第3話 医師
頬に当たる空気は冷たく、時折地上で輝く爆発の光が顔を焼いた。
空は地と違い、静謐な世界が無償で提供され、地には雑多な地獄が広がっていた。
私がライン戦線に配属され、時間は笑い話にもならない速さで経過した。
あまりの速さに自身でも驚きを隠せず、アインシュタインの相対性理論のように楽しい時間と苦痛な時間の認知的時間の差異を確かに認識していた。
このライン前線の従事は楽しいかと言われれば楽しくはないのだが、速く感じさせる要因は多くある。
要因の一つとしては、先日私が壊滅させた魔導中隊だ。
フランソハ魔導中隊の喪失が大きく、敵の士気は眼に見えなくとも、敵の動きの節々を注意深く観察すればサインを捉える事ができる。子供でもできる簡単なことだ。
もう一つが、検診を受けられるようになったという事だろう。
ヴォーヴェライトの率いる医師団の合流に、兵士達の精神的余裕が生まれた。
後方に比べれば格段に劣るが、東方や南方に比べれば上等な治療を受けれる。
治療と言っても医者自ら切り傷の消毒と、弾傷の縫合くらいだが。
何のことはい治療だが、「医者」自らという点が重要なのだ。
西方にヴォーヴェライトが医務にいると、北方や東方の軍医が如何に怠惰だったか体感できる。
処方する薬はマーキュロクロム液で「自分で塗れ」と言われない、検診治療を看護師に任せっぱなし、負傷兵の前線勤務可能か不可能かの判断。それだけしか行わない無能共より、彼らは兵士達に精神的安心感を与え落ち着かせている。
精神の安定はどんな現場であっても重要だ。
余裕が在り過ぎ脱力するのはいただけないが、張り詰めすぎればいつかは破裂する。
それが
温かい食事睡眠と献身的な医者の対応、僅かな嗜好があれば人はある程度は持つ生物なのだ。それをうまく理解し利用できないような軍隊が兵士を駄目にするのだ。
身体的不安、そして精神的不安。医師は体を救い、罪の意識に神が巣食う。
無神論者であった私には「神」は逃げ口実、よく出来た正当化された精神疾患と同じだった。存在Xに出会うまでだが。
「
『――
「第三小隊確認した。
さあ皆さん笑いましょう。
私達は
「
『
第三小隊は銃口を地上へと向ける。
私達は盲信する機械であればいい、忠義の為に、大義の為に、そして我らの為に。
ジークライヒ、黄金の時代を。
戦場には似つかわしくない軽やかなクラシック音楽が聴こえた。
どこか寂しげなで、平坦な曲徴。
落ち着いたテンポのピアノ音響が、検診を受けている者のみならず周囲の物さえも戦場の興奮に静かで緩やかな弛緩をもたらした。
私は音に釣られ音楽を流すテントへと向かう。幸いな事にそのテントは私が目的としていたテントであった。
そのテントは他よりも大きいもので張られたものだった。テントの前には白い子ヤギが退屈そうに座り込み、ちびちびと水飲み皿に舌を着けていた。
ふわりと漂う甘い香り。その匂いはまるで砂糖たっぷりのミルクティーを思わせる、刺さるような甘さではなく、軽く滑らかな匂いだった。
テントより出て行く者がいた。それは私の部下であるヴィクトリーヤ・イヴァーノヴナ・セレブリャコーフ伍長であった。
憑き物が落ちたようなスッキリした顔付きで足取りも軽い。
彼女は戦闘行為を避けるきらいが在った。私が医師団が定期的に行う心理カウンセリングを受けるようにと言っていていたが、あの様子は効果はあったようだ。
私はテントの中へ足を進める。
「失礼いたします。ジーヴァス大尉」
「うん? 珍しい患者が来たな。好きに座りたまえ」
私は彼の近くに置かれた椅子に腰掛ける。
眼鏡を掛けたヴォーヴェライトは私の顔をちらりと見た後、すぐにカルテにペンを走らせ検診結果を汚い字で書き込んでいった。
「人のカルテを覗き見るのは感心しないな」
「いえ、すいません。部下の名前だったもので」
「ふーン…、セレブリャコーフくんがねえ。心理診断でも見るかい?」
ぱらぱらとページを捲り、新しい紙に心理診断のページの字を綺麗に書写していく。
その行為に私は引っかかってしまう。初めから読める字で書いていれば紙の節約になったものを、非効率な行動だった。
「失礼な事を考えてはいけないよデクレチャフ少尉。これはセレブリャコーフくんの
「カルテを汚く書くことがですか?」
「カルテは一個人の身体情報のすべてを記した一時的な説明書だよ。それに加えこれは心理診断の結果も書いてある。内に敵がいないことを信じたいが彼女は
「カルテは数字や文字でしょう。写真があるならまだしも」
「人の欲を舐めてはいけないよ。特に感情と自己顕示欲が結びついたものは実に厄介になる。一塊になってしまえばそれにとって一個人の情報全てが興奮の一匙に変わる。文字でも数字でも臭いでも、音でさえもだ」
「酷く歪んでおりますね」
「俗に言うストーカーだよ。あらゆる個人情報が視覚的聴覚的に精神幸福に繋がるのだよ。起因は恐怖でも性欲でも精神疾患でも変わらない」
セレブリャコーフの精神状態を書き記したカルテの一枚を私の前に出した。
他者への依存傾向ありと。精神的支柱、上官への不信感を隠しながら盲信がすることがセレブリャコーフの精神衛生を保っていると私にも分かりやすく書かれていた。
上官への盲信という事は私がセレブリャコーフの精神的支柱という事だった。
信頼されるのは好ましい事だ、出世のいい証言者となりえる、が。
「上官への不信感とは? 何のことでしょう?」
「さあ、君自身に訊きたまえ。私は未だに君の検診はしていないのだからねえ」
彼の態度はどこか軍人らしさはなく、医者と言った雰囲気でもない。
良き友人としてこの場に居座っている。首より提げた十字架が医者と言うより神父の様相を醸しだしていた。
そのせいかヴォーヴェライトのカウンセリングはライン戦線では特に人気であった。
彼のカウンセリングは時折、甘味を提供するという話で定期的に行われるがそれ以外に足を運ぶものも多いと言う。テントの端に山積みに去れた心理診断書はそのせいであろう。
心理カウンセリングは兵士を後方に戻す第一ステップでもあり、後方に戻った兵士達の社会復帰支援の為だ。戦場と言う非日常から平和な日常へと戻った兵士達の反動は凄まじいものだ。銃や死に掛けの仲間を持っていた手に、矢庭にペンや紙を、除隊したものには鍬や仕事道具が。体と同じだ、縮んだ胃袋に大量の食物を流し込めばどうなる? ――吐き出す。自然の摂理だ。
精神も同じ、非日常から日常への帰還は
非日常の中で日常の帰還に対する余裕を持たせ、除隊したものでも食物生産を担う国力にするためだ。
彼のカウンセリングにどれだけの精神保養になるかは知らないが、甘味を求めてだけではないだろう。他の兵士たちの憑き物の落ちた表情を見ればわかる。
ヴォーヴェライトはペンを置き、小さな溜め息を付いた。
「少々疲れてしまった。君の検診は後でいいかい?」
「お気遣いなく。隊員の精神状態を確認しに来ただけですので」
「心優しく利他的なことだ、お茶でも飲むかい? 珈琲がある。味は保障しないが」
「戴きます」
検診台の横にある戸棚よりヴォーヴェライトは二つのカップを取り出した。
カチャカチャと鳴る金具をカップの上に置き、荒挽きの豆を注いだ。
「それは何です?」
「ん? 珍しいかね。これは東南で行われるの珈琲の淹れ方だよ。ペーパーは資源の浪費だからねえ、ネルは神経を使う、金属フィルターは洗えるし繰り返し仕えるし色々と容易だ」
湯を注ぎ、珈琲の濃厚な香りが漂う。
ヴォーヴェライトより匂う甘い香りと交じり合い、戦場とは別の後方の喫茶店でもいるように錯覚してしまう。
「味は重いぞ、ざらつきもある。コンデンスミルクはいるかい?」
「いえ、そのままで構いません」
「おお、チャレンジャーだ」
検診台に置かれたカップの一つを取り口を付ける。
「…あ」
少々私は驚いた。
ヴォーヴェライトの言うとおり、味は重く舌にざらりとした感触はあった。
しかしそれ以上にこれは飲める珈琲だった。
こちらで飲んだ泥水同然の豆の絞り粕とは違い、カフェインの苦味をキッチリ嗜好品の域にまで達している。
感動だ。まさしくこの感情は感動だ。
ここまで歓喜した事は前世今世の中でも人生少ないだろう。
「気に入ったようだね」
「大尉殿は帝国の中でも味の良し悪しをちゃんと理解しているようですね」
「今は非常事態だしねえ、腹が膨れればいい見たなところがある。デクレチャフ少尉はどういった生い立ちで?」
「孤児院の出で、まともな食事は」
「そうか。…私は良かった一般階級の家庭で生まれたのだがねえ。父親はクソ野郎だったよ」
ヴォーヴェライトは快活に笑った。
虐待されたと言う意味なのか。その割には陰りや身体的な傷跡は一つとして見えない。ヴォーヴェライトの姿は子供では在ったが、私のように精神的には成熟を果している。出世に息巻く私とは違い、楽しげに苦労も何も知らず生きる類の人間だ。
「大尉。質問をよろしいですか?」
「私は軍医だよ。神父と同じく誰にでも受け入れる度量はあるよ」
「それでは……、大尉はどうして医師を目指したのですか?」
「う~ん? 本職は人を治すと言うよりは生物体の正常な形態と構造を調べる分野なんだけどねえ」
「と言いますと?」
「解剖学が専門だよ。ここに派兵されたのもフランソワの魔導師にやられた君達を解剖する為に居るんだけどねえ。
ヴォーヴェライトはカップを置きカルテに向かう。
最後の一枚のようでペンは軽やかに動き回り、薄茶色の紙に字を滲ませる。
「人を治したいと言う意思が無かったといえば嘘になるが、
「解剖学とはまた特異な好奇心ですね」
「ふふ、昔にねえ。祖母の家に遊びに言ったんだ、それは田舎の家で鶏なんかを飼っていんだ」
彼は昔話を楽しそうに話ながら、解剖学者を目指した経緯を話す。
「年寄りは子供が来た事が嬉しいだろ、それで祝う為に鶏の一匹を鎌で絞めたんだ。首を持って鎌でスパット切った。私は鶏は地面に落ちて死んだと思った、でも違ったよ。鶏は首が無いまま二メートルほど走り回って死んだ、それからだ」
「――なかなか、変わった理由でありますね」
「子供ながらに気になったんだろうね、人もああなのかって。怖いとか気持ち悪いとか思わず、面白いって思ってしまったよ」
首を失い数週間の間、栄養素を注入して生き延びた鶏の話がある。
それに類似しているが、それがヴォーヴェライトの解剖学者を目指した理由だとしたらそれは、
――かなり歪んでいる。
ただ単に命の構造を知りたいと言う探究心から、死後の体を切り開いているのだ。
褒められた理由ではないだろう。
「おや? ターニャくんではないか」
ふと現れたヨーゼフ大尉が大きな死体袋を二つテントの中に担ぎこんできた。
黒の死体袋、敵国の魔導師が詰め込まれているのだろう。
「ようやく今日の本職だ。デグレチャフ少尉、すまないね今日の検診は終わりだ」
「いえ、こちらも長居をしてしまい失礼を」
「君ならいつでも歓迎だよ。そうだろうヨーゼフ」
「ああ、彼女は聡明だ。これの理解も早いだろう」
医者二人は死体袋を二・三度叩く。
解剖学の理解、という事なのだろうか。出来る事なら御免被りたい。
死体の匂いほど嗅ぐに耐えない匂いはない。
ヴォーヴェライトは診断書の山よりいくつかの心理診断書を取り出した。
「これと…これだな。君の部隊の心理診断書だ、君が求めていたのはこれだろう」
「ありがとうございます」
「また来てくれ。美味しい珈琲を振舞うよ」
ヴォーヴェライトの屈託のない笑顔が私を歓迎していた。
人生を全力で楽しんでいるようであった。彼は二人は死体袋をサンタクロースのプレゼントをこっそり開ける悪ガキのようにテントの奥に引っ込んでいった。
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