養老院怪奇脱出譚~老人ホームからの脱出~
彩華じゅん
1.ある夜の光景
「やめろ! 離せ! お前は私を殺す気だべ!」
夜の施設内に老婆の声が響く。
「違いますよ、トシさん。ほら、手が汚れちゃってるからきれいにしないと。」
それに応えるのは若い女の声。
「やかましい! あっち行け!」
ここはある特別養護老人ホームの居室。
四人部屋の一角にカーテンを引き、女は老婆のおむつを交換しようとしているところであった。老婆の手は、泥遊びでもしたかのように真っ黒に汚れていて、その手で触れたのであろうシーツやパジャマにも茶色いまだら模様が描かれている。
「トシさん、大丈夫ですから暴れないで。すぐ終わりますから。」
興奮した老婆、トシがでたらめに振り回す手足に妨害され、女はおむつ交換どころかズボンを脱がせることも出来ないでいる。
「やめろ! バカ! くそ女! 」
興奮した老婆、トシがでたらめに振り回す手足に妨害され、女はおむつ交換どころかズボンを脱がせることも出来ないでいる。
「トシさん、一回落ち着きましょ。大丈夫、大丈夫ですから。」
「何が大丈夫だ! 」
トシは女の手を掴んで噛みつこうとするが、女の巧みな回避によって勢い余り、自らの汚れたパジャマの袖を口に入れようとした。
「あっ! ダメ! 汚いって!」
女がトシの手を咄嗟に掴むと、トシは今まで以上に大声で叫びだした。
「痛い痛い! 痛いよー!」
「そ、そんな、痛くなんてしてないでしょ!」
まるで自分が暴力でもふるっているかのような物言いに、女は少し語気を荒らげる。その時、かさりと音を立て、カーテンが隙間を開けた。
「ちょっと。」
びくりとした女の背後に立っていたのは、もう一人の老婆だ。腰の曲がりが強く、折りたたみかけのガラパゴス携帯電話のような体勢の老婆は、トシの隣のベッドを使っている入所者である。
「どうしました? タエさん。」
トシの攻撃をかわしつつ、ぎこちない笑顔を浮かべる女に、その老婆、タエは不安げに問う。
「申し訳ないねぇ。お便所行きたいんだけっども、どこに行ったらいいべ?」
女は一瞬、またか、と言いたげに顔を歪めたが、すぐにまた笑顔を浮かべて言う。
「トイレは突き当たりですタエさん。この部屋を出て右の方。」
「何だって?」
しかし、女の声は耳の遠いタエには届かない。寝ている老人たちを起こさぬよう、女はひそめた大声で話す。
「トイレは右の突き当りです!」
「あ?」
しかしそれでも話は通じない。女はタエの耳元に口を近付け、一言一言区切るように話す。
「右の、突き当り!」
「突き当たり? 何だべ?」
「トイレ、右の、突き当り!」
「何だって?」
「トイレ!」
「耳遠いんだな。お前さんも大変だな。」
目の前で繰り広げられる出口の見えない問答。その不毛さに毒気を抜かれたのか、先ほどまで興奮していたトシは二人を見てニヤニヤと笑っていた。
「ははっ、トシさんったら。そんなこと言うもんじゃないですよ。」
つられ笑いをして振り向いた女の目に、ナースコール用のPHSがトシの汚れた手の中で弄ばれている光景が映る。
「わ、トシさんそれ触っちゃダメ!」
トシの攻撃を避けるはずみで、女の胸ポケットからベッドに落ちたのだろう。PHSの白い機体はすっかり茶色く汚れてしまっていた。
「あー、あー、ピッチ、どうしよう……。」
だが女の落胆など年寄りの生理現象の前には関係ない。女の背後に佇んでいたタエは、ベッドの柵につかまって曲がった腰をめいっぱい伸ばし、至近距離で女の顔を覗き込みながら再び問うてくる。
「ちょっと。申し訳ないねぇ。おトイレ行きたいんだけっども、どこに行ったらいいべ?」
「だから……! うん、分かった。今一緒に行くから。ちょっと待っててくれますか?」
「何だって?」
その時、トシの手の中で便まみれのPHSの画面が点灯し、甲高いコール音を鳴らし始めた。
「わわ、トシさん、それ返してもらえますか?」
「ダメだ! 私のだ!」
ニヤニヤ顔から一変して般若になったトシは、PHSを取り戻そうとする女に唾を吐きかけて抵抗する。その間にもコール音は鳴り続け、入居者が寝静まってシンとした施設内にその音はやけに響いていた。
「トシさん、皆起きちゃうから。返してください!」
女が焦れば焦るほどトシは意固地になり、やがて――
「殺されるー! 誰か助けてー!」
全てがふりだしに戻った。
「だからそんなことしませんって。」
「人殺しー! あっち行きなさい!」
大声を上げ、ベッドを軋ませて暴れるトシ、それを必死に止める女、なり続けるPHSのコール音。正に阿鼻叫喚である。この喧噪の後ろで、タエがふらふらと居室から出ていくことに女が気付くはずもない。
「静かにしなさい! やかましくてとっても寝てられない! 」
騒動に耐えかねた同室の利用者からついに声が上がる。
「ご、ごめんなさいっ。って痛たたた! ちょっとトシさん、やめて!」
一瞬そちらに気を取られた女は悲鳴を上げた。トシが彼女の二の腕の柔らかい部分に爪を喰い込ませ、ギリギリとつねりあげてきたのである。その力たるや、この細い身体でよくそれほど出せるものだと感心してしまうほど強い。
「お前なんかいなくなればいいんだ!」
「痛い! 痛いって! やめて!」
既にコール音は止んでいたが、あまりの痛さに女は力任せに振り払ってしまった。そして、年寄り相手に本気を出してしまったことに気が付いて冷や汗を流す。
「ごめんなさいっ、痛くなかったですか?」
「叩いだ! このおなごがオレのこと叩いた!」
「た、叩いたわけじゃ……!」
「助けてー! おっかねぇよー! お母さーん! お母さーん!」
「おい! さっきからコール鳴らしてるのに誰も来ねぇのか!」
隣の男性用居室からも怒鳴り声が聞こえてきた。
「はい! 今行きますから! トシさん、お願い。おむつだけでも替えさせてください。」
「人殺しー! 人殺しー! お母さーん! 助けてー!」
しかし、現在女の思うように行くことなど何一つとしてない。
「あのねぇ。」
再びカーテンが開き、女の腰よりも低い位置からしわがれた声が聞こえた。
「ちょっと待ってね、タエさん。」
その声に女は食い気味で反応を返す。
「おトイレ行きたいんだけっどもね、どこか分からなくて、困っちゃったの。」
カーテンの隙間からタエが女に何かを差し出してきた。咄嗟に受け取るとそれはずっしりと重く、手にほのかなぬくもりを伝えた。同時に、コンソメ味のスナック菓子を開封した時のような独特の臭いが鼻をつき、女の表情が強ばる。
「タエさん? 間に合わなかった……?」
タエが女に手渡したのは、吸水力の限界をはるかに超えた尿取りパッドだった。
「申し訳ないね。おトイレ行きたいんだけっども、どこに行ったらいいべ?」
暗闇に目を凝らすと、タエのパジャマのズボンはぐっしょりと濡れ、裾からポタポタと雫が落ちるのが見えた。
「うそ……。」
泣きそうな顔の女を尻目に、便まみれのPHSが再び鳴り始める。
「ちょっと、待って……。」
夜はまだ長い。
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