第20話 猫とスズメバチ
インターホンを鳴らしてドアを開けると、俺の足音を聞きつけていたのか、シャークは既に玄関に滑り込み、腹を見せて転がり回っていた。その後から
金曜の夜だけど、この家の主、
「すぐ帰るからさ。これを渡しに来ただけなんだ」
そして俺は、手にしていた紙バッグから、猫用のおもちゃを取り出した。これはいつぞや、
きっかけは先週、昼休みにかかってきた
「勇武さあ、今月いっぱいで失業するって言ってたわよね」
「まあ、そうだけど」
いきなり微妙な話題をふってくるので、周りの人間に聞かれないよう、俺は事務所から非常階段の踊り場へと移動した。
「で?その後どこ行くかは決まってる?」
「決まってない」
「よかった!じゃあ決まりだ」
「決まりって、何が」
「うちのダンススクールやってる会社がさあ、子供向けのアート教室を立ち上げるんだって。来年の四月開講で準備してるんだけど、講師が足りないらしくて」
「それで?」
「だからさ、あんた講師にならないかって話よ。お絵かきだけじゃなくて、全身を使って表現するってのがコンセプトだから、立体やってた人間がドンピシャ」
「でも俺、教員免許持ってないし」
「大丈夫よ、ちびっこ相手は免許よりもノリの良さが大事なんだから。あんたぐらい能天気なら絶対いける。年明けから企画を詰めるから、すぐにでも来てほしいって話よ。それとさ、あんた今どっかに居候してるじゃない?
「そんなの、戻れるわけないだろ」
「そっか」
「そっかじゃないよ、戻ったら殺される」
「それは考え過ぎじゃない?でもまあ、この件は私にも責任あるし、物件見つけてきたのよ。といっても、旦那が前に住んでたアパート。火事のせいで結局建て直しになったんだけど、まだ一部屋空いてるんだって。大家さんにお願いして、半年間だけ家賃半額で了解してもらったし、年内の家賃は私が持つ。破格の待遇でしょ?すぐ入れるから、この週末に引っ越しでいいかな。あんた荷物なんかほとんどないでしょ?土曜か日曜どっちがいい?」
「どっちって、俺まだ何も返事してないだろ?」
「やるしかないでしょ。そいでしっかりお金ためて、麻子にプロポーズ」
「いやだから、麻子とはもう終わってるし」
「そうかなあ。まあとにかく、この仕事はやるよね?引っ越しは土曜か日曜、どっち?」
で、結局俺は土曜に引っ越した。色々と勿体つけたところで、理沙のオファーは俺にとって渡りに船としか言いようのないものだったから。
彫刻モデルの話が流れてから、俺と美蘭の間には何となく気まずい空気があって、暗黙のうちにお互いを避けていたし、だからこそ俺は、一日も早く
しばらく居候させてくれそうな友達もいるにはいて、一人は飛騨高山、もう一人は奄美大島。こうなったらどちらかを頼って東京脱出か、或いは宿舎完備の派遣労働。最悪の場合はネットカフェ。とりあえず住む場所の心配が先にあって、仕事についてはイメージすら浮かばずに、ただ、どうにかしないと、という何かに追われるような感覚だけがつきまとっていたのだ。
引っ越し、といっても荷物なんてたかがしれていて、理沙が借りてきた軽バンの荷台はスカスカだった。まるで夜逃げみたいに慌ただしい作業を、美蘭はまるで面白い見世物であるかのように、壁にもたれて腕組みで見物していた。
「どうも!うちの勇武が世話になりました!」
立ち去る間際に理沙が大声であいさつすると、美蘭はとっておきの笑顔を浮かべ、「お世話だなんてとんでもない。勇武さんがいなくなると本当に寂しいわ」と、歯の浮くような台詞を吐いた。
理沙は調子に乗って「また、ちょくちょく遊びに来させますから」なんて言っている。もういい加減にそこらで、という気持ちをこめて俺が「じゃあ」と声をかけると、美蘭は「ちょっと待ってて」と二階へ上がっていった。
「高校生って言ってたよね。ずいぶんと大人びた子だけど、うちの野菜の仕事でバイトしないか、きいてみていい?」
理沙は美蘭に興味津々だったけれど、俺はもちろん「やめといた方がいい」としか言わない。その会話が聞こえたかどうか、美蘭はすぐに戻ってくると、手にしていた紙バッグを差し出して「これ、お餞別」と言った。
「いや、そんなに気を遣っていただかなくていいのよ」と、先に理沙が答えたけれど、美蘭は「勇武さんに、というより剛太くんに」と微笑むだけだ。仕方なくその紙バッグを受け取り、中を覗いてみると、猫用のおもちゃが入っていた。
「シャーク、ジャンプ!連続ジャーンプ!」
剛太は息を切らせながら手にした猫じゃらしを振り回し、シャークは疲れた様子など全く見せずに、紐の先ついたピンクの羽飾りめがけて力強い跳躍を繰り返している。剛太が腕を振るたびに、羽毛につけられた小さな鈴がチリチリと鳴った。
「剛くん、やり過ぎて、どこかぶつけたりしないでね」
春菜さんは呆れた様子で注意しながら、俺にコーヒーとバタークッキーを出してくれると、ソファに腰を下ろした。俺の知ってる彼女なら、家の中で猫がここまで大暴れするのを許すはずもないんだけど、今日はどこか様子が違う。彼女はただ、空気清浄器のリモコンを手にして「ターボ」に切り替えただけで、「シャーク嬉しそうね、よかったじゃない」と言った。
「ねえ、春菜さん、剛太がまた学校行くようになったって、本当?フリースクールじゃなくて?」
俺は剛太本人からきいていた近況を確かめるべく、思い切って尋ねてみた。
「そうなの。冬休みまであと少しだけだから、行く、とかって」
俺たちの会話は、猫じゃらしに夢中になっている剛太の耳には届いてなさそうだ。
「何か、きっかけでもあったの?」
「思い当たることは何もないんだけど、このまえ急に、この日学校に行く、って言い出したのよね。でもその日は私、お友達と歌舞伎を見に行く約束があって、送り迎えできないから別の日にすれば、って言ったのよ。だって、その少し前に狂言鑑賞会で登校して、からかわれちゃったから、また同じかもしれないと思って」
「まあねえ」
「でも何故だか絶対その日に行く、一人で大丈夫、って言い張るから、先生にもちゃんとお願いしておいて、登校させたのよ。そしたら、休み時間に教室にスズメバチが入って来たとかで、すごい騒ぎになったの。刺されてはいないけど、追い回されてパニックみたいになった子がいたりして。でも、その襲われた子っていうのが、例の事件で剛太のこといじめてた相手なのよ」
例の事件、というのはあの、貴志の「路チュー」記事だ。
「つまり、剛太としてはそれで溜飲を下げたというか、ざまあみろ、みたいな?」
「よく判らないけどね。剛太は自分じゃ全然その話をしなくて、私は学級委員をしてる子のママから詳しく教えてもらったのよ。でさ、変な話なんだけど、子供たちはそのスズメバチを、猫が操ってたって言ってるらしいの」
「猫が?どうやって?」
「なんかこう、前足を」と言いながら、春菜さんは両手を軽く握りこぶしにして、前後に振ってみせたけれど、それはまさに「猫踊り」だった。
「その猫ってね、黒猫じゃないけど、黒っぽい縞模様っていうか、シャークみたいな猫だったらしいの」
「つまり、シャークが学校に現れた?」
「でも絶対そんなはずないわよ。朝はちゃんとケージの中にいたし、私が帰った時はここで剛太と遊んでたし」
「そうだよなあ。第一、猫がスズメバチを操るなんてそんな」と言いながら、俺は頭の中で何かがパズルのように嵌まるのを感じていた。猫とスズメバチ、このキーワードに共通する…
「ねえ勇武ちゃん!」
ようやく立ち上がった俺の思考をぶった切るように、剛太が勢いよくソファに飛び乗ってきた。
「じいじにクリスマスプレゼント作りたいんだけど、手伝ってもらっていい?」
「いいけど、何を作るんだよ」
「シャーク。紙粘土で作って色も塗る。じいじはシャークのこと、立派な猫だなあって言ったから、本物と同じ大きさで作るんだ」
「なるほど。作り方は色々あるけど、まずはスケッチからだな。どういうポーズにするか、実物をよく見て、絵に描くんだ。正面だけじゃなくて、横とか、後ろから見たところも。気に入ったのが描けるまで、何枚も。それができてから、次に粘土を使おう」
「わかった。じゃあスケッチができたら電話するね」
とはいえ、俺という失敗例もあるし、剛太が気合の入った猫の粘土細工なんか贈ったら、親父は却って孫の進路を心配するかもしれない。春菜さんはそこまで深読みしてないらしくて、「今から作って間に合うかしらね」なんて言っている。
剛太の頭はとにかくシャーク一色らしくて、プレゼント計画の後にはパーティーの話が続いた。
「ねえねえ、今年はシャークが来て初めてのクリスマスだから、ちゃんとパーティーしようと思ってるんだ。ママはうちみたいに猫を飼うようになったお友達と、ペットショップの
「そうだな、土日か夜なら大丈夫だけど」
「じゃあ、来る方に入れとくね。あと、美蘭も来るかな」
「どうだろう。クリスマスは友達と約束してるんじゃないかな。代わりに
正直なところ、この家に再び美蘭を上げるのは危険な気がする。でもまあ、亜蘭は人畜無害だし、頭数を増やすだけならちょうどいい。
「亜蘭って誰だっけ」
「ほら、美蘭の双子の弟だよ。シャークがここに来たとき、一緒にいただろう?前もそんな話、したよな」
「あんまり憶えてない」
剛太はそう言うと、テーブルに手を伸ばし、バタークッキーを頬張った。
「全く、あいつ本当に影が薄いな」
そんな独り言を呟きながら、何気なくシャークの方を見ると、後ろ足で立ち上がり、左右の前足で優雅に舞っている。
「あーっ!」と思わず声を上げると、猫は俺を一瞥してから踊りを止め、何事もなかったかのように寝そべって前足の肉球を舐め始めた。
黒煙踊猫之始末(くろけむりおどるねこのしまつ) 双峰祥子 @nyanpokorin
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