7.探索


「え、ここ、どこ?」


 引き戸の向こうにあったのは見慣れた廊下ではなく、どこかの部屋だった。


 白い壁に囲まれた部屋、右手にある3つの細長い窓には擦り切れてボロボロになった生成り色のカーテンがかかっていて、その隣には大きな薬棚がある。窓の反対側の壁は何故か一面が巨大なカーテンで隠されていて、その前には事務机、背の低い書類棚などが並んで置かれていた。引き戸の正面は壁になっており、大きめのカレンダーがかかっている。


 所々腐って黒ずんだ板張りの床の上には、ステンレスの台車や細いチューブのついたプラスチック容器、擦り切れたラベルの貼られたバインダーなどが散乱していた。


 眼前にいきなり広がった光景にやや面食らったが、見知らぬ場所にいても夢ならば何も不自然ではない。室内を見渡してみる。何となくだが、ここは自分にとって全く馴染みのない場所というわけではないように感じた。この雰囲気には覚えがある。


 ステンレスの台車は医療器具を乗せる為の物。チューブ付きのプラスチック容器は、胃瘻いろうカテーテル。(※胃瘻いろう=口から物を食べられない患者の胃に穴を開け、直接栄養剤を注入する医療措置)バインダーは個人の情報を個別に保管しておく為のもので、恐らくラベルには個人の名前が書いてあったのだろう。どれも仕事で目にしたことがあるものだ。


 ――うずら荘の医務室に似てる? 病院……ではないかな。


 病院であれば胃瘻いろうカテーテルの他にも、もっと様々な医療器具があるはずである。胃瘻いろうの造設をしているのは主に寝たきりの高齢者。カテーテルの数から言って、それを使う人数が複数いたことになる。それに、病院ならばカルテの保管はこの厚みのあるバインダーではなく、薄いフォルダーや書類ケースを使っているはずだ。


 右手にある窓に近寄り、ボロいカーテンの隙間からちらりと外を伺ってみた。景色は雨で白く霞んでおり、雑草がはびこった空き地を挟んだ向かい側に建物があるらしいことぐらいしか分からない。窓は縦長で、枠を外せば大人一人ぎりぎり通り抜けられそうな大きさだ。


 しかし、ガラスには細かいヒビがいくつも走っており、無理に開けようとすれば頭の上からガラスの雨が降り注ぐだろう。わざわざ怪我をしにいくほど私はバカじゃないので、窓から出る選択肢は諦めることにした。


 窓の横には、大量の木札がかかった黒板があり、平成8年8月26日と記してある。木札は汚れがひどく、読み取れるのは「 田留 」、「  ヨリ」、「 田与四 」など、恐らく人の名前らしき文字列だけだ。


 根拠はないが、多分もういない人達なんだろう。黒板に書かれた日付は20年も前、私がまだ2歳の時のものだ。当時ここにいたということは、何らかの理由で既に命の終わりが見えていたんだ。


 反対側を振り返ると、黒板に対面するように、事務机が2つに書類棚が2つ、奥に小さな流し台が並んでいた。壁には薄いカーテンがかかっており、どうやら上半分がガラス張りになっているらしい。カーテンを少しだけ開けて覗くと、ガラス越しに体育館のような広い空間が広がっていた。なるほど。カーテンさえ開ければ、事務机に座ったままでも向こう側を見渡せる造りになっている訳だ。


 事務机の上は綺麗に片付けられており、最近使われた気配はない。片方の机には埃をかぶったデスクマットが、もう片方の机には錆びたブックエンドが置き去りにされていた。試しに引き出しを開けてみるが、特に何も入っていないようだった。残り二か所の引き出しは、鍵がかかっていて開けられない。


 脱出ゲームだったらどこかに鍵があるはず。思わず机の下を覗き込んだところで、さすがに勘ぐり過ぎか。と肩をすくめた。ここは恐らく捨てられた施設だ。大切なものはみんな持ち出してしまうに決まっている。鍵を開けたところで対したものは入っていないだろう。


 顔を上げた私の視線は、デスクマットに挟んである1枚の写真に吸い寄せられた。それはかなり色あせた写真で、ところどころカビで黒くなっている。写真には、車椅子の老人を囲むように、ベージュのポロシャツを来た数名の男女が写っている。


 紫色のちゃんちゃんこを着て花束を抱えた老人の顔は何故か焼け焦げており、その表情は分からない。しかし、写っている人々は一様に笑顔でピースサインをしたりしているので、楽しい雰囲気なのは伝わってくる。写真には【H3.9.25 橋田留蔵 傘寿のお祝い】と鉛筆で走り書きされた付箋が貼られていた。一人一人の表情を見回していた私の視線は、一人の女性に釘付けになる。


「なにこれ。」


 老人の両隣でしゃがんでいるおかっぱ頭の少しふっくらとした女性と、長い髪を後ろで縛った痩せ気味の女性は、老人を挟んでスクラムのように肩を組み、満面の笑みを湛えている。まだあどけない表情の、ふっくらとした女性の頬には、特徴的な大きなホクロ。


 そして、私がよく似ていると褒められる二重まぶたの、黒い写真枠の中で何度も見てきたその人は


「お母さん……?」


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る