2.開幕

【介護老人福祉施設】とは、身体不自由、寝たきり、認知症などで、自宅での生活が難しい高齢者のための施設である。


原則、65歳以上で、要介護認定を受けて3以上に認定された者が入居でき、入浴、排泄、食事などの介護や、日常生活上の世話、リハビリ、健康管理などのサービスが受けられる。


特別養護老人ホーム、特養、老人ホームなどと呼ばれているが、人によってはこう呼ぶことがある。




『姥捨て山』、と。



*****



 うずら荘の朝は戦場だ。


 ある者は入所者のオムツ交換をし、ある者は食事の介助をし、またある者は入浴介助のための着替えを支度する。一つ一つは他愛ない作業だが、相手は人間である。急に体調を崩すこともあるし、機嫌が悪ければ職員の手をはねのけることもある。認知症を患っていれば、けたたましく叫び声をあげたり、自らの便を手で弄ったり、入れ歯を外して壁に投げ付けたりすることもある。


 現場では彼らのペースが最優先され、他愛ない作業もスタッフ達の思うようには進まない。スタッフは皆入所者の行動ひとつひとつに目を光らせながら、限られた時間内に仕事を片付ける為、施設内を右往左往するのである。


 喧騒の中、私は食堂脇の詰め所で必死にペンを走らせていた。私は吉田由紀よしだ ゆき。介護系専門学校を卒業して、半年前にこの施設に就職した22歳だ。


「由紀ちゃん、どう?記録終わりそ?」


 テキパキと動き回りながら声をかけてきたのは田中優たなか すぐるさん。私よりも4歳年上の先輩職員だ。素朴な顔立ちながら明るくひょうきんな性格で、女性入所者からの人気が高い。確かうずら荘で働き始めて今年で3年目になると言っていたっけ。


「あと少しなんですけど……ツルさんのトイレ誘導が何時だったか思い出せなくて。」


 記録というのは『ケース記録』と呼ばれるもので、入所者の様子を個別に記した日誌のようなものだ。ケース記録は職員同士で入所者の情報を共有したり、施設で適切な介護が行われていることを証明したりするためにある。職員は自分の勤務時間内にあったことを記録用紙に記入しておかなければならないことになっていて、私が今書いているのは夜勤の記録だ。


「焦んなくていいから落ち着いて書きな。便汚染のシーツは洗っとくからさ。」


 田中さんは私の背後にある流し台にバケツを置き、漂白剤を水で薄めながら言った。ゴム手袋をはめた手に茶色く汚れたPHSがあるのを見て、罪悪感が込み上げてくる。


「はい、すみません田中さん。シーツだけじゃなくピッチまで汚しちゃって。」


「気にすんな気にすんな。どうせ防水だし。後でこっそり電話屋さんに頼んで洗浄してもらうべ。ほら、早く書きな。」


「ありがとうございます。」


 バケツを持って洗濯場へ向かう田中さんに頭を下げ、再びペンを走らせる。本来であれば、夜勤の記録は朝までに書き終えていなければならないのだけれども、昨夜はがあってそれが出来なかったのだ。


 朝の申し送りは10分後。それまでに残り4人分書き終われば間に合う。


「ちょっと由紀ちゃん、記録まだ終わってないの?」


 ラストスパートをかけようとペンを握りなおしたその時、頭上から聞こえてきた刺々しい声に心臓がドキリと脈打つ。


「記録は夜のうちに書くように教わらなかった? 何で言われたこともできないかしらね? 」


 声をかけてきたのは介護主任の杣澤富美子そまざわ とみこさん。私の上司だ。介護士としてうずら荘に30年勤めてきたベテランで、縦横奥行き全てがガッシリと大きい。富美子さんは不機嫌な眼差しで私を見下ろしている。


「あ、富美子さんおはようございます。すみません。夕べは忙しくて……。」


「まったくもう。あとちょっとで申し送り始まっちゃうけど、どうするの?」


 ハァ……。ねっとりと絡みつくようなため息が重い。


「すみません。急いで書きます。」


「急いで書くとかじゃなくてね、やらなきゃならないことを時間までに終わらせられてないって社会人としてどうなのかしら? どう思う?」


 ベテランとしての貫禄か、はたまた別の要因か。腰に手を当てて仁王立ちするその姿にはものすごく迫力がある。その獲物を見つけた猛禽類のような目に射られ、私は記録の手を止めざるを得なくなった。『どう思う?』私を叱る時、富美子さんはいつもそんな風に問う。


「あの、その、すみません。」


「すみませんじゃないでしょ。社会人としてどう思うのか聞いてるの。教えて? 」


 こういう時、何と答えるのが正解なんだろうか。ちらりと時計を見ると、申し送りまであと5分。急いで書けば間に合う。


「えっと、ダメだと思います。」


「何がどう?」


「あ、あの、」


 緊張と焦りの中、富美子さんが求めていそうな言葉を精一杯並べようとするが、うまく出て来ない。早く切り上げて記録を書きたい。せっかく田中さんが時間を作ってくれたのに。また迷惑をかけてしまう。


「仕事が遅くて、要領も悪くて、ダメ、だと思います。すみません。」


「そうよね。ダメよね人間としても。自覚あるんならちゃんとやらなきゃ。」


「はい。申し送りまでには間に合わせます。すみませんでした。」


 だから、お願いだから早く続きを書かせて欲しい。ペンを持つ手に汗がにじむ。


「っていうか、忙しかったってどういうこと? 何してたの? 説明してくれない? 」


 しかし内心の懇願とは裏腹に、富美子さんは追求をやめなかった。段々と大きくなるその声に、食堂にいるスタッフは眉をひそめ、現場は異様な緊張に包まれる。


「あ、あの……202号室のトシさんが弄便してて。それで、パジャマとかシーツとか、汚れちゃってたんです。交換しようと思ったんですが拒否が強くて、掴もうとしてくるのかわしてたら、便がついた手を口に持っていきそうになって……。」


「持っていきそうになって? どうしたの?」


「それで、ダメですよって手を掴んだら、あ、そんなに強くじゃなかったんですけど、興奮しちゃって……。」


「不穏になった?」


「はい……。しかも、同時にタエさんもトイレに行きたい、って言ってきて……タエさん、もう10回以上トイレ行ってたし、待っててくださいって、言ったんですけど、間に合わなくて……。」


 緊張感で静まり返った雰囲気に気圧されて、どんどん声が上ずっていく。ペンを握ったままの右手は手汗でびっしょりと濡れている。


「声が小さくて聞こえないわよ。それで?」


「すみません……! ろ、廊下で、失禁しちゃったみたいで、パジャマまで、ぬ、濡れて、ました。203の、石川さんからもコ、コールが入ってたんですけど、2人、見てたら行けなくて、まだ来ないのか、って、怒っちゃって……。」


「ふーん。一気に3人来てパニックになった訳ね。優君が持ってた茶色いピッチもその時にそうなったと。」


 PHSのことを言われてひやりとした。さっきの田中さんとのやり取りを見られていたんだ。


「は、はい。そうです。」


「大変だったのね。分かった。」


 さっきまでの不機嫌が嘘のようにやさしい声音に変わり、富美子さんはどこかかわいそうなものを見るような目で私を見た。


「でもねぇ、トシさんのは不穏とは言わないと思うわよ。私が夜勤の時はトシさんそんなに怒ったりしないし。由紀ちゃんの対応が悪かったんじゃないかなあ。」


 本当に本当にどうしようもなく出来の悪い子供に話しかけるような口調だった。


「で、でも、便を口に入れさせるわけには……。」


「しかも、タエさんトイレ行きたがってたのに待たせてたのよね? それってスピーチロックっていう立派な虐待よ? 分かっていてやったの?」


 富美子さんは私の言葉尻を遮って続ける。


「……それは。」


 そう言われて言葉に詰まってしまった。夕べの自分を思い起こすと、確かに私は言葉でタエさんの行動を制限していた。だけど、そんなつもりがあってやった訳じゃない。


「黙るのね。あのね、利用者に虐待するような職員はうずら荘にいらないのよ。」


「虐待なんて……! タエさん、もう10回以上トイレ、行ってたんです。毎回、ついて行ったけど、何も、出ない時もあったから……それで」


「それでイラついて嫌がらせしたってこと?」


「ち、違います!そんな」


「違わないでしょ! 口答えばっかりしないで少しは考えなさい!」


 ドンと大きな音を立てて机が揺れ、怒鳴り声が響き渡った。施設中に聞こえるんじゃないかと思うほど大きな声だった。富美子さんは机に振り下ろした拳を腰に当て、威嚇するように私を見下ろしている。そのあまりの剣幕に私の視界はグラグラと揺れ始めた。冷たい汗は背中までぐっしょりと濡らし、体の中が熱いのか冷たいのかよく分からない。


 スタッフの緊張はいつしか入所者にまで伝わっていたようで、食事を拒否して大声を上げていたおばあちゃんまでもが今や口をつぐんでいる。


「あのさ、由紀ちゃんは何しにここに来てるの? 利用者さんに不愉快な思いさせて、仕事も遅くて、みんなに迷惑かけて。由紀ちゃんが持ってる立派な資格って名前だけなの? 専門学校通わせてもらって資格取ってもこんなんじゃご両親が可哀想よね。あ、違うか。」


 一気にまくし立てる富美子さんの言葉に、心臓が大きく脈打つ。富美子さんの頬にある大きなホクロが口の動きに合わせて歪むのがやけにスローに見える。


 申し送りの開始時刻はとっくに過ぎてしまった。詰所の前にスタッフが待機しているのを十分認識した上で、富美子さんは続きを言おうとゆっくりと口を開いた。


「由紀ちゃんは」


「すみません、遅くなりました!」


 突然の大声が静寂をぶち壊した。漂白剤で色がまだらに抜けたTシャツの襟もとにタオルを巻き、膝丈のジャージを腿まで捲り上げた入浴介助スタイルの田中さんが廊下を走って来る。


「優君。何してたの? 」


「着替えてました。俺今日入介だったことすっかり忘れてて。替えのパンツも持ってきてなかったんで備品室までリハパン取りに行ってて……。申し送り終わっちゃいました? 」


 田中さんは肩で息をしながら、周囲の雰囲気をまるで感じていないように言った。夏と言ってもかなり涼しい朝なのに大汗をかき、眼鏡のレンズを曇らせている田中さんの気の抜けた様子に、現場にはやや安堵した空気が流れた。


「……はぁ。リハパンちゃんと返すのよ。」


 田中さんの登場に毒気を抜かれたのか、富美子さんは私への叱責をやめ、詰所ではいつも通り申し送りが始まった。


※不穏……落ち着きなく興奮した様子になること。

※弄便……下着やオムツにした便を手で触ったり、衣類や寝具、壁などにつけたりすること。

※リハパン……リハビリパンツの略称。自立歩行が可能な被介護者が履く紙パンツのこと。


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