拾の参

 薄暗い階段を駆け上がりながら、僕は考えていた。僕は、ずっと考えていた。半ば通り者に突き動かされるようにして。


 この半年ばかり、関の奴の所為で様々な怪異と出遭う羽目になった。だが、この世の真に一番恐ろしいものは、きっと自分自身であるのだと。


 息急き切って走る。五階は高い。だが、僕は自分の脚で登らねばならない。自分自身に始末をつける為に。


 自分は、いつだって思い通りにならない。大事なところで竦む。泣きたくないところで泣きじゃくる。理想を知っている癖に、その通りに動く事も出来ない。そうして、へらへらと笑ってやり過ごし生きている。僕は、いつだって臆病で卑怯で役立たずだ。そうして今は、心のどこかでこんな事を叫んでいる。死にたくないと。


 だが、耳を貸してはならない。僕は終わらせなくてはならない。こんな厄介で無意味な生を。それが楽なのだ。良い道なのだ。僕は下から追いかけて来る足音とわめき声に気づき、足を速める。


 僕には通り者が憑いているのだと言う。いっそ歓迎だ。ずっと頭の隅で思っていた事を、ようやく実行に移せるのだとすれば。僕に足りない勇気をもたらしてくれるのだと思えば。


 屋上へと続く扉を、不自由な手を使ってどうにか開けた。視界一杯に青空が広がった。期待した通りそこは無人で、乗り越えるにはそう難しくない程度の手すりしか無かった。僕は最後の力で駆け出し——、物凄い勢いで体当たりを受けた。たまらずコンクリートの床に転がる。右の頰を軽く擦りむいた。


「馬鹿野郎、お前、この、お前、何をしやがる!」


 関が血相を変えて掴みかかってきた。僕はそれを避けようとしてよろめく。拳が飛ぶ。僕はしたたかに殴られる。


「さっさと! 正気に戻れ! ここには鏡も何もありやしないだろうが!」


 僕はそれでもどうにか奴の拘束を抜けようと藻搔もがいた。手は封じられている。自由な脚で蹴りつける。


うるさい、煩い、僕は行かなくてはいけないんだ」


 手すりに両手を伸ばし、なんとか掴む。


「死んでどうなると言うんだ」

「どうなるかな。幽霊になるかも知れん。そうしてまたここに帰って来れば同じ事だろう」

「違うだろう、違う。君は何を見て来たんだ。違うよ。奴らと俺らは決定的に違う」


 そうだろうか。懐かしい婦人を思い出す。また、あの芳枝さんを。彼女らは生きている時分と余程違っていたろうか。まるで生者のように現れて、僕らを惑わした人々は——。


「奴らの真ん中には結局死しか無い。堂々巡りしか出来ずに、それでやがて消えて行くんだ」

「それは、今の僕と何が違うんだ」


 僕はずっと、幽霊の様に生きていたのでは無いかと思う。鬱々と、何かに怯えながら只管ひたすら酒を飲み、どこかにある死を確かに見据えて。

 だから、彼らに恐怖を抱きながらも、どこか惹かれていた。


「それでも違うだろう、なあ、君は未来派なんじゃ無かったのか。白紙がどうの、次回作がどうの、言っていたろうが!」


 言っていたろうか。何だか遠い事の様で思い出せない。関は手すりにすがる僕をどうにか引き戻そうとしている様だった。


「ああ、そうだ。二十円は返すさ。形見分けの時に持って行って貰えればそれで良い。証文があれば十分だろう」


 そうだ。これさえ言えば関もきっと引き下がる、と、そのはずだった。だが、関は余計に力を込めて、僕を無理矢理に引き倒した。


「舐めるな」


 僕の鳩尾は踏みつけられる。


「舐めるな、お前……お前は。お前らは!」


 関の中でぱちりと小さな火花が散り、何らかの火が点いた様だった。彼はしゃがんで僕の肩を掴み、叫んだ。


「何でそうやって、いつも先に行っちまう!」


 僕は瞬きをした。


「何でだよ。どうして俺はいつも見送る側だ。そうやってホイホイあっちに行っちまって、何でも無い風に帰って来て! それで、また消えちまうんだ。こんな話があるか!」


 関は涙を流さない。そう言う男だ。何でも勢いと舌先と暴力とで解決を図ろうとする。だが。


 例えば山で死んだ幼馴染。例えば仕事で知り合った女学生。例えば震災で亡くした細君。彼は幾つもの死者の話を語ってくれた。そうして、時々思い返すくらいが良いのだと持論をぶった。だが、もしも。


 この男が本当はずっと忘れられずにいたのなら。離別が深い傷になっていたのなら。そうして、ずっと彼らを恋しく思っていたのだとすれば。いっそ本当にあちら側に行ってしまいたいのが、関の方だったとすれば。


 僕は何度も、彼を人でなしと罵った。


「なあ、止めろ。生きていてくれ。これ以上俺の前から居なくなるな。これは俺本位の話だ。只の我儘わがままだ。俺には君の気持ちなぞわからん。だから言う。生きてろ。お前はどうしようも無い奴だが、それでも居なくなっていい筈がない!」


 僕は、すっかり力が抜けたようになって床に座り込んでいた。関がしっかりと掴んでいる右腕だけが痛かった。


 僕は、ずっと関の細い目を見ていた。目の中に小さく映る僕の影は、逆さまになって空中を落ちている様だった。やがて地面に落ちて只の潰れた死体になるのだろう。だが、その前に僕の視界はぐにゃぐにゃと歪んだ。


 僕の目から、涙が後から後からこぼれ落ちて来た。何の為に泣いているのかは、良くわからなかった。声を立てずに泣くのは、僕の得意だ。

 涙とともに、あれ程までに僕を動かしていた自殺念慮はどこかへ消え去って行った。代わりに、空虚な恐怖が残った。何者かへの憐憫が残った。


 僕はチラリと手すりを、その向こうの青い空を見た。そうして言った。


「帰ろう」


 関が僕の背中を叩いた。何度も叩いた。痛かったので痛いと言ったら、もっと痛い目に遭うところだったのに何を言うのだと言い返された。


 僕は、澄んだ初冬の空気の下、空を見上げる。

 乾ききらぬ涙の筋が冷えて、頰が少々ヒンヤリとしていた。


「……ところで関。この手の紐を外してくれよ」

「馬鹿、まだ油断できるか。君がまたぞろ妙な気を起こさぬ様、今日一日はそのままだ」

「このままで帰るのか! 酷いぞそれは」

「何、酒も断てて一石二鳥という訳だ」

「ますます酷い」


 僕らは笑った。まだどこか弱々しい笑いだったが、それでも、その声は寒空に響いた。


 そうして、僕らは再び階段を降りていき、屋上には誰の姿も無くなった。

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