過ぎる姿に、頭の中が混乱しそうになった。


「どうしてここにいるんですか? 。」


 私の問いに田中さんは肩をすくめて頭を掻く。


「こっちが聞きたいよ。っていうか由紀ちゃんこそ何で? 一人? 」


 どうやら状況が分からないのは田中さんも同じらしい。


「私も分かりません。野間さんがあっちの方を見に行ってます。」


「え、野間さんもいるの? 俺は富美子さんと一緒だったよ。」


 その言葉に心臓が跳ねる。


「富美子さん!? 何で富美子さんまで? 」


「分かんないよ……。」


 二人して何で、何で、を連発しても答えは出ない。自分たちがいかに異常な状況にいるのか改めて思い知らされるだけだった。


「俺は風呂場で転んで頭打ってさ。目が覚めたらここにいた。何が何だかさっぱりだよ。富美子さんは……そうだ富美子さん! 由紀ちゃん、こっちの方に医務室があるって聞いたんだけど、どこか分かる? 」


 突然慌て始めた田中さんは、あたりをきょろきょろと見渡す。


「多分ここだと思います。」


「え? ここ? 何もないじゃん。マジかよー。」


「どうかしたんですか? 」


「富美子さんが怪我してて動けないんだ。何か応急処置出来るものがあればいいんだけど。」


「怪我って、酷いんですか? 」


「医者じゃないから分かんないけど、歩けないくらい痛いらしいから多分捻挫はしてる。頭も打ったみたいで血が出てた。意識ははっきりしてる。」


 介護の仕事をしていると、人の怪我には慣れっこになってしまう。看護師のように処置したりは出来ないが、見れば軽傷なのか重傷なのかぐらいは分かるのだ。


「そうですか。急いで止血しないとですね。」


「うん。布きれと、出来れば冷やすものがあればいいと思ってたんだけど。」


「そうですね、医務室には使えそうな物は……。」


 そこまで言ってふと思い出した。そういえばこの推定医務室の奥にも部屋があった。さっき『顔』から逃げようとした私を絶望に突き落とした暗い部屋だ。


「そっちの部屋に何かあるかもです。探してみましょう。」


「うん、そうだね。」


 私は懐中電灯を構え、医務室の奥の扉にゆっくり手をかけた。何が飛び出して来てもいいように、身体を扉の陰に隠しながら。慎重に、慎重に引き開ける。


 室内から流れ出て来るのはカビ臭く湿った空気。とても嫌な感じだ。


「由紀ちゃん達はいつからここに? 」


 田中さんは及び腰の私の手から懐中電灯を取ると、臆する様子もなく4畳ほどの室内に入った。壁一面の棚に収納された古い段ボール箱を片っ端から開けて物色していく。


「分かりません。田中さんと別れた後急に頭が痛くなって。気付いたらここにいたんです。野間さんも作業中に椅子から……あ、いや、転んで気絶したって言ってました。」


 野間さんの名誉のためにも、キャスター付きの椅子から落ちた件は伏せておくことにした。空気の読める部下に感謝してほしい。


「なるほど。富美子さんは階段から落ちたって言ってたし、みんな何かしら痛い思いした後にここで目を覚ましたんだね。俺らの他にも誰か閉じ込められてるのかな。」


 ――私たちの他にも、か。そういえばその可能性を考えていなかった。


「どうでしょう……。私は閉じ込められる覚えはないんですけどね。」


「俺だってそうだよ。多分野間さんや富美子さんも。」


 でも、と顔を上げた田中さんは、段ボール箱を開ける手を止めずにつぶやいた。


「知らないだけで4人に関係がある場所だったりして。」


 声にならない声が口をつく。さっきの日記帳が頭をよぎったのである。


「どうした? 」


「い、いえ。あの、蜘蛛の巣が、顔にかかりました。」


「古い廃墟みたいだからな。あっちも蜘蛛の巣だらけだったよ。結構ガラスとか落ちてたりするから、足元気を付けなよ。」


「はい。」


 あの日記帳がヒントになっているとすれば、ここは『養老院エナガの里』で、私、富美子さん、野間さんは母を中心に繋がっていることになる。でも、それだとおかしい。野間さんはこの場所を知らないようだったし、田中さんまでここにいる説明が付かない。日記帳が間違っているのか、あるいは――。


「そういえば、富美子さんよく医務室の場所が分かったな。」


「え? 」


 箱の中から出てきたよく分からないガラクタやチューブ、謎の液体の入った大瓶などが田中さんの手によって手際よく床に並べられていく。


「さっき怪我してる富美子さん見つけた時、俺テンパってあたふたしちゃってたんだ。でも富美子さん、1階に下りて渡り廊下を抜ければ医務室がある棟に行けるって教えてくれてさ。」


 せっかくのアイテムだけど、これじゃ劣化しきって使えそうにないな。田中さんの話を聞きながらも、頭の中では脱出ゲームが続いている。


「最初に会ったとき、富美子さんもここがどこか分かんないって言ってたんだけどな。こういうのも火事場の馬鹿力ってやつなのかな。」



 あるいは――。



「あの人何かすっごい怖がっててさ、顔も真っ青で別人みたいだったよ。まあいきなりこんなとこにいたらそりゃ怖いだろうけどさ。にしたって尋常じゃないっていうか。戻ったら聞いてみようかな。」




 あるいは、




「あ、包帯! ガーゼもある! 良かった。これで応急処置できる。ちょっと汚いけど大丈夫っしょ。」


 一つの箱から救急セットを見つけ出した田中さんは、懐中電灯を私に返すと勢いよく体育館の方へ歩生きだした。


「じゃあ由紀ちゃん、俺富美子さんのとこに行くよ。大丈夫そうだったらこっちまで連れてくるから、後で合流しよう。」


「あの、田中さ……」





 遠ざかる背中に呼びかけたその時、けたたましい悲鳴が響き渡った。

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