5.森閑


 永遠のように感じた時間が過ぎて、静寂が戻ってきた。激しく音を立てていた引き戸はピクリとも動かなくなり、磨りガラスから覗いていた人影も見えなくなった。


 私は恐る恐る顔を上げ、引き戸の外の様子を伺った。

 目に見える脅威はもちろんのこと、静かすぎる状況というのもそれはそれで怖い。バクバクと鳴る心臓の音が響いてアレが戻ってくるんじゃないか。今度はあの手に包丁を携えて私を殺しに来るのではないか。悪い想像に駆られて、私はその場から動けないでいた。


 ――「アレ」は何だったんだろう。


 引き戸をこじ開けようとする手は確かに人間のものだった。しかし、私にはどうしてもそうは思えなかった。「アレ」から伝わってきたのは、人間離れした何か、とてつもなく大きな……狂気。


 動悸がおさまり、少し冷静さを取り戻した頭の中で考え始めた。

「アレ」が何か分からないけど、もしかしたらまたここに戻ってくるかもしれない。一刻も早く施設を出なきゃ。でももし今外に出て鉢合わせしたら……? それも怖い。どうしたらいいんだろう。


 部屋の片隅に置いていた自分の鞄を引き寄せる。中には、筆記用具や財布、ハンカチ、ポケットティッシュ、夜食用の菓子が入っているだけだ。それに加えて、ヤフルトとチョコレート、手に持ったスマートフォン。脅威に対抗できるような、武器になりそうなものは何一つとして持っていない。室内には他の職員の荷物も置いてあるが、さすがに他人の荷物をあさる訳にもいかない。


 思案に暮れてスマートフォンの画面に目をやると、ホーム画面に今日の予定が通知されていた。10月4日、件名と共に表示された花束のスタンプ、そうだ、今日は――。


「帰らなきゃ。」


 こんなことをしている場合じゃなかった。私はすぐにでも帰らなければならないのだ。「アレ」はもちろん怖いが、まだ午前中だ。入介が始まったばかりだし、きっと廊下に誰かいるはず。


 入介とは「入浴介助」の略で、入所者が風呂に入るのを手伝う仕事だ。

 うずら荘には、車椅子や寝たきりの状態にある入所者を機械で入浴させる「特殊浴室」と、自力で歩くことができたり、車椅子でも補助があれば立つことが出来たりする入所者を入浴させるため「一般浴室」の二種類の浴室がある。


 特殊浴室はさっき私が富美子さんに怒られた詰所の脇。一般浴室は詰め所から廊下をまっすぐ通り抜け、職員玄関のある突き当りを右に曲がった先、ちょうどこの休憩室の斜向かいにある。午前中は一般浴室での入浴介助の時間と決まっているので、いつもであればここは足音や車椅子の操作音、職員と入所者の話し声などが聞こえてきて非常に賑やかになるはずだ。それなに、目が覚めてから、ずっと雨の音しか聞こえない。

 

 部屋を出るのをためらってしまうのは、この異様な静けさのせいでもある。


 ――何かあったんだろうか……?


 私は両手で顔を叩き、ヤフルトとチョコレートを鞄に乱暴に突っ込んだ。

 考えてはダメだ。余計に怖くなる。


 鞄を盾のように胸に抱き、物音を立てぬようにゆっくり引き戸に近付く。使い古した合皮の鞄がこんなに頼もしいと感じるのは初めてだ。取っ手に手をかけてふと違和感を覚えた。


「あれ?」


 思わず漏れた声に慌てて口を抑える。おかしい。さっき「アレ」から私を守ってくれたはずの鍵が、ないのだ。


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