第八話 ぬし
「行ってくる」
誰もいない家にそう告げ、俺はタバコを吹かした。
車のトランクに積んである、大型海釣り具一式を確認すると、
山奥にあるわけでもなし、景観が良いわけでもなし、清々しいわけでもなし。
泥臭く、藻も浮いている。
ここは正式な地名があるらしいが、俺は「沼」としか呼ばないことにした。
ボートの鍵を解き、車から持ってきた釣具と
「待ってろや、ぬし」
種類はブラックバス、と思われる。その体長は三メートルを超える。
その出会いは偶然だった。
水面から飛び上がったそれは、魚とはとても思えなかった。地元に聞いても、そんな魚は知らないという。
俺に挑戦状を叩きつけてきた、そう受け取ったのだ。
それから十年の歳月が流れた。
呆れた家族は離縁し、俺は会社勤めを辞め、融通の聞くバイトに転職した。
そんな、今までの道のりがこの淀んだ水面に映ってくるようだ。
「金に興味はないが、ここのぬしは俺のものだ」
巨大ブラックバスの釣果を申請し、認定されると大金が手に入る。そんなものは要らん。俺がほしいのは、釣った証ただそれだけだ。
今日も俺一人だ。
情報を探していた十年前は、それが火種となり多くの釣り師がこの沼を狙ってきた。だが、誰もそんなものは釣り上げていない。そもそも、ブラックバスが生息しているのかさえ疑うやつも出た。
「ぬしは、ブラックバスのようなものだ。まずその思い込みから消さねば」
ゆっくり深呼吸をした。
肺に残ったタバコの煙、脳に残ったニコチンが全て洗い流され、心が澄んでいく。
ゆっくりと碇を下ろした。
相手は三メーターをとっくに超えているだろう。こんな小さな船では、ヒットした時ひとたまりもない。
ここは、梅雨の影響を最も受け、水かさが溢れかえり、一キロ弱隣りの川へ流れていく。お陰で淀んではいるが水は死なない。
水が入れ替わった今が、もっともいい時期だ。
誰も聞かない講釈をブツブツと言って数時間が経過。外道のブルーギルが五匹は連れたが、こいつらのほうが傷ついている。ブラックバスよりも凶暴なはずなのにだ。
「ぬしめ。俺を呼んでいるのか」
他のブラックバスは全く釣れない。ああいう凶暴な魚がかろうじて釣れる。魚影も確認できない。
何十回目のキャストか、忘れかけたその時、竿が大きくしなった。
「来たか。ぬし!」
大物カジキやマグロとの格闘にすら耐える竿が、悲鳴を上げる。沼でこんな奇妙な光景を他の釣り師がみたら、きっと
もうそんな余裕も言ってられなくなった。
左右に身体を振ってくる。まるで自動車を釣り上げようとしているみたいだ。
船が揺れる。
バランスを取るため膝をついた。
が、その時、足を滑らせてしまった。
「はじめまして、夢野魅苦です。魅苦とお呼びください」
「いててて。なんだ、姉ちゃん。てか、俺は沼で釣りをしていたはずだが」
「今気絶をしています。《夢目》の世界です」
「夢……。てことは、さっきのアタリは」
「現実ですよ」
「こんなところにいる場合じゃねぇ! 早く、ぬしを釣り上げねぇと」
「慌てないでください。ここでは時間が止まっています。《夢目》から覚めない限りは大丈夫ですよ」
「本当か?」
「はい。信じていただけませんか?」
「夢なんだ。信じるも何もないだろ」
「ありがとうございます」
上目遣いで喜んでやがる。クラブの姉ちゃんたちと変わらねぇが、あの娘ら以上の上玉だな。でも子供っぽい。
「なあ、歳を聞いてもいいか」
「はい。十七歳です」
「やっぱりか。ホステスみたいにべっぴんだから、もしかしたらと思っちまったよ。すまんな」
「いいえ。光栄です」
「ところで、なんでこんな夢を。いや、夢に理由なんてないか」
「お招きした訳は、人生の分岐点に戻るチャンスを差し上げるためです」
「分岐点?」
「人が必ず一度は通る分岐点、そこにもう一度《巻き戻る》権利です」
「俺の分岐点って言えば、家族と離婚する直前か?」
「もしも複数通ったのなら、選ぶことが出来ますよ」
あの時、ぬしに出会わなければまだ家族と暮らしていただろう。寂しくないと言えば嘘になる。息子も向こうに行っちまった。もう高校生か。まっとうに育ったのかグレているのか、それすら知らない。
このミクって娘と同い年か。彼女の一人くらい作ったんだろうか?
「選ばないってことも、出来るよな?」夢なのに大真面目に聴く俺も馬鹿だ。
「もちろんです。そのときは目が覚めた後、また釣りの続きですね」
ぬしを釣ったとして、俺はその先どうする? あれ以上の獲物はもう出会えない。海に求めるか? いいや、そんな資金はもうない。
家族とやり直すなら、息子と喧嘩しながら成長を見守ることが出来るし、たとえ親不孝に育っても、あいつさえ生きてくれているなら俺は悔いはない。
「《巻き戻して》とおっしゃりますか? それとも釣りの続きを選びますか?」ミクがもう一度聞いてきた。
釣りを選ぼうと口を開いたとき、息子と家内の顔が
「《巻き戻して》くれ」
「承りました」
家族に会いたい。
「親父、おい、親父」
「あ、ああ。
「親父、釣りに行くんじゃなかったのか」
「……いや。今日はやめとく」
「珍しいな、毎日釣りしか考えない親父が」
「昌幸は今日は遊びに行くのか」
「いや。何もないけど……」
「じゃあ、どっか行くか。Jリーグとかどうだ」
「え、親父がサッカー? どうしたんだよ、あんなにつまんなさそうに見てたのに」
「いいからどうなんだ。気が変わっても知らんぞ」
「行くよ! 母ちゃん、俺、親父とサッカー見てくる」
これで良かったんだ。
ぬしを追いかけても、その後の人生は無いも同じだ。
「んんんんん、んんんんんん、ぬしめ、ぬしぃぃぃ」
「あんた、ちょっと、あんた」
家内に揺すられて目が覚めた。
冷や汗がものすごい。
「何を見たの?」家内が夢について聞いた。
「いや、その、魚の夢だ」
「呆れた。寝ている間も釣りをしているなんて、困った人ね」
「なあ、今から、その……しないか」
「え? どうしたの、急に」
家内も俺もまだ三十代。久々の身体にムラムラしたのと、夢を忘れたかった。
そして、家内を激しく抱いた。
それからも悪夢の度に家内を抱いた。
そのせいか、息子に妹が出来た。昌幸から十歳も離れた娘だ。
まさかのもう一人の孫の誕生に、両家の祖父母はお祭りさわぎだ。
ただ、昌幸だけはどうもぎこちなかった。
「どうした、妹だぞ。ちょっとは抱っこしてやれ」
「いいよ。俺は」
「何を照れているんだ。ほら、もう首も座ったから大丈夫だぞ」
「う、うん」
ゆっくりと受け渡すと、ぎこちなく両腕に抱いた。
昌幸から少し笑顔が見えた。
家族が増えたおかげか、悪夢を見ることは少なくなった。
昌幸も妹の世話をよく焼くようになった。
「あいつも兄らしくなったみたいだな」
「そうね。
「あいつはなんて言ってんだ、大学行きたいって?」
「サッカーで悩んでいるみたいだけど、どうなんだろうね」
「ゲームもせず、マンガも読まず、遊びもせず、熱心な子だな。そういえば、あいつは彼女の一人くらい出来たのか?」
「年頃なんだから、あっても言わないでしょ」
「まあ、それもそうだな」
ぬしに取り憑かれていたあの日に比べたら、なんて平穏な時間なんだ。《巻き戻って》良かった。ミクちゃんを信じてよかった。誰も信じないだろうけど、息子が結婚する頃にはおとぎ話のように教えてやるか。
すっかり悪夢から開放され、幾晩か過ぎた。
その夜、目が冴えてしまって、台所に水を飲みに行った。
すると二階から何か声が聞こえて来る。
英語のリスニングでもしているのか?
俺が仕事から帰宅して、台所に行くと、いつものように冷めた飯がおいてあった。
「さて、チンでもして食べるかね」
とお盆を持とうとすると、雪温が寄ってきた。
「どうした。何かようか」
「お父さん、ん……ん……、おかえりなさい」
「あ、ああ。ただいま」
「それじゃ」
歩きにくそうに部屋に戻る娘に、首を傾げながら俺は夕食を取った。
俺は、部長に昇進した。
仕事が認められたというより、年功序列のほうが大きい。そろそろ五十も半ばだ。
これ以上の責任は勘弁して欲しい、と冗談交じりに同僚や部下たちと祝杯を上げた。
「ただいま」帰りは遅くなってしまった。あらかじめ家内には伝えてあったので、皆休んでいるだろう。
風呂場から音が聞こえる。
靴下を脱ぎ捨てるためにそこに行くと、雪温の服がおいてあった。
一応声をかけた。
「すまん、お父さんだ。着替えをしたらすぐに脱衣所から出ていくから待っててくれ」
「う、うん」娘のシルエットがなんかふっくらしている気がする。
太った? いやまさか。
「雪温!」
「きゃっ」
「おまえ、そのお腹……」
雪温は泣いていた。
どういうことだ? どうしてこうなっている。服の上からではわからない、僅かな膨らみだが、家内の妊婦姿を二度も見ているから、男の俺でも分かった。
「服を来たら、居間に来なさい。お父さん、怒らないから」
出来るだけ平静を装った。
激昂するのは簡単だが、それでは部下にすら見放される。まずは理由を聞いてからだ。
「お父さん、おかえりなさい……」
「とりあえず、座りなさい」
腕を組まず、あぐらに手を乗せてリラックスした態度で接するようにした。
娘は何も言わない。
「そのお腹の子は、相手は誰なんだ?」
「……」
「よし、まずはひとつづつ可能性を潰していくぞ。乱暴されて出来たのか?」
首を大きく振った。
「ふう……」茶を飲んだ「次だ。その相手のことが好きなのか?」
うんとも、ううんとも言わない。
「んん。それじゃ質問を変えよう。好奇心で、ああまだ難しいか。気持ちいいなと思って、試してみたのか」
ピクリと頭が動いた。でもこれではよくわからない。
「気持ちいいからやってみようと、誰かに言われたのか?」
ゆっくりと頷いた。
「初潮が来てないから、出してもいいと言われていたか?」
強く頷いた。
ああ……。たとえ生理がまだでも、ずっと中出しされていたらいつかは排卵がきて妊娠してしまう。生理は排卵の後に起こる現象だと正しい性知識を、娘は知らなかった。そして教えていなかった俺も責任がある。
「よし。雪温、こっちをむいてくれるか」
「うん……」涙をいっぱいに浮かべていた。
「今のお父さん、怖いか? 怒っているか?」
「ううん。でも、悲しそう。ごめんなさい、ごめんなさい。ええんー」
「ああ、泣くのは後にしなさい。最後の質問だ。相手は誰か、言えるかな」
「……お兄ちゃん」
「近所のか?」
「ううん、うちのお兄ちゃん」
流石に血の気が引いた。
グレるどころか、血の繋がった実の妹を妊娠させたとは……。
「すまん、タバコを吸わせてくれないか。あ、いや、妊婦に悪いか」私は急須から、なみなみと茶を注いで、一気に飲んだ。
「お父さん、お兄ちゃんを叱るの?」
「昌幸の答えによるな。もしもその子供の責任を取る覚悟もなかったなら、叱るしかない」
「お兄ちゃん、堕ろせって……」
気がついたら俺は寝ている息子の顔を、変形するまで殴りまくっていた。
家内が止めてなければ、殺していたかもしれない。
もう、中絶には遅すぎた。
娘はまだ小学生だ。
当然、学校中の噂になった。
学校に言って、娘を休学させた。
産婦人科に診せると、若すぎるため難産は避けられず、下手をすると母体が無事では済まないと言われた。
サッカー一筋でマンガもゲームもやってない息子が、どうしてこんなことをしでかしたのか。
息子を預けている施設に呼び出されて、その理由に驚いた。
「息子さんが言うには、ご両親の性行為を見て抑えてきたものが爆発したらしいのです」
だからといって、娘にその劣情を向けなくても良いではないか。
「息子さんの学校は恋愛禁止で、かなり厳しい校則だったそうで。真面目な彼は行き場を失ってしまったのでしょう」
もうどうしようもない。
母子ともに無事に産まれてくれることを祈るしか無い。
家内と一緒に産婦人科の分娩室に入った。
帝王切開しか方法はないほどお腹が大きく膨れ上がっていた。
執刀医のメスが娘の腹に入った。
目をそらしてしまったが、不安がらぬように手をしっかり握った。
看護師が抱きかかえたものを見せた。
「大きな赤ちゃんですよ」
それは、顔が平たく身体も平たい、まるで――。
「ぬし! キサマ、なぜこんなところに! なぜよりにもよって、娘の中から、しかも別のやつから釣られたんだ!」
「お父さん、落ち着いてください」執刀医が怒鳴ったが、これが黙っていられるか!
「ぬしぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!」
俺は、拘束されながらも叫び続けた。
「あれは魚なんだ。見ただろ、あれは、俺がずっとずっと追い求めていた
「……あんた、あれは普通の赤ん坊だよ」
「そんな、馬鹿な」
俺を押さえつけている看護師を見ても、静かに首を振るだけだった。
……ああああああ!
――「釣り逃した魚は大きいと言いますが、意外な形で再会するものですね。それではまた、逢える刻を」
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