4.群青

【うずら荘】

 久々井県ひばり町にある特別養護老人ホーム。


 社会福祉法人しらさぎ会が運営している。


 定員60名(うちショートステイ10床)。


 前身は昭和50年にひばり町内の郊外に設立された施設であったが、設備の老朽化に伴い、平成12年に現在の温泉街へ移転された。


 今年で設立から17年を迎える。




 *****



 古びた舞台をスポットライトが照らしている。ライトの中心に立つ私を観客席にいるたくさんの顔のない人形が見ている。一様に黒い服を身にまとった人形たちの、ナメクジが這うようなまなざしが体中に絡みついて、私はその場から動けない。


 胸に抱えた冷たい長方形の板をギュッと抱きなおす。


 恐ろしかった。

 人形たちが私に分からない言葉で何か言っているのが恐ろしかった。

 ライトの光線のせいでどこにも逃げ場がないのが恐ろしかった。


 人形たちの中に何かいた。人形ではない別の何かだ。人形の無機質な質感とは違う「肉」を持ったそれは暗がりの中からじっと私のことを見ている。


 あれは誰だっけ? 



*****



 ぞくりとするような寒気で目が覚めた。


 ぼやけた私の眼前には、木製の天井と、平行に並ぶ2本の蛍光灯があった。視線を動かして辺りを見渡すと、磨りガラスのはめ込まれた引き戸、畳の上に雑然と置かれた職員達の荷物、塗料のところどころ剥がれた低いテーブル、経年で少し黄ばんだ障子がある。


 その見慣れた光景に、ああ、ここは休憩室だったと思い出した。どうやら、頭痛で倒れ込んで気絶していたらしい。磨りガラスの向こう側に見える廊下は薄暗く、朝日が差し込んでいた室内はすっかり群青に沈んでいる。誰がしてくれたんだろう、冷えた身体には使い古されたバスタオルが1枚、かけられていた。


 身体を起こすと少し目眩がした。両手で顔をごしごしとこすり、その体制のまま体育座りの膝にうなだれる。何だか悪い夢を見ていた気がする。詳細を思い出そうとしても何も浮かんでは来ない。まるで意識に靄がかかっているようだ。外からは雨音だけが聞こえ、肌にまとわりつく水気を含んだ空気が気持ち悪い。


 今は何時? 一体どれほどの時間眠っていたんだろう……。


 うつむいたままポケットをまさぐるが、求める物はそこになかった。ハッとして見回すと、それは私の背後に転がっていた。紺色のスマートフォン。その縦長の画面は、室内の微弱な光を反射し、まるで鏡のように周囲を映している。スマートフォンの横には、さっき田中さんからもらった2本のヤフルトと、箱に入ったチョコレートが並べて置いてある。誰かが置いていってくれたんだろうか?


 職員が昼休みや夜勤明けに休憩室で仮眠をとるのは別段珍しいことではない。そういう時は、声をかけずにそっとしておくのが暗黙の了解だ。しかし、私が仮眠どころじゃなく爆睡しているもんだから、お節介な誰かが気を使ってくれたんだろう。まさか頭痛で気絶しているなんて思わないだろうから。


 誰か分からないけど、後でお礼を言わないと。そんなことを考えながらスマホに手を伸ばした瞬間、その画面がふっと明るくなり、呼び出し音が鳴り出した。シンとした空気を切り裂くけたたましい音に、私の心臓は縮み上がる。


 慌てて携帯電話を手に取ると、画面には『非通知設定』の文字が表示されていた。


 非通知で電話をかけて来る人に心当たりはない。変な人からだったらどうしよう。でも早く出ないと……逡巡して操作がもたついているうちに電話は切れてしまった。


 沈黙したスマートフォンを見つめながら、バクバクと脈打つ心臓を沈めようと息をつく。電話がかかってくるのは別に珍しいことではない。ただ、シーンとしたところで自分だけがそれなりの音を出すというシチュエーションはどうも苦手なのだ。昨日の夜勤でも散々な目に遭ったし……。


 再度ボタンを押して画面をオンにする。液晶には『AM10:15』と表示されている。


「なんだ。まだ10時か。」


 休憩室で倒れ込んでから、まだそう時間は経っていなかったらしい。よかった、と、大きな溜め息をついた。


 職員が休憩室で仮眠をとっても何も問題はない。ただ、私は富美子さんから目を着けられている。他の職員に許されていることも、私がすれば規律違反でもしたかのように責められるのだ。あの人の逆鱗に触れるようなことはなるべく避けたい。


 未だ動悸の治まらない胸を落ち着けるべく何度か深呼吸をしながら、私はスマートフォンの画面を見つめた。待受画面に設定している愛猫の写真の上に、『留守番電話:1件』の文字が表示されている。


 私の携帯に留守番電話を残すなんて父か姉くらいだ。非通知で電話をかけてきてわざわざメッセージを残す相手に心当たりはないが、一応再生してみることにした。


 再生ボタンを押すと、スピーカーからは微かなホワイトノイズと、ギッギッという断続的な軋み、金属同士の擦れる音が聞こえてきた。時折黒板を爪で引っ掻くような甲高い音を交え、その音はゆっくりとこちらへ近付いてくる。


 電話の向こうから人の声は聞こえず、気配すら感じられない。不愉快な金属の音だけが続いている。


 何だろうこの電話。


 聞くに堪えかねて通話終了ボタンを押す。きっとこれはいたずら電話だ。深い意味なんてない。でも、あの音には聞き覚えがある気がする。どこで聞いたんだっけ……? 思い出そうと目を閉じた刹那、


 ガタガタガタ!


 休憩室の戸が激しく揺れだした。私は空気を飲んで硬直し、正面の磨りガラスを見上げた。いつからそこにいたのか、室内を薄白く照らす磨りガラスの向こうには黒い人影があった。人影は引き戸の取っ手を掴み、左右に引いたり、前後に激しく揺すったりしているらしい。その動きに合わせてガラスがミシミシと音を立てている。


 それが誰なのか、何の目的があってここに来たのか、私には図り知れない。引き戸が壊れそうなほど揺さぶられるのを、ただ黙って見ているしか出来なかった。


 何故だか分からない。声を上げてはいけない、自分の存在を知られてはいけない、本能がそう告げているように感じた。全身がカッと熱を持ち、冷たい汗が流れる。時折磨りガラスに貼り付き、動き回る手の平の生々しい肌色が見えるたびに全身が粟立って震えが止まらなくなった。


 ――そこにいるのは『何』?


 浅く、荒くなる呼吸音を抑え込むように口元を震える手で覆う。


 唯一の救いは、この休憩室に鍵がかかっているらしいことだ。、疑問を持つよりも先に、助かった、と思った。



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