8.相貌


 その写真を手にして、私はしばし硬直する。頭の中がクエスチョンマークで溢れていた。


 老人の両脇で笑っていたのは、富美子さんと私の母親である吉田ゆかりだったのだ。今の私と同じくらいの年頃なんだろうか、2人ともまだどこか顔にあどけなさがある。


 何故この二人が一緒に写っているんだろう? そして何故この写真がここにあるんだろう? 正直意味が分からなかった。夢なら何でもありなのか。


 写真の中の部屋は、薄紙で作られた花や色とりどりの輪飾りで飾られ、正にお祝いムードだ。老人、というか多分お爺さんか。お爺さんを取り囲んでいる全員が笑顔を浮かべているのに、主役のお爺さんの顔だけが見えない。


 タバコの火を押し当てたように黒く焦げたそこは、どこかグロテスクに見えて、見てはいけない物のようで、心の隅の方がざわざわして落ち着かない。


 ――これは夢。私は今脱出ゲームをしているんだ。


 そう自分に暗示をかけて、無理やり考え始める。


 脱出ゲームなら、写真のどこかにヒントが隠されているはずだ。写真から読み取れるのは、写っている人数と、輪飾りや花の色・数くらいのものか。しかし、色が飛んでいる部分もあり、カビに浸食されている部分もあるので、正確な数を数えるのは厳しい。


 写真に張られているこの付箋はどうだろう。何かヒントは。


【H3.9.25 橋田留蔵 傘寿のお祝い】


 このお爺さんは橋田留蔵っていうのか。平成3年で傘寿ってことは何歳だったんだろう? 長寿のお祝いをするのは60歳、70歳、77歳、80歳、88歳、90歳、99歳、100歳。うずら荘に就職して1か月経った頃、そう教えてもらった。


 還暦が60歳で、77歳が喜寿、88歳が米寿で99歳が白寿だったのは覚えてるけど、それ以外は何だったかな……? 


 考えていると、脳裏にある光景が浮かび上がってきた。


『今は長生きが当たり前だから、60歳でご長寿なんて言ったら怒られるかもしれないわね。』


 早春の日差しが差し込み、ほのかに暖まった詰所。小さなメモ帳を広げて話を聞いている私に、あの人はそう言って笑いかけた。にっと動く口元に合わせて、大きなホクロがせり上がる。


『だけど、何事もなく生きていけるって当たり前のことじゃないのよね。生まれた時に亡くなることもあるし、若くして事故で……ってこともある。私たちはたくさんの幸運が重なって今生きているの。』


 笑っているのに、その目はどこか寂しそうに細められていて……。


『ここに入ってくるのって、そういうの全部クリアしたすごくラッキーな人たちじゃない? だから、年寄り扱いするなって怒られても私はお祝いしたいの。思いっきり盛大にね。』


 あまりにも心にすとんと入ってきたその言葉を、私は一度も忘れたことはない。そういう風に考えられるあの人を尊敬したし、この人の下で頑張っていきたいと思った。なのに、今は――


 また一つ、ため息をついて首を振る。それは考えても仕方ないことだ。ゲームに戻ろう。


 傘寿について思い出そうとしてみたが、求める物は一向に出て来なかった。考えるのを諦めた私は、鞄からスマートフォンを取り出す。分からないことはインターネットで調べた方が手っ取り早い。カンニングするようで気が引けるが、そんなことも言っていられないだろう。


 スリープモードの画面を点灯させようと、何度か電源ボタンを押す。しかし、バックライトは一向に点く気配がない。


「えー、電池切れ?」


 思わず出た独り言の音量にハッと口を押えた。おかしい。夕べバッテリーにつないで充電してたはずなのに。故障だろうか? 電源ボタンを長押ししても機体はうんともすんとも言わない。


 画面を覗き込むようにして目の前にかざすと、画面に映った自分と目が合った。不健康なほど白い肌、どろりとした目つき、まるで死人のようだ。


 元々それほど美人でもないが、前はもっと希望にあふれた顔をしていたはず。目つきが悪いのは寝不足のせいだろうか。夜勤だからと薄化粧にしていたが、チークをもう少し濃く入れた方が良さそうだ。


 しばし自分の顔に見入っていた私は、ふと自分の背後に映ったカーテンに目をやる。


 瞬間、皮膚が粟立つ。心臓を中心に身体が猛烈に冷たくなる。


 画面の中で表情を凍りつかせた私の背後、先ほど少しだけ開けたカーテンの隙間、ガラスの向こうにある空間、


 そこに、青白い、顔があった。


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