第十話 今は天才
ウチの大学病院には、千年に一人と言われた天才外科医がいた。
指名なんてしょっちゅうだ。
海外からも依頼があるほど、世界でその名を知らないものはいない。
専門は四肢。つまり腕・手・
心臓や脳みたいな、よくドラマで扱われる花形とは違うので地味に思う人も少なくないが、四肢の障碍で苦しむ人は世界中にいる。
ふつう、腕のみとか
筋肉・腱・骨・神経、全てにおいてスペシャリスト中のスペシャリストだ。悔しいが私ではAIの助けがあっても追いつけないだろう。
彼の施術で脚の切断を覚悟していた患者が歩けるようになり、隻腕を覚悟していた患者があやとりが出来るようになるまで回復するなど、本当に奇跡としか言いようがない腕だ。
彼のことばかり褒めるのは悔しい。
この医局では誰しもそう思っている。
イケメンではなく、どちらかと言うと渋いオッサン顔だが、それがさらに信頼への首飾りとなっていたのだ。
俺は結構イケメンで通っていたが、やはり三十も過ぎると見る影もない。こっそり他所のAGAに通っているくらい、若ハゲも進行していた。
「田本さん、どうぞ」
「はい、失礼します」
「拝見します」
「どうですか?」頭頂を見られるのは本当に気分が滅入った。
「効果は現れてますよ。ただ、ストレスが見受けられますね」
「ストレス……」
「同業者の田本さんにこんなことは釈迦に説法でしょうか、何事もストレスはいけません。なにかご趣味を見つけられましたか」
「……いいえ。先生のお勧めでゴルフもやってみましたが、どうもしっくり来なくて」
「どうですかな? ここは思い切って、院を移られては」
「院をですか」
「ええ。噂で耳にしてますよ、それこそタコが何匹生まれたか分かったもんじゃない。学ぶために同じ院で頑張るならともかく、田中
「分かっているんですが、心がそれを拒むんです」
「そうですか……。もっとお話を聞いてあげたいんですが、時間が取れません。心療内科の信頼のおける先生をご紹介しましょうか?」
「いいえ」
「ああ、それらか」
「はい?」
「彼女を作られる、というもの良いですよ。まだ独り身でしょう」
「女遊びはもう」
「頭のことでしたら、回復はしてますから気になさらず。クラブでもなんでもいいんです。女性と付き合うことは男の活力になりますからな」
「はい……ありがとうございました」
私は扉を締めた後、肩でため息を付いた。
若い頃はそりゃ、何人の女とやったか分からない。中学三年生から初めて彼女が出来て、同級生だけではなく、いろんな女と寝た。
だが、そのたびに虚しさが積もっていった。
今じゃ、朝立ちすらないし、自分で慰めることもない。
たしかに医学的に、異性との接触は心に活力を与えるだろう。だが例外だってあるんだ……。
このままでは、私は凡人として埋もれるだけか。教授連中の接待奴隷にされるだけか。
自宅に帰った俺は、自分で処方した睡眠薬を飲んで寝た。
「はじめまして。夢野魅苦と申します、魅苦とお呼びください」
「あれ。ここは?」
「《夢目》の世界です」
「私は睡眠薬を飲んだんだ。レム睡眠は起きにくいはずだが」
「さすがはお医者様ですね。でも、ここは《夢目》なのですから、仕方ありません」
「君は一体何なんだ? 記憶から作り出された虚像……にしては会ったことも見たこともないな」
「あなたは、人生の分岐点でやり直したいと思われていませんか?」
「分岐点ね。そりゃあるさ。誰だってそうだろ」
「実は、君崎さんは、私にお会いしています」
「⁉」
もうあいつの名前は口にしたくもなかった。あの天才外科医が同じ夢を見ている?
いいや、これは夢なんだ。記憶の断片整理なんだから名前が出てきてもおかしくない。
「君崎さんは、《巻き戻って》ます」
「何を言っているんだ」
「彼はこの先、重大な医療ミスを犯します。両手両足がガンに侵されそれを取り除く手術で、健康な筋肉を誤ってとっちゃいました」
「そんな、ありえない。あいつがそんな単純なミスするものか」
「ヒューマンエラー」私はハッとした「ご存知ですよね」
「ああ……。どうしても起こしてしまう人間ゆえのミスだ。特に医療分野は問題になっている」
「それが一気に君崎さんに起こったのです。彼は公表して謝罪し医者をやめようとしましたが、周りが許しませんでした。隠蔽に良心が耐えきれなくなった彼は、《夢目》の世界に訪れたのです」
「さっきから君は、夢を特別な物の言い回しで言っているように聞こえるが」
「まあ⁉ そこにお気づきになられる方は本当に珍しいのですよ。はい、《夢目》とは、漢字で『夢の目』と書きます」
「夢の目? なんだねそれは」
「夢を見るとき、さらに夢がこちらを見ている、その目に見つけられた時に訪れることが出来る場所……。ちなみに目とは私の目です」
ミクと名乗った彼女の大きな目は、宝石のように綺麗だった。だが、その奥から背筋を凍らせる何かが潜んでいるように思えてならなかった。
「つまり、なんだね。ここは君の世界ということかい」
「有り体に言えばそうなります」
「《巻き戻っ……た》とはどういうことだ」
「つまり、過去に戻ってもう一度やり直したのです。君崎さんの場合は、たしか研修医の頃でしたか」
「なんだって」
「『修行不足だからあんなことをしたんだ』とか言ってましたね」
「それで君の手助けも会って、あんな天才が生まれたってわけか」
「いいえ」ミクは大きく首を振った。さらさらの黒髪が翼のように広がった「私は一切関与していません。天才と呼ばれるようになったのは、彼の努力の賜物でしょう」
「私も!」
「はい」
「私も、《巻戻れば》ああ成れるのか」
「それは、あなた次第ですが、あなたの分岐点にもよりますね」
「いったろ、分岐点なんていくつもくぐり抜けて、医者になったんだ」
「本当にそのようですね。これはこれは、華々しい」
「ん? な……なんだこのパネルの数は。なんだこの映像は」
気が付かなかった。
周りに幾つものパネル映像が宙に浮いて漂っていた。しかもそれは、私が辿った分岐点ばかりだ。
こうしてみると、ドームになるほどの道を私は選んでいたのか。
「どこに《巻き戻る》のか。選ぶのはあなた自身です、もちろんチャンスは一回です」
「一度だけなのか」
「はい。よく考えてください。そして、《巻き戻して》とおっしゃりますか、否か選んでください」
あいつはこれで天才になったんだ。
俺だって成れるはずだ。
「どうせ夢なら、そのまま覚めるだけだ。《巻き戻して》くれ」
「承りました」
「……ねぇ、裕二。どうしたの、腰止まってるよ」
「ここは……」
目の前の女は、初めてセックスをした女の真理亜だ。性欲が人一倍強すぎてすぐに別れたんだっけか。
だけど、こいつ、今は君崎の妻になった。つまり、あげまんってことか。
「ねぇ。あそこ乾いちゃう」
「ああ、今日はおもいっきり激しくしてやるよ」
この私の身体、この精力、この持久力、間違いない。本当に戻ったんだ。しかも、医療知識が全て残ってる。
真理亜とこうなったのは確か中三のときだ。
そんなことを考えているうちに、真理亜は絶頂に達した。俺は中出しした。
「熱っ。……やだぁ。安全日だけ……ど、出来ちゃったら」
「これはプロポーズだよ、真理亜」
「何……? 私達まだ中学……じゃ」
「幸せにするから。お前を一生の女に決めた」
「……あ、私まだイったばっか……」
改めて真理亜を検分すると、実は非常に優秀な才女だとわかった。
勘もいいし、何より医療に強い興味があった。
そういうことか、君崎。お前はこいつに支えられてあそこまで登りつめたのか。
だが、予想外の事が起こった。
あの一回で妊娠したのだ。
「真理亜、私はお前を捨てない。絶対にだ。親も説得してみせる」
「本当に?」
「ああ。そして俺は医者になる」
「本気になったんだ。付き合い始めた頃は、おぼろげだったのに」
そう。私が医者を真剣に志したのは大学受験の時だった。
戻った私は早速現場に慣れようと、とにかく病院を回った。
たとえ医療行為が出来なくても、現場にいるといないとでは雲泥の差だ。
私に今足りないのは知識ではない、経験だ。
自分と真理亜の両親に頭を下げた。
向こうの父親からは拳で何度も殴られたが、これからのバラ色の人生を思えば、こんなもの祝砲みたいなものだ。
私は難関の医療大学に一発合格した。あのときは三浪したが、悔しさのあまり全問覚えていたのが幸いした。
子供である娘も大きくなった。
真理亜は、母性よりも性欲が強かったため、多少育児に問題はあったが、俺は現代の、いや未来の育児教育の
実はもうひとり欲しかったのだが、真理亜が乗り気ではなかった。寂しい思いをさせるかもしれないが、娘には一人っ子になってもらった。
まだ研修医の資格すら得ていない大学一年の頃、新しく勤めた病院で事件が起きた。
「大変です、患者さんが腹部に激痛を訴えてます」
「処置はしたはずだ。なぜだ?」
医師たちは混乱していた。
でも未来の医学を学んだ私なら対処できるかもしれない。
後学のためとお願いして、付き添いを許可してもらった。
医師たちはやはり首を振った。
「わからん」
私はカルテを盗み見た。
「なるほど……」
「なんだね、田本くん。君はまだ研修医でもないんだ、黙ってみてなさい」
「これから言うことは、独り言です」
「何を言っているんだね」
構わず私は、検査内容の指示と処置と経過と更には治療の方法と
「――。独り言は終わりです。それでは私は邪魔になるといけませんので」
と病室を後にした。
今だけ手柄はくれてやる。
私が焦って手を出せば、医師免許が取れなくなる。そんな愚行は侵さない。
レントゲンの過去の写真を整理しようと向かうと、この病院の教授が私を呼び止めた。
「待ちなさい」
「何でしょうか教授」
「君の独り言のことだがね、一体何処でそんな知識を学んだ。経験してなければ不可能だ」
「私は、一度たりとも医療行為はしてませんよ。なんでしたら警察でもなんでも使って取り調べてもらっても」
「そんなつもりで言ったのではない」
「では?」
「君にオペの助手を頼みたい」
「はい? 私はまだ何も出来ませんよ」
「いいや。ただ横に立っているだけでいい。執刀は私がやる。だが」
「だが?」
「君が研修医になったら、私の後任は君だ。私は権力なんぞクソ食らえと思っててね。真の天才がトップに立つべきだと思っている」
「はぁ」
生返事をしておいたが、本当はガッツポーズを取りたくて仕方なかった。
ここの教授が青臭い正義感を持っていたことは、有名で医師会から爪弾きにされていた。だからこそ、狙い撃ちしたんだ。
国家試験には一発合格。
そして、周囲の猛反発を買いながら、研修機関を終えてすぐに教授になった。
自分のでもあり得ないくらいのスピード出世に怖くなるくらいだ。
いよいよあいつが、君崎が赴任する日が来た。
「君が君崎さんかね」私は教授椅子に座りながら言った。
「は、はい。あの失礼ですが驚きました。まさか本当に私と同じ若さで教授になられた人がいるとは」
「運が良かっただけですよ。ところで、夢野ミクさんとはお知り合いかね」
君崎の眉がピクリと動いたのを、私は見逃さなかった。
「さ、さあ。誰でしょうか」
「君は天才だそうだね」
「い、いえ」
「お互い、切磋琢磨しようじゃないか」
「もちろんです」
「ところで君は、独り身かね。履歴書には書かれてなかったが」
「そうですが、でも恋人はいます」
「そうか。結婚式はいつなのかな」
「早いですよ、その話は」
「それは失礼。もう構わないよ、仕事に戻って」
「はい、失礼します」
クククッ。お前の女は、今俺の股の下でよがり狂ってるよ。いい女だよ、あいつは。もう結婚して十年、美しく熟れてくれたよ。娘も器量よく育った。
なのにお前はどうだ、君崎?
ああ、笑いが止まらねぇ!
「ふふ、フハハハハ!」
私は天才の名を欲しいままにした。
それは君崎も同様だった。
『同じ時代に現れた二つの巨星』、そんな見出しが週刊誌に乗るようになった。俺は取材を断った。そんな時間があるなら家族を優先する。だが、君崎はどんどん取材を受け、天狗の鼻を伸ばしていった。
そして、運命の日はやってきた。
四肢が癌に侵され、胴体だけは何も問題がない奇病のクランケ。
君崎はこの患者を救うために《巻き戻った》らしいな。
お手並み拝見と行くか。
「教授、オペには立ち会わないんですか」
前は私の上でふんぞり返っていた男が、今じゃ俺のご機嫌取りだ。
「専門外だよ。モニターで見守ることにするよ」
「成功しますかね。世界中から選りすぐられたチームとは言え、最近の君崎先生は取材やら接待やらでロクに腕を磨いてませんよ」
「そう聞いているが、大丈夫だろ」
おかしい。
前の、私が《巻き戻る》前のあいつならこんなことはせず、まっすぐに医療に向き合ってたはずだが?
まさか⁉
「教授、オペ、始まりますよ」
「急用を思い出した。結果だけ聴くよ」
私は一抹の不安を覚えた。
スマートフォンから電話をかけ、医療にかかわる要人たちに問いただした。
「……ち、やっぱりか。あの野郎。罠仕掛けてやがった」
俺を教授の椅子から蹴落とすための算段を練っていやがった。
しかも、よりによって。
「俺の娘に手を出しやがった。他の男ならいざしらず、君崎にだけは渡さんぞ」
私はモニタールームに戻った。
「どうなっている?」
「あ、教授。今、山場です」
私は、あるスイッチを押した。
すると、モニターに映っていた助手執刀医の手がほんの一瞬だけ止まった。
手術は、失敗した。
前と同じ失敗を奴は繰り返した。
違うのはヒューマンエラーに限りなく似せた、私の指示ということだ。
わざと健康な部位と癌を一緒に君崎に見せたのだ。
それで奴が気がつけばよし、病院の名声は保たれる。
だが、気づかなければ……。
接待漬けだったやつにはその目が失われたのだ。
患者には悪いことをしたが実に愉快だ。
私は隠蔽をしなかった。
全てを白日のもとに晒した。
もちろん、裏工作については黙った。たとえ明るみに出ようと、それか直接の医療ミスにはつながらないと言われ、未練がましいと君崎が責められるだけだ。
君崎は医師免許を返上した。
私は建前で止めたが、あいつは頑固に断った。
何もかもうまく言った。
若ハゲも起こらず、天才の名を一人じめにし、美しい妻と娘で家庭生活を送れる。
なにも悪いことはない。
そんな帰り道、電話がなった。
「裕二、ねえ、真里が帰ってこないの」
「部活かなにかじゃ」
「違うの。部活の子が電話をかけてきたのよ。街にふらついているって」
「分かった。急いで帰る」
警察に通報した。
誘拐された目撃情報が出たのだ。
金ならいくらでも出すつもりだった。
でも犯人からは一切かかってこなかった。
私は、考えたくもなかった心当たりを刑事に告げた。
案の定だった。
君崎が私の娘を拉致監禁し、乱暴を働いていたのだ。
真里の四肢は、切断されていた。
「真里……、そんな……」私は妻と一緒に膝をついて泣き叫んだ。
妻は、どんどん老け込むようになり、とうとう気が触れて自殺した。
君崎は法定で私の罪を問おうとしたが、聞き入れられず死刑が求刑された。
私は面会に来た。
「君崎、なんてことをしてくれたんだ。私は愛する妻まで失った」
奴の顔は朦朧として、宙を漂っていた。
完全に狂っていた。
それでも実刑にこぎつけさせたのは、私が人権擁護団体どもの息が掛かってない、公正な弁護士と医師を鑑定につけたからに他ならない。
「君崎、なんとか言え!」
「ミクさぁん……」
「なんだ?」
「ミクさぁん……、早く来てよぉ。またやり直したいぃぃぃぃ」
「無駄だ。チャンスは一度だけだ。お前はそれを棒に振ったんだ。……それは私も同じだ、あの時以上の苦しみを私は味わっているんだからな」
「ミィィィィィィィィクゥゥゥゥゥゥゥゥゥさぁぁぁぁぁん」
警備員に連れて行かれてしまった。
私は、あのときのままが良かったのかもしれないと今でも思う。
愛するものをふたつも失った哀しみは、死ぬまで私を苦しみ続けるに違いない。魅力ある教授の地位も、今では殺人鬼を生み出した病院の顔となり、経営破綻寸前だ。
もう私の腕を必要としてくれる患者はいなくなった。
私は自らの命を断つことすら出来ないまま、生き地獄を味わい続けた。
――「ああ、そういえば。《魅苦》の漢字まで聞かれませんでしたね。……それでは皆様、また逢える刻を」
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