第19話 後生ノ諸賢ニヨリ

「お腹すいたんだけど」

「じゃあ降りれば?運転代わるから」

 美蘭みらんは助手席にふんぞり返ったまま、そう言ってヒーターの風向を調節した。

「判った。でも財布持ってないから、お金貸してくれる?」

「嫌」

 僕は溜息をついて、少しだけアクセルを踏み込んだ。後ろから桜丸が「亜蘭あらん、千円でよければ貸すけど」と声をかけてくる。美蘭は「踏み倒されるわよ」と釘をさしてから、「そっちまで風いってる?」と確かめた。

「うん。ちゃんと暖かいよ」

 答える桜丸の腕には、膝掛に包まれた三毛猫の小梅こうめが抱かれている。壁の隙間にもぐりこんで、動かなくなってたのを引っ張り出して、主治医の安田先生のところへ担ぎ込んで。あれから何時間経っただろう。勇武いさむは小梅が死にかけてる、というような事を言ったけど、あながち外れでもなくて、診断によると初期の肺炎らしかった。

 点滴を何本か打たれ、身体を温められている小梅の傍で、美蘭はずっとその背中を撫で続けていた。時おり「小梅、頑張れ」と声をかけたけれど、僕には傍へ寄らせてくれなかった。理由は判ってる。もし僕がうっかり小梅と接触してしまったら、そのまま引っ張られる可能性があるからだ。下手をすると、あの世まで。

 でも、美蘭の励ましが届いたのか、この世にまだまだ未練があるのか、徐々にではあるけれど、弱かった小梅の心拍は力強くなり、安定を増していった。そしてうっすらと目を開くと、かすかに聞こえる声でビャアと鳴いた。

 小梅はとにかく病院嫌いで、ずっと昔、避妊手術を受けた時の入院でストレスが昂じて死にかけたことがあるらしい。だから安田先生は、何かあればすぐ往診するという約束で、醒ヶ井さめがい邸に連れ帰ることを許してくれた。

 もうとっくに日付は変わっていたけれど、僕らは飲まず食わずのままで、正直いって車に乗るまで空腹すら忘れてしまっていた。


 なんだかんだ言っても、美蘭の機嫌はそう悪くなくて、僕らはどうにかコンビニに寄ることができた。一番品薄の時間ではあったけど、文句は言えない。売れ残りのおにぎりと、出汁の煮詰まったおでんが僕らの遅すぎる夕食、或いは早すぎる朝食だ。そして醒ヶ井邸に戻ると、美蘭は桜丸が抱いてきた小梅を自分のベッドに寝かせ、ペットボトルで作った即席の湯たんぽもタオルに包んで入れてやった。

「元は鬼怒子きぬこさんのベッドだしさ、やっぱりこの子が一番好きな場所だからね」

 美蘭は疲れた、と口には出さないけれど、長い溜息をついてからベッドに腰を下ろして「おでん」と言った。

「え、下に置いてあるけど」

「あんた私が今、この状態で、小梅ほったらかして、おでん食べに降りてくと思ってんの?」

 まあそれも正論なんだけど、としぶしぶ納得しながら、僕は玄関に置きっぱなしにしていたコンビニの袋をとりに行った。居間から明かりが漏れているので覗いてみると、ソファで勇武がいびきをかいていた。僕らのこと、待ってたんだろうか。よく判らないけど、ここで目を覚まされるとおでんの取り分が減りそうなので、僕は傍に畳んであった小梅用の毛布を広げると、彼が安眠できるように肩までかけておいた。


 それから三日ばかりすると、小梅は嘘のように復活した。もちろん安田先生は何度か往診してくれたし、僕は小梅マニュアルに従って、小田原まで極上の干物を買いに行かされたりしたんだけど、それでもやっぱりこの三毛猫自身の生命力が半端ない気がして、こういうのを猫又と呼ぶんじゃないかと思った。

 桜丸はバイトと学校の合間を縫って、毎日小梅の様子を見にきたけど、もしかしたらそれは口実で、美蘭の部屋に入るのが目的だったのかもしれない。何故なら、小梅が復活して、あちこちうろつくようになった途端に、見舞いに来なくなったからだ。まあ単に、安心したのかもしれないけど。

 僕がここまで二人の仲を疑うのには理由がある。どうも桜丸は、クリスマスに長野に星を見に行こうと、美蘭を誘ったらしいのだ。「だから、小梅の世話はよろしく」と、当然のように言われても納得がいかない。


 ともかく、小梅が元気でいてくれると、わけもない安心感がある。僕は彼女が再び食べるようになった、「猫貴族」の「マグロ赤身とトロの饗宴」を餌入れに移してから、自分も朝食のグラノラをボウルに入れた。そして冷蔵庫を開けると、牛乳がない。隅のテーブルでは制服姿の美蘭が、ボウルになみなみと注がれたカフェオレを飲んでいるところだった。

「牛乳、全部使ったの?」

「文句があるなら、もっと早起きすることね」

 文句も何も、と僕が口を開こうとしたところへいきなり、けたたましい音をたてて何かが窓にぶつかった。朝食に口をつけようとしていた小梅は、老猫とは思えない勢いで飛び上がると、物陰に身を潜めた。

 すりガラスの向こうの、黒いシルエット。思わず美蘭の方を見ると、苦々しい顔つきで「開ければ」と言わんばかりに顎をしゃくってみせる。

 仕方なく窓を開けると、大きな鴉が羽音も高らかに舞い込んで、冷蔵庫の上にとまった。相変わらず、人を見下す場所が好きなのだ。僕らが何も言わずにいると、鴉は「ご挨拶はなしかい?」と不機嫌な声をあげた。

「おはようございます」と美蘭が平坦な口調で言い、僕もその後に続く。鴉は「相変わらず礼儀正しいことだよ」と呟き、「あんたたち、またひと騒動やってくれたらしいね」と言った。

「何かしら、心当たりないけど」

「じゃあ聞くけどね、小学校の教室をスズメバチが襲撃して、それを猫が踊りながら操ってたなんていう学校の怪談めいた話が、どうしていきなり広まったりするんだい」

「今時の子供ってさ、色々とストレス多いから、集団ヒステリーみたいなもんじゃない?」

 美蘭は頬杖をついて鴉を見上げながらそう言うと、スプーンにとっていた蜂蜜をゆっくりと舐めた。

「なるほどね。ところがその騒ぎ、ひいらぎ貴志たかしの息子のクラスで起きたらしいじゃないか」

「あら、すごい偶然」

 わざとらしくそう言うと、美蘭は舐め終わったスプーンをボウルに入れた。

「柊貴志といえばさ、玄蘭さんにけっこう値のはるシャンパン、贈るつもりみたいよ」

鴉は勿体つけて首をかしげると、「それはまた、有り難い話だこと」と返す。

「あんたらの父親も、政治家を目指してるだけあって、気がきくようになってきたじゃないか」

 僕はこの、作為的な会話を聞きながら、この前のことを思い出していた。

 帰ってくるためのおまじない、なんて名目で剛太ごうたのマンションの鍵をシャークの首輪につけさせたけど、「五年A組襲撃」なんてのはただの遊びで、本来の目的はこっちだったのだ。

 美蘭は剛太が戻る前にマンションへ上がり込んで、貴志と春菜はるな、それぞれのパソコンの履歴にあるパスワードやID、カード番号にセキュリティコード、更には使っていない商品券までちゃっかり頂戴してきた。僕には何もくれなかったけど。

「まあ、色々お世話になってますって、お礼かしらね。シャンパンは今、フランスから空輸の手配をしてるらしいから、クリスマス頃には届くと思うわ」

「それは大いに結構。それじゃ、あの家に送り込んだ猫はさっさと捨てておいで。用済みだし、あいつを口実に、事あるごとに馬鹿女が宗市そういちを呼び出すんだから、鬱陶しいったらない」

「まだ使い道はあると思うからさ、もうしばらくは置いとくつもり。宗市さんの事は何とかするわ。とりあえず、ダミーの結婚指輪でもさせとこうか」

「趣味の悪い話をするんじゃないよ」

 鴉は心底不愉快そうに嘴を開き、翼を広げてみせた。美蘭は「あら失礼」と肩をすくめてから「ねえ、ついでなんだけど、ちょっと見てほしいものがあるの」と立ち上がり、キッチンを出て行った。鴉は「こっちはそんなに暇じゃないんだよ」と言いながら後に続き、なんとなく僕もついて行った。

 美蘭は廊下を急ぎ足で進み、アトリエに入ると、まっすぐにあの、壁に開けた穴のところまで行く。鴉はスピーカーの上にとまり、穴を凝視するように首を伸ばしてから、抑揚のない声で「何の真似だい、これは」と言った。

「だってしょうがなかったのよ。小梅が入り込んで、出てこなかったから」

「あんな年寄り猫なんざ放っておけばいいんだよ。遅かれ早かれ死ぬんだから。それを何だい、こんな馬鹿やらかして」

「まあそれが、馬鹿ってほどでもなかったのよ。ちょっと中のぞいてみてくれる?」

 美蘭は穴の傍に膝をつき、壁に立てかけていた木片を少しずらした。鴉はふわりと舞い降りてくると、「あんたまさか、それで私を閉じ込めようってんじゃないだろうね」と、うさんくさそうに言った。

「玄蘭さん本人がくたばるならやる価値ありだけど、鴉だけじゃ意味ないわ」

「口の減らないガキだ。だいたいこっちは暗いところは得意じゃないんだ、明かりぐらい用意できないかい」

「アポなしで来るんだから、しょうがないじゃない」

 鴉はしぶしぶ、といった足取りで穴の中に入り、しばらく黙っていたけれど、「全く、驚いたこと」と、首を振りながら出てきて美蘭に向き直った。

「ありゃ一体、何だい」

醒ヶ井さめがいまもるの、幻の作品って奴」

 そう言って、美蘭は穴に頭と腕を突っ込むと、何か取り出してきた。

「この紙が一緒に置いてあった」と、手にした便箋のようなものを披いて床に置く。鴉はそれを覗き込むと、面白そうに読み上げた。

「後生ノ諸賢ニヨリ吾ガ作品ノ真ニ理解サレルヲ欲ス。随分と買い被ってらっしゃるようだねえ」

「出品拒否されたの、よっぽど悔しかったのかな。壁の裏に隠しちゃったりしてさ」

 美蘭は便箋をたたむと、穴の中に戻した。

「でさ、この彫刻、管財人に内緒で運び出して、しばらく隠しとこうと思うんだけど」

「ほとぼりがさめた頃に売りに出す、か」

「だからさ、まずここから運び出すのと、外した壁を綺麗に修理するのと。仕事する人間はこっちで探すから、費用の方をお願いしたいんだけど」

 美蘭の依頼を聞いて、鴉は嘴をこれでもかと開いて大袈裟な威嚇のポーズをとった。

「結局また金の無心かい。ま、利息はたんまりつけて返してもらうからね。それにあんた、誰かにこの彫刻を作らせてただろう。そっちはどうするんだい」

「ベトナム人のトランさんね。まあ、ちょっと路線変更してもらって、オリジナル作品として現代アートのオークションに出すつもり。けっこう行けるんじゃないかな」

 この二人は金儲けの相談をする時だけは、何とか穏やかに話ができるみたいだ。僕は自分にとっていい話が全く出てこないので、馬鹿らしくなってその場を離れた。キッチンに戻ると、すでに朝食を終えた小梅が念入りに髭の手入れをしていて、僕をちらりと見上げると、「ビャア」と鳴いてみせた。





 

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