恋という凶器
神宮司亮介
恋という凶器
私のクラスの先生が自宅で何者かに殺された。そんな話を、私は早朝のホームルームで聞かされた。
「なんで先生が」白々しく嘆く女子生徒に聞こえないよう、私の隣の男子は「てめーこそ先生のことディスってただろ」と吐き捨てた。
顔馴染みのない教頭が事情説明をしたのち、このままでは授業の進行は不可能と見られたのか、私たちは早退する権利を与えられた。
教頭が居なくなり、私たちは帰る準備を始めようとしていた。普段は調子に乗りがちな男子も、今日ばかりは少し大人しかった。このまま誰も何も言わないまま今日が終わるものだと、誰しもが思っていた。
「犯人誰だよ」
みんなどこかで気にはなっていたが、誰も口にしなかった言葉。それを聞いたとたん、お前じゃないか、という言葉が続くだろうとわかっていたから、黙ったまま時が過ぎるのを待っていた。
「いくら先生にいつも怒られてたからって、今そういうこと聞くの不謹慎じゃないの!?」
クラスではよく目立っている女子が叫ぶ。その言葉に対する言葉は、きっと誰もが思い描いていただろう。
「そういうお前が、実は犯人じゃねぇのか!?」
「そ、そんなことない!」
「じゃあ誰がやったんだよ!」
クラスがざわつき始める。誰が犯人というわけでもないのに。このクラスの中に犯人が居るなんて、まだ誰も言っていないのに。
そんな混乱の中、私の目の端に小さく映っていた一人の男子がゆっくり、立ち上がった。彼は既に、通学鞄を手に持っている。
「お前、もしかして犯人じゃねぇのか?」
別の男子が、帰ろうとする男子に対して言い放った。しかし、通学鞄を持った彼はその言葉に動じることはなかった。
「どうしてみんなを疑う必要があるの? だって、このクラスに犯人がいますなんて、誰も言っていないのに」
そう言い残し、彼は去っていった。
混乱している教室を出て、私は彼の後ろを追った。階段を降り、玄関口で上履きから靴に履き替えようとしている彼を私の目が捉えた。
「カガミ君!」
私の声が届いたカガミ君は、靴を履いたところで止まった。
「どうして帰っちゃうの」
一番最初に聞きたかったことだった。
私がそう言うと、カガミ君は私に振り返って、こう言った。
「言っただろ? 別にこのクラスに犯人なんていないって」
カガミ君の言う通り、あのクラスに犯人がいる証拠はどこにもない。私たちの知らない誰かが殺した可能性だってあるのに、私たちは何故か私たちの誰かが殺したんだと思い込んでいる。
「何でだろうね。みんな、自分たちが殺したってどこかで思っているのかな」
続けてカガミ君は言った。
「さくら先生、何も悪くないのに僕らにいじめられていたからね」
さくら先生、それは、私のクラスの先生の名前。茶色がかったショートヘアーと口元のほくろが印象的で、先生という枠組みの中では勿体ないくらいに美人な人だった。日本史を専門にしているが、一時期流行った歴女というタイプではなく、近現代史に詳しい先生だった。
さくら先生は、いつも私たちに『全てを疑え』と教えてくれていた。無論、さくら先生が教えることすらも。それは何でも情報を鵜呑みにせず自分の頭で考えなさいということなのだろう。でも、その教えがさくら先生を苦しめていた。
思春期の私たちは、そのさくら先生の言葉を良い様に使った。さくら先生が授業をするときは、『先生の言っていることは全部嘘だ』とクラスのお調子者は叫び、女子たちは影で『私たちのことが好きなんて嘘だ』と言いたい放題だった。そのせいか、常に生徒からの評価は悪く、保護者会の間ではさくら先生を辞めさせるようにする動きもあったらしい。それでいて致命的だったのは、他の先生たちが考えている思想と、真逆の思想を持っていたということだ。
誰も通らない玄関口の異様な空間は、私たちだけがどこか違う時間に飛ばされたかのようだった。
「早くしないと、みんな出てきちゃうよ」
カガミ君はそう言って、校舎を後にする。
私は、それについて行くしかなかった。
「日頃からリストカットが絶えなかった。それに、先生はそれを隠そうともしなかった。一般的にみれば、その精神状態はもう、狂っている」
カフェに入った私たちは、さくら先生のことを話していた。カガミ君は至って冷静に、さくら先生のことを分析していた。
「でも、自殺じゃないんだよね」
「……だろうな。教頭先生の言っていることが嘘だったとしても、有り得ない」
その後の言葉が出なくなって、私たちは目の前に置かれたホットコーヒーをすする。普段よりも、舌に苦味が強く残った。
「そこに、何の論理性もないけど。さくら先生が自分から命を絶ったとは思いたくないね」
カガミ君はそう言って、窓の向こうを眺めている。
私はそんな、窓に映るカガミ君の姿を見ていた。
彼はいつも、何を見ているのだろう、と。
「さくら先生、カガミ君のこと、頼りにしてたよね」
私が考えるよりも先に、私はその言葉を口に発していた。カガミ君は私の方を見ると、一度コーヒーをすすった。
「先生、カガミ君にしか言えないこと、いっぱいあったと思う」
「残念だけどそれは嘘だ」
カガミ君はコーヒーの入ったカップを置くと、首を横に振って否定した。
「確かに、先生は僕に悩みを打ち明けはしてくれた。でも、本当に伝えたかったことは、言われてない気がする」
「でも、さくら先生、カガミ君のこと、いつも気にかけてくれてたし」
「僕は好んで一人でいるだけだ。さくら先生とは違う」
私は、カガミ君とは中学の頃の付き合いで、同じ高校に行くことにもなった。だが、この五年間くらいでカガミ君が他の生徒と一緒にいる姿を見たことは、ほとんどなかった。彼は一人でいつも、本を読んでいた。
「君みたいなお人よしがいなければ、僕はもっと孤独だったよ」
カガミ君はそう言うと、口元を緩めた。
「カ、カガミ君!?」
「僕は君がいなければ、もう少し屈折していたかもしれない。僕のようにクラスでは一人でいるけど、ネットの世界ではお友達がたくさんいる子みたいになっていたかも」
カガミ君はそう言って、また窓の外を眺めている。私は首筋が冷たくなって、一つ息を吐いた。
「君はわからないけど、僕は僕を仲間のように見てくる奴が大嫌いだった。彼らは皆、疑うことを知らない」
続けざまに放たれたカガミ君の言葉が、私の心を射抜いてくる。
「……どういうこと?」
「……大人の世界は汚いって思い込んでる奴とか? だって、おかしくないか。小説もドラマもアニメも映画も、大体悪者は同じような奴らばっかりだ」
カガミ君がコーヒーを飲む。私は、彼の喉仏を見つめて、深く息を吐いた。
「それの、何がおかしいの」
「……刷り込まれてる気がしない? 悪者は、そういう奴らだって」
そういう奴ら。具体的に言わなくても、誰のことを指しているかは察しが付く。
そしてそういうことを、理解したり納得出来る人はそういないような気が、私はした。
なんとなく、バカにされている気がして。
「でも、君は僕に、受け入れることを教えてくれた気がする。だから、僕は孤独じゃなかったよ。現に、僕はクラスでいじめられたわけじゃない。物知りな奴、くらいのステータスだったんじゃないかな」
カガミ君は、こんなことがあった日なのに、随分と幸せそうな顔をしていた。
「……カガミ君は、先生のこと、好きだった?」
私が一番聞きたかったこと。
カガミ君は確かに一人でいることは多かった。でも、放課後にカガミ君がさくら先生と一緒に話している光景を、私はよく見ていた。その時のカガミ君は、いつも笑顔だった。
だから、私はカガミ君がてっきり、先生のことを好きなんだと、愛しているものなんだと思っていた。そこにしっかりとした意味はないけども、私にとっては意味なんか必要なかった。
そう見えるのが、嫌だった。
「……残念だけど、君の推理は間違っている。僕はさくら先生のことを、女性として好きなわけではない」
だから、そう言われてしまった私は、胸の震えが止まらなくなった。
今まで考えていたことが全部嘘だったなんて。私は、衝動が突き動かすままに席を立った。
「ミナト!」
カガミ君の声がする。でも、もう私はカガミ君の傍には居れない。
元々、カガミ君の読んでいた小説が好きだったからという理由で、私が強引にカガミ君との関係を持とうとした。
最初、カガミ君は嫌がっていたが、そんなことお構いなしで私はカガミ君の隣に居ようとした。
誰かに取られないように。そう思って。
だから、私はカガミ君の考えを知らなければならないと思った。ふと口にしたことでも聞き逃さず、カガミ君に近付かなければいけないと思った。
気付いたら、カガミ君の居ない世界で私は孤独になっていた。
そんなカガミ君を、さくら先生に奪われたくなかった。
だから――。
「おい、待ってくれ、ミナト!」
今度は、私が追われる番になった。向こうで、サイレンの音が鳴り響いている。
私は、何度目かの呼び声にようやく応え、その足を止めた。追いついたカガミ君は、息を切らしている。
そうやって、取り乱すカガミ君が見られて、最後に良かったかもしれない。
「一つ、お願いしていい?」
私は、カガミ君の顔が上がる瞬間を待った。
そして、彼の同意もなしに、彼の口を奪った。少し前に飲んでいたコーヒーの苦みの中に、甘さが混じっていた。
どんどんサイレンの音が近くなってくる。だから、せめてもう少しだけと、舌を入れた。
カガミ君が、私の中に入ってくる。今までこんなことをしたことも、されたこともないだろう彼の心はきっと、彼が思っている以上に昂ぶっている。
好きだよ。たったその四文字を言うために、私がしたことは許されない。でもせめて、この時間だけはゆっくり進んでほしい、私は願った。
サイレンの音が、止まるまで。
恋という凶器 神宮司亮介 @zweihander30
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