3.混線

 朝の張りつめた空気が嘘のように消え、入浴介助の準備で慌ただしい施設内。浴室の横にある女子更衣室で2人の職員がひそひそと話をしていた。


「ちょっと聞いてよ。さっきさ……。」


「えー、またですか? 」


「そうなのよ。利用者対応に追われて記録間に合わなかったんだって。可哀想だったわ。顔真っ青で。」


「富美子さんに詰められたら誰でもそうなりますよ。あれ、でもあの子この間も怒られてませんでした? 」


「脱衣所の掃除がなってないってね。一人で全部やり直しだったらしいわよ。」


「ひえー。脱衣所なんてみんなちゃっちゃと掃除して終わりじゃないですか。あたし何も言われたことないですよ。」


「由紀ちゃんだからでしょ。主任あの子にだけなんでかあたりキツイのよね。」


「何かやらかしたんです? 」


「それが分かんないのよ。真面目で大人しい子だし、そんな人を怒らせるタイプでもないと思うんだけど。」


「富美子さんも厳しいけど理不尽に怒る感じの人じゃないと思ってたんですけどねぇ。しょっちゅう差し入れ持ってきてくれるし。」


「裏の顔、ってことかしらね。」


「やだ怖ーい。でも、これで吉田さん辞めちゃったりしたら痛いですよね。ただでさえギリギリで回してるのに。」


「あたしもそう思ったからさ、それとなく野間さんに相談してみたの。喫煙所で一緒になった時。そしたら他の職員からも相談されたことがあったみたいで、近いうち対応するって言ってたわ。」


「ほんとですか。やっぱりみんなひどいと思ってたんですね。施設長が知っててくれてるのは心強いなぁ。」


「ね。野間さん有言実行だから、きっとどうにかしてくれるわ。」


  ナースコールが鳴り、半そで半ズボンに防水エプロンを着けた2人はそれぞれの仕事に赴いた。



*****



 休憩室の畳を見つめて、ひとつ、溜め息をつく。


 結局記録は申し送りまでに間に合わず、申し送りの後、私は詰所に残って書き終えられなかった記録を片付けることになった。


 ペンを走らせる私の頭の中で、富美子さんの怒鳴り声、怒鳴られている自分を見ている他のスタッフの視線、心臓をギュッと握り締められるようないたたまれなさがぐるぐるとめぐり、手汗が滲んでダメになった記録用紙を何度も取り替えてようやく全てを終えた時にはもう詰め所には誰もいなくなっていた。


 夜勤明けの疲れと、富美子さんが通りかかるたびにこぼす独り言風の嫌味。それらにゴリゴリと精神を削られ、休憩室の引き戸を閉めた瞬間腰が抜けたように座り込んで、立てなくなってしまったのだ。気持ち的に。


「……疲れた。」


 障子越しに差し込む光に、空気中の埃がキラキラと反射するのを見つめながら、誰にともなくそう呟く。


 私が富美子さんに怒鳴られるのは初めてじゃない。誰でもするような些細な失敗すら、あの人は激しく追及してくるのだ。『指導』は決まって入所者や他のスタッフの前で行われ、そのほとんどが指導の域を超えた人格否定だった。


 これはいじめだと言ってくれるスタッフもいたが、古株である富美子さんに直接意見できる人はいない。富美子さんが私を怒鳴る時、私は同情の視線を感じながらも、嵐が過ぎ去るのを待つしかなかった。


 ここに就職したのは半年前。最初は怒鳴られることなんてなくて、あの人は丁寧に仕事を教えてくれる優しい上司だった。それなりに関係も良かったと思う。


 なのに、今は挨拶をしても無視され、差し入れのお菓子すらゴミ箱に捨てられる。言葉を交わせるのは怒られている時ぐらいという有様だ。


 多分私があの人の気に障るようなことをしてしまったんだろうけれど、ここまで拒絶されてしまってはもうどこをどう改めたらいいかも分からない。謝ることも、詫びることも、何も出来ない。八方ふさがりの迷路にいるような心持ちがして、現状をどうこうしようなんて気力はもうない。


「死にたい。」


 嘘だ。何も本当に死にたい訳じゃない。今日は夜勤明けだからそんな気分になるだけだ。涙が滲んで、鼻の奥がツーンと痛くて、ひとつ、湿った深呼吸をする。


 ここにいても気分が滅入るだけだ。早く帰ろう。


「由紀ちゃん、いる? 開けてもいい?」


 不意にノックの音がして、引き戸のすりガラスの向こうから声が聞こえた。


「は、はい。どうぞ。」


 間が悪い。服の袖で目元を拭って答えると、戸をあけて田中さんが顔を覗かせた。


「お疲れぃ。」


「お疲れ様です。」


 泣きそうだったのに気付かれたくなくて、座り込んだままぶっきらぼうに返す。


「何か忘れ物ですか?」


「うんー、まあそんなとこ。」


 相変わらず入浴介助スタイルの田中さんの額には、汗の粒がびっしりと浮かんでいる。


「入介行かなくていいんですか?」


「行くよ。その前にちょっとね。しっつれーい。」


 彼がタオルで汗をぬぐいながら上履き代わりのサンダルを脱ぎ、休憩室に入ってくると部屋の温度が一気に上がったような気がした。田中さんが動くたびに腰のあたりからカサカサという音が聞こえ、今朝のことを思い出した私は思わず吹き出してしまった。


「何だよ。人の顔見て笑ってんじゃないよ。」


 田中さんは私の隣にしゃがみ、手で頭を小突く真似をして見せた。


「すみません。でも、ほんとにリハパン履いてるんだなって……。」


 リハパンがズボンと擦れる音は静かなところだと案外響くのだ。


「毎回ちゃんと返してるんだからいいだろ! 」


「毎回って、そんな頻度で着替え忘れてきてるんですか? 」


「忘れっぽいんだよ。」


 入浴介助の当番になったスタッフは、入浴介助用の半そで半ズボンと替えの下着類を持ってくることになっている。忘れてしまうとお風呂のお湯と汗でビシャビシャになった下着をつけ続けることになってしまうので、記憶力に自信がないスタッフはあらかじめロッカーにスタンバイしておいたり、田中さんのように施設で用意しているリハパンを一時的に借りたりするのである。まあ、後者は少数派だが……。


「それに最近のリハパン結構悪くないぜ? 薄くて動きやすいし『まるで肌着』ってマジその通りでさ。あーでも、○○社のやつはモコモコしてちょっとイマイチだったかな。△△社のは……。」


 身振り手振りで繰り広げられるリハパン談義。真面目な顔で各社の使用感について語る田中さんが面白くて、私が笑いをこらえているのに気付いた田中さんは「また笑って」と腰に手を当てるが、怒っているわけではないらしく口元に笑みが浮かんでいる。そのヘラッとした表情に私もすっかり毒気を抜かれ、さっきまでの鬱々とした気分が少し良くなったように感じた。


「今朝は、その、すみませんでした。田中さんにも迷惑かけてしまって。」


「気にすんな。困った時はお互い様だべ。」


 田中さんはポケットに手を入れ、ほれ、とヤフルトの小さなボトルを出してきた。


「ありがとうございます。もしかしてさっきのこと……心配してきてくださったんですか? 」


「あー、まあね。由紀ちゃんあんまり触れられたくないかもだけど。」


 首にかけたタオルで汗を拭く田中さんは少しバツが悪そうだ。


「ほら、ここってオッサンとオバハンばっかでさ、色々気ぃ使うし、何かと言われっぱなしでストレス溜まるじゃん。俺ら数少ない同年代だし、助け合ってかなきゃでしょ。」


 ありがとうございます、か。すみません、か。返すのに具合のいい言葉が見つからなくて、なんとなく黙って話を聞く。ヤフルトの蓋が手の中で鈍く光る。


「富美子さんも根は悪い人じゃないんだ。今は、うーん、何て言ったらいいか分かんねぇけど、そういう時期なんだよ。多分。由紀ちゃんが特別悪いって訳じゃなくてさ。言いたいこと伝わるかな。」


「何となく。」


 その真ん中でくびれた、独特の形をしたボトルを弄びながら私は言った。手の動きに合わせて、中に入っている乳酸菌飲料が薄いアルミの蓋を押し上げ、表面が膨らんだり凹んだりするのをじっと見つめる。


「私は富美子さんのこと、まだ尊敬してるんですよ。」


「え?」


「田中君! テツさんのタオルどこにあるか分かるー?」


 田中さんが怪訝けげんな顔で私を見ると同時に、休憩室の外から声が聞こえてきた。


「あ、すいません! 俺が持ってる! 今行きますんで!」


 慌てた様子で廊下に叫んだ田中さんは、ポケットをまさぐってもう1本ヤフルトを取り出す。


「ごめん、行かなきゃだ。これもあげるよ。」


「え、そんな悪いですよ。」


「いいから。飲んで元気出しな。何か困ったら俺に遠慮なく言っていいからさ、一人で抱え込むなよ。じゃ。」


 田中さんはタオルで汗を拭きながら休憩室を出ようとした。その後ろ姿に思わず声が出る。


「あ、あの!」


「ん?」


「色々ありがとうございます。ヤフルトもごちそう様です。」


「ん。じゃ、お疲れっした! 」


「お疲れ様でした。」


 引き戸が閉まり、休憩室に再び静寂が訪れた。埃っぽく、雑然としたこの小さな部屋がやけに広く感じる。両手にすっぽりと収まったヤフルトのボトルを見つめて深呼吸をした。何も特別なものじゃない。これはロビーの自販機まで行けば、2本90円で買えてしまうものだ。なのに、この小さなボトルが、今はとても嬉しかった。


「帰ろう。」


 心が軽い。ここに来た時とは正反対だ。早く帰って用を済ませたら、田中さんに何かお礼を準備しなければ。そう思って立ち上がった瞬間、私は殴られたような衝撃を覚え、その場に倒れこんだ。


「え……?」


 突然のことに意味が分からず身動きが取れない。何が起こった? 休憩室には私しかいないのに。一体何が起こった?


 畳に横たわったまま状況を整理していると、キーンという音がして目の奥が熱を持ち始めた。熱は次第に痛みへ変わり、段々とその強さを増していく。


 まるで眼球が別の生き物になったみたいだ。心臓の鼓動に合わせてズキズキと脈打ち、視界がぼやける。


「帰らないと……。」


 自分に言い聞かせて立ち上がろうとするが、身体は言うことを聞いてくれない。経験したことのない激痛。短く浅い呼吸を繰り返す口からはよだれが、目からは涙がとめどなく流れ、声も出せない。


 震える手で押さえて暗闇になった瞼の裏には混沌があり、何粒かの光がうずを巻いて、世界が小刻みに揺れているのを感じた。


 このまま発狂してしまうのかと怖くなった。


 瞼をうっすら開けると、さっき田中さんからもらったヤフルトが目の前に転がっているのが見えた。


「お母さん……。」


 い草の匂いと、転がっているヤフルトのボトル。何故だろう。昔行った祖母の家を思い出して、そこで記憶は途切れている。


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